人それぞれが持つ「距離感」というものはその人によってまちまちなんだと思う。これはなにも物理的なものに限ってでわなく、人との付き合いのそれに対しても言えるよーな気がする。たとえば、みんなでお酒を飲んだ時にたまたま居合わせた人でも友達の友達なら、そりゃ友達だよね、ってなタモリ的な感覚の人もいれば、同じクラスや職場の人でも、ぶちゃっけトークができなきゃそんなの他人ですしフフン、ってな人もいらっしゃる。おいでになる。で、あんたわどーなのよ、と聞かれると、そりゃ時と場合によりけりなんだけどねアハハ。

 しかーし。最近ちょっと気づいちゃったんだけど、っつーか、ずいぶん前から気づいてたけど、ここでこっそり囁いてみると、物理的な観点から見ても対人関係の観点からちらりと覗いてみても、日本人の「距離感」はその他の国の人に比べて鬼のよーに遠ぃいんぢゃねーだろーかと。

 さっきオレが自ら書いた「そりゃ時と場合によりけりなんだけどね」ってゆーのも思いっきり日本人的な回答っぽい。ソニーの国の人の回答っぽい。「アハハ」っつーのもごまかして笑っているよーで、こちらもまた思いっきり日本人的な笑いっぽい。トヨタの国の人の笑いっぽい。答えをその場でハッキリ出さない。……ま、オレの場合はハッキリ出せないだけなんだけどね。えーん。

 しかし、欧米人…とひっくるめて言っていいのかどーかよくわからんのだが、とにかく日本人以外の人と話すと、例えば一緒にどこかに行こうという話になった時、「イエス?ノー?」「どこに行きたい?」「何がしたい?」「何が食べたい?」「何が見たい?」「何時がいい?」「それからどーしたい?」これが彼らなりのやさしさだと気づくまでに時間が必要だった。しかし、日本的な心のやさしさを持つオレは「いやぁ、そんなにいろいろオレ一人が決めてもねぇ。ぶっちゃけ、何でもいいんだけど」と心の中で独りごちながら、考えてるフリをして、周りの人が答えを出すのを待ちつづける。

 一人の人に決定権を与える欧米的なやさしさと、周りの人が納得いく答えについて行く日本人的なやさしさ。やさしさが背中合わせ。おなかと背中がくっついちゃう。ま、意味わかんないけど。……って、ぜんっぜん話がまとまらねぇ!堂々巡り。ドゥードゥーめぐり。おそらく彼らからしてみれば、「あまりノリ気ぢゃないのか?心を開いてないのか?こいつわ」と思われても仕方ないハメになっちまうのであった。

 物理的な「距離感」にしてもしかり。オレはゆっくり座って話をしながら飲みたい。しかーし。バルに入ると、いすがあっても、こいつら座らない。テラス以外は立って飲んでも座って飲んでも料金は一緒なのに、たぶんそーいう細かいこと抜きに、動物的な本能で「人の側がいい」と思っているんだろう。片手にビール、片手にタバコ。満員電車ばりの込みまくりの場所に嬉しそーにしゃべりながら自分の場所を確保する。……いや、確保できてなくてもしゃべれればこの人たちオッケーなよーですねアハハハ。人ごみ大スキ。しゃべるの大スキ。踊るの大スキ。人ごみで。

 わかった。君の言うことはよくわかるよ。ただ……顔が近い。