カレンダーを見る。月という概念を消滅させる。ばらばらになった日の単位のカードを、今日を含む自分が死ぬ日までの分を集め(両手では抱えきれないかもしれないな)、まるでトランプの束を床にのばすかのように無限の廊下に並べてみる。
自分を今日という日のカードの上にputし、すごろくゲームを始める。カードの上は空白だったので、僕は好きなこと、今自分が最も書きたいことを、どこからともなく現れたマジックペンで夢中で書き殴る。それを夕暮れ時まで続ける。1日が終わると、サイコロが振られる。振られる目はすべて1だ。目が出たら、自分は1つ前のマス(カード)に進む。そんな毎日をひたすらに続ける。
何度繰り返したかわからない日、マスが残り少ないことに気づく。最後のマスの先に目をやると、広がっているのは闇である。僕は底知れない恐怖を感じ、思わず後ろを振り返る。目の前に現れたのは、またしても闇であった。闇に囲まれてしまった僕は恐怖で発狂しそうになる。
僕は思考し始める。なぜ自分は闇に包まれてしまったのか。なぜこのような恐怖の中にいるのか。平穏な日々はどこにいってしまったのか。
僕は思い出す。自分はすごろくゲームをしているのにすぎないのだと。マスが途切れているのは、ゴールが近いからである。では後ろの闇は?
僕はもう一度後ろに目を向ける。またもや闇が広がっているように見える。僕は闇の正体をつかもうと、じっと目を凝らす。すると、一筋の黒色のロードが浮かび上がってくる。さらに目を凝らすと、黒色のロードは、黒色の文字がぎっしりと詰まった1つ1つのマスの集まりであることに気づく。一筋の黒色のロードは、自分がマジックペンで夢中で書き殴ってきた跡だったのだ。
遠くの方に目をやる。真っ黒な道が無限に続くかと思われたが、徐々に黒色は薄れ、遠くの方には白色の隙間があるように見える。
思えば、すごろくゲームを始めて間もないころ、後ろのマスの隙間が気になり、焦り不安になり、隙間を取り返そうと躍起になり、疲れ果てて白色のままマスを進めることが多々あった。また、目の前の無限のマスに頭を抱えてしまったりこともあった。
そのたびに、これはただのすごろくゲームであり、始まりはカレンダーであることを思い出すと、少し安心したものだ。そんなこんなですごろくゲームを続けていると、次第に後ろの白黒グラデーション豊かなマスは微笑ましく、目の前の無限のマスには大いなる安心感をもつようになり、いつの間にかこれがすごろくゲームであることすら忘れてしまっていたようだ。
久々の感覚に満足した僕は、ふたたび前を向く。ちょうど夕暮れ時なようだ。サイコロが振られる。驚いたことに、サイコロの目は1ではなく、『?』と示された。これに疑問を抱くほど僕は老いぼれてはいない。残りのマスを軽快なステップで飛び歩いた後、僕は一気に闇の中に飛び込んだ。
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こんなうまくいくんかね人生って。あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
この文章を書いた目的は私の孤独をいやすためだし、この文章を書いて投稿することで私の今日というマスがどれだけ黒色に染まるのかはわからない。努力と堕落は等価かもしれないし、それを理解できるほど人間の性能はよくないし、二元論的に考えている時点で明らかに自然界よりは下位な存在だし、全ては無意味とするなら無意味だし、価値あるものだとすれば価値のあるものになるし、縁起的運命を否定できないからこそ目の前の幸福を掴みにいかずに不透明な未来に自分を投機してしまうんだろうなあ。
まあ変わらず今日も頑張りますよ。きっと明日もね。こんな風に死ねるといいね。途中でマスから降りて闇に身を投じるのはナンセンスという認識かな、僕の中では。マスから降りてすーっと廊下逆走してカレンダーを見る前に戻るのはいいと思うよ。できたら僕もそうしたい。みんなもがんばれー。
「共感性羞恥っておいしいよね。それって、嫉妬でもあるし。」