こんなにお天気が不安定だとハワイの空が恋しいです・・・


私がhawaiiについて研究をし始めてから色々と「楽園」の裏側を知ることになった。

といっても私は現地に知り合いがいるわけでもないので伝え聞いたところだけだが・・・


前に話したけれど日本人移民がハワイへと船出して多くの人が苦難を乗り越えてきた。

その間にも様々なエピソードがあるけれど特に私が注目したのは彼らの作業着だった。

丈夫なシャツともんぺやズボンなどを自前であり合わせの布で作っていたのだ。

彼らの周囲にある布と言えば自分たちのきものや帯、お米を入れた袋などくらいしか無かった。

それを色々な方法で自分たちの着るものに変えて行ったのだ。


なぜ工夫が必要だったのか?

それは日本から持ち込んで来たきものや帯ではhawaiiでは暮らしていくことが困難だったから。

常夏のハワイにきもの姿では暑すぎて無理。

その上にさとうきび畑での作業は過酷を極めためだ。

hawaiiに行ったことがある人はオアフ島を北上するルートでノースショアまで行ったことがあるだろう。

あのルートの道のそばにはたくさんの野生化したさとうきびを見ることができる。

昔あの辺は一面さとうきびやパイナップルの畑だった。

野生化したさとうきびはあまり大きくならない。

でも常に下草を払い整えておくと人間の背丈以上に伸びて大きな木になる。

しかしさとうきびは青々しているときには食べても甘くはない。

葉っぱが枯葉になるくらい熟さないと甘くないのだ。

この枯葉がクセモノ・・・

まるでナイフのように鋭い切れ味で触れた者を傷つけるのだ。

観光で訪れたときには道々にある枯れかかったさとうきびを見て昔の日本人の苦労を思ってほしい。

彼らはそれらを手で切り倒し持ち運んでいたのだということを・・・

だからさっき言った衣服の工夫が必要だったのだ。

手甲や脚半などを身に付けなければ作業するたびに傷だらけになってしまうからだ。

防護していてもずいぶんと深い傷を負ったそうだ。

もし、日系人1世の人が生きていたらその人の手を見てもらえば分かるだろう・・・

その苦労の跡が。


わずかな賃金で働き日本に送金していた。

おまけに最初に聞いていた賃金よりも安いことさえあった。

彼らはコツコツと働きそして自分たちなりの文化とhawaiiや白人文化とをミックスしてより生きやすい生き方を模索した。


私はhawaiiを訪れるたびにその歴史に多くの日系人の努力があったんだろうなと思いながら街を巡る。

もちろん遊びに行っているのだけど・・・

某超高級ホテルのエステサロンに行ったときにたまたま担当の人が日系人の女性だった。

彼女とたわいない話をしていたがやがて彼女は一度だけ幼いときに「盆ダンス」に浴衣を着せてもらって参加したことがあると嬉しそうに話してた。

彼女に言わせると今では日系人でもきものや浴衣が着られないのよとちょっと寂しいそうだった。

でもすかさず私は今じゃ日本人も着られないんだから仕方ないかもねと言うととても驚いていたけれど・・・

そして顔を輝かせながら必ずもう一度浴衣かきものを着たい!と彼女は言っていた。

そんな人たちと出会ったことが今の私の仕事を始める動機につながっている気がしている。

私にとってはなぜだかとても縁がある場所、そして大切な場所。

仕事にかまけて行ってないけれど・・・

今年こそ!と密かに思っている。(笑)