今朝、詩篇を読んでいて、ふと思ったことを書きます。
今日は、娘も参加してくれました。
今、詩篇の7篇を読んでいます。
シェアしたい聖句がこれです。
神は正しい審判者。
日々憤る神。
詩篇7:11
神様は完全な愛で、
その完全性というのは言葉に尽くせないほど完璧です。
でも、同時に、神様が裁きの神様であるということ。
これもとっても大切な真実です。
人は、神様のこの裁きについて、
恐れを抱きやすいところがあるなと思います。
神様のことを以前は誤解していたという方が、
「とっても怖い神様」
「罰を与える神様」
だと思っていた。
という話を聞いたことがあります。
両手を組んで、足を組んで、
君は〇!君は×!などと、
レッテルを貼っているような神様を、
イメージしていたのかもしれません。
人間の中には、誰でも、
神様から離れた部分があります。
私たちは神様に似せて造られて、
愛する心を持っているけれど、
完璧ではないんですよね。
完璧ではない、
つまり神様ではないということです。
私たちの人生の目的は、
神様になることでもないし、
神様のような完璧になることでも全くないんですね。
むしろ、どっぷりと神様の愛に浸って、浸かって、
神様に頼っていくのが人生です。
ただ、誰しもが持ってしまう、また持っている、
神様から離れた部分が、
まさに裁かれるということに反応するんです。
なぜなら、神様の性質とは違うものだから。
私は、裁く神様であるというのは、改めて、
愛でしかない、救いでしかない
とつくづく感じます。
例えば、子供を一時保育に預けるとします。
そこの大人たちが、愛のある大人たちです。
子供たちを愛してくれています。
でも裁くことが全くなかったら?
つまり悪い人がやってきたり、
悪意を持った人がいても、
全く裁くことがなく、
ただ、笑顔で、
絶えずのほほんと受け入れていたら?
どうでしょう?
・・・
そんな場所に、
親は子供を絶対に預けたくありません。
裁くというものがあるからこそ、
愛がある。
嫌いなものがはっきりしているからこそ、
好きなものがはっきりしてくる。
愛さないものは何なのかがわかるからこそ、
愛というものがますますわかる。
神様を全ての人を愛してます。
言葉通り全ての人です。
でも、神様をはっきりと、
罪を嫌っているんですね。
愛がない心を嫌っているんです。
だからこそ愛がますます生きてくる。
愛がますます燃えてくるんです。
何でもかんでも受けれる。
何でもかんでも良しとされる。
そうじゃない。
愛っていうものをやはり愛であり、
愛以外のものは愛ではない。
ここをあやふやにしない。
裁く部分の神様に怖さを感じる時って、
どこか、なあなあにしようとする、
濁ってる部分も、
濁ってないように見ようとする
そんな心があるようにみえます。
神様の愛というのは、
本当に混じりけがなく、純度100%。
ピュアでクリーンな愛です。
その愛の神様が今日も導いてくれます。
素晴らしい1日を送って下さい。
✨✨✨