偉大な才能も、いつかは”涸れる”という事だろうか。

 かなりの”老齢”にさしかかれば、その説も納得がいく。

 おそらく、才能には、ある局面、二種類が存在するのだろう。

 1つは、草創期から円熟期に至るまで、堅実に腕を磨くタイプ。

 そして、若くして神から授かった能力を爆発させ、緩やかに衰退するタイプ。

 

 リュック・ベッソンの真意は分からない。

 もしかしたら、最近は、単純にふざけているだけなのかも知れない。

 もともと、コメディ的な人でもある。

 

 ただ、彼のキャリアは「レオン」で頂点に達し、それ以降は、緩やかな衰退を重ねているように思える。

 この映画は、子供でも分かりやすいストーリーに加え、軽妙にシリアスな内容を鑑賞者に丸呑みさせる、希有なリアリティがある。

 あくまでも、「映画的なリアリティ」だが。

 

 そしてなにより、あと半世紀は追随者を許さない、完璧な仕上がり。

 監督は脚本をわずか数日で書き上げたらしい。その前に、「ニキータ」を終えているわけだから、その興奮や臨場感が、この作品を後押ししたことは確かだ。それが「殺し屋」という存在を、よりブラッシュ・アップした事は、間違いないだろう。

 

 もちろん、監督自身がのちに発表した、ディレクターズ・カット版は、たしか公開時より、20分程度、増えているはずだ。

 この20分が、レオンとマチルダの関係を、完全な「男女の恋」に肉薄する内容を与えている事は、有名だろう。

 

 どのバージョンにしろ、「小さな世界を、無垢で利発な少女にこじあけられた男」と、

 「人生で初めて優しくしてもらった男性を、父親という型を超え恋人と思い込んだ少女」の、歪ながら純粋に心を通わせる二人の、

 かなり奇妙なラブ・ストーリーは、鑑賞者にさまざまな感情や想いを抱かせる。

 

 この映画は、繊細な万華鏡のように美しい。

 二人の年の差が開いているからこそ、人生の様々な段階で訪れる感情が、まばらに全て詰め込まれている。

 まるで、欠落した人生を、時空を超え、必至に取戻そうとするような、哀切さを含む蜜月が、スリリングに、しかし心地よく綴られる。

 

 どうやって、この天才的な脚本を、わずか数日で仕上げる事ができるのか……。

 ……たまに地上では、「奇跡」が起きる。それくらいの説明しかできない。

 

 しかし、脚本の段階で、確実に言える事だが(と思うが)、スタンスフィールド捜査官は、「非現実的」な悪役として、

 なんとなく、安っぽく見えた事だろう。よくあるアクション映画の、頭のねじが10本くらい緩んだ悪党だ。

 そして、ゲイリー・オールドマンが、リハーサルを重ね、現場で演じる。

 脚本が役者によって瓦解(がかい)する瞬間だ。文字通り、完膚無きまでに、瓦解する瞬間。

 彼の演技なくして、「レオン」は完成しなかった、とさえ言える。

 

 さらに幸福な事に、ジャン・レノと、チャーリー・テンプル級の逸材と言えるナタリー・ポートマンが、舞台の中心で演じればいい。

 それだけで、この映画は既に、成功していたと言える。

 

 リュック・ベッソンは、ここにおいて、自らの最盛の能力と、惑星直列の如き希有な役者陣を揃え、

 完全に絶頂に達した。

 だからこそ、その後の彼のキャリアが、徐々に霞んで見えてくるのは、致し方ない事かもしれない。

 「TAXi」シリーズや他のアクション映画の、テーマパーク風の脚本の仕上がりは、「レオン」をより大衆向けにした、その残骸とも言える。

 

 とにかく、「傑作」をほしいままにした、と言える作品「レオン」。

 

 どんな”いい映画”にも言える事だが、本筋を大胆に掴みながら、その各所を彩る人間の仕草や感情を丁寧に描く事が、この映画も出来ている。これが映画を完成させる”珠玉”の部分であり、本筋は”パッケージ”のようなものだ。

 J・J・エイブラムスが「ジョーズ」の最高のシーンを、「サメ」ではなく、「出港する前の主人公と彼の息子の会話」を上げたが、それと同じ理屈だ。「レオン」に関しても、それを”観て”発見するしかない。

 

 また、”映画”という魔法の、なしえる妙だと思ったが、

 大都会の撮影はご存じ「ニューヨーク」、最期のアパートの撮影は「パリ」で行われている。

 これは、映像に、鮮烈ともいえるニュアンスを、静かに与えているように思える。

 

 内向的なアパートに対し、古いパリの雰囲気が重なり、それは「レオン」を想起させ、

 外向的な大都会に対し、新しいニューヨークの雰囲気が重なり、それは「マチルダ」を想起させる。

 しかし、「孤独な殺し屋」は、あきらかに威圧的なニューヨークと重なり、

 「利発な少女」は、穏やかで美しいパリと重なる。

 

 これは結局、意図して出せる演出ではない。

 なにか不可知の、しかし衝動的に響く”何か”を、鑑賞者に与えてくれる。

 おそらく何か”愛おしい”ものを。

 

 それが90年代の、まだITの節操ない波が押し寄せる前の、今よりいくらかレトロな物質文明の中で、眩しく輝く。

 つまり、映画とは、”ありのままを映す”ことが、一つの真実かもしれない。

 それは、必ず、観る者に伝わるのだ。

 そういう意味で、この映画の"純度”は、非常に高い。

 

 子供の頃、映画の最期に納得いかなったが、

 今はこう解釈できる。

 レオンは、「払うべき代償」を払った。それが、あのラスト・シーンだ。

 必至になって、光に突き進み、光を掴んだと同時に、自分の過去の闇と相殺されたのだ。

 そして、レオンも、それを快く受け入れたに違いない。

 結局、彼を本当に"自由”にしたのは、マチルダだったのだろう。

 

 なにより、暗転する意識の中、レオンの視点でカメラが描く、アパートの玄関の外の光。

 清いくらい、温かい陽光。

 そして、マチルダが歩く歩道の、柔らかい木漏れ日のカットへ、スムーズに切り替わる。

 レオンが見ることを望んだ光を、代わりに全身に浴びながら、マチルダが前へ向かって歩く。

 

 これほど、「編集」が意味を持つカットは、そう多くはないだろう。

 それを言うなら、「観葉植物」というメタファーの使い方も、この編集の崇高な技に匹敵するレベルだ。

 

 https://movies.yahoo.co.jp/movie/25289/