パニック障害は、乗り物=一番多いのは電車=のなかで、あるいは人混みのなか、美容室、歯医者、あるいは夜一人の時等がきっかけで発症することが多い。その発症したのと同じ
状況にあるとパニック発作を再発しやすい。従って、そういう状況を避けようとする。電車に乗りたがらない、人混みを避ける、歯医者を怖がる、など。すると広場恐怖、閉所恐怖などの恐怖症が出来上がる。精神および行動の障害の国際疾患分類(ICD-10)では、これらの恐怖症とパニック障害が別項目で記載されていて、広場恐怖のなかにパニック障害をともなうものと、ともなわないものという下位分類があるが、私の臨床的体験では初めてパニック発作を体験した発症状況は鮮烈に脳に刻み込まれ、同じ状況でパニック発作をひきおこすかきわめて強い不安にさらされる。パニック障害を伴わない広場恐怖というのは、広場を回避しているものと考えられる。広場恐怖に限らず、○○恐怖症は○○を回避するのでその限りでは平穏である。だが恐怖症は治らない。また、パニック発作をひきおこす状況が特定されないパニック障害(すなわち恐怖症をともなわない純粋のパニック障害)はきわめて少ないと思われる。
パニック障害を独立させているのは、原因論を排除しているDSM-Ⅳの影響で、パニック障害等が脳の警報システムの問題として語られ、不安の精神病理はほとんど語られなくなったことと関連している。
私は、PTSD(外傷後ストレス障害)で学んだのだが震駭的(強烈な)体験は脳に傷を与える、すなわち脳を変化させてしまうということを疑わない。パニック障害をもたらす孤立無援の絶望的体験はPTSDほどでないにせよ脳に大きな変化をもたらしているだろうことに異論はない。今、すべての精神疾患についての脳の研究が主流で遺伝子的研究がそれに続き、臨床にたずさわる精神科医達までもその解明を待っているかのようで、精神病理を論ずるのは過去のことのような風潮にある。
しかし、それでは生身の患者さんのすぐれて個別の病気体験を「分かる」ことはできない。
精神疾患の脳病理や遺伝子が解明されても、それは一般論的に理解できることだけである。
個別の病気体験を体験として「分かる」ことがないと患者さんは苦しみを「分かって」くれたとは思わないだろう。「分かる」「分からない」などどうでもよい、病気が治ればそれでいいという考えもあるだろう、そういう風潮のなかで薬物療法とスキル化された「精神療法」だけで、精神病理に基づく精神療法に無関心な精神科医が増えているようだが、それは脳と遺伝子の解明を待ってアポケー(判断停止)に陥っている(ポケーとしている)と私には思われる。
個別の病気体験を少しでも「分かる」には精神病理を探究しなければならない。
精神病理学の復権が望まれる。恐怖症というすぐれて心理的要因が大きい疾患については特にそれが重要である。うつ病概念が拡散している現状を嘆く声が大きくなったが、これも診断学が操作的診断学といって本質論を回避しているものが主流だからに他ならない。
精神病理学を排除しない診断学によるうつ病概念の再構築が求められている。
それはともかく、広場恐怖症や閉所恐怖症とパニック障害の理解に精神病理学的アプローチが近年ほとんど見られなくなったのは残念である。
私は、この傾向が強まってきた11年前に、「広場恐怖を伴うパニック障害の発病状況と精神病理について」という小論を地方の医学会で発表したが、今でもその趣旨は考えとして変わらない。
閉所恐怖が広場恐怖に含めて扱われることになっているようで、ICD-10にもDSM-Ⅳにも閉所恐怖は論じられていないが、広場恐怖よりも閉所恐怖の範疇にある症例が多いというのが私の臨床体験である。精神生物学的機構を想定したD.F.クラインも広場恐怖を発症する前に閉所恐怖を発症している例を示している。電車恐怖は広場恐怖を現すものには違わないが、閉所恐怖でもある。身動きできないほど満員の電車ほどパニック発作をきたしやすい。自由拘束状況が赤裸々になると閉所恐怖が際だつ。エレベーターのなか、映画館、渋滞の車のなか、歯科の椅子の上、理髪店、美容院の椅子の上、MRIやCTの検査台等々閉所恐怖をおこしやすい場面をパニック障害の患者さんは挙げる。つまり自由拘束的状況に弱いのである。広場恐怖は微妙に違う。自由を希求することは同じであるが、拘束されることへの忌避が閉所恐怖の本質であるのに対し、広場恐怖は自由と安全の相克の問題、既成の価値や倫理に逆らう孤立無援の試みに伴う不安、秩序への回帰願望との葛藤をなかに持っているケースがしばしばある。すなわち広場恐怖は自ら打って出る=出立の不安を示している例がしばしばである。それは原家族からの巣立ちの不安であったり、原家族のなかの棟梁としての不安であったり、現家族からの離脱願望(原家族への回帰願望を含む)であったり、現家族も原家族も喪う根拠地喪失の怖れだったりする。症状の強弱はその孤立無援の程度、自由希求と回帰願望の葛藤の大きさによる。
1871年広場恐怖をはじめて論述したウエストファールの症例では、西欧独特のアゴラ=円形の広場の薄暗い人通りの少ないところを横断するのだが娼婦の腕を借りるという意味ありげなもので、現在の賑やかな人中に出るイメージと大分異なり誘惑的なものに身を投じる名状しがたい不安を表した。またフロイドが不安神経症で症例として挙げたものも我が子の死や夫の死をなかば期待して思い浮かべての不安という反倫理的なもので、こうしたケースにも今でも出くわすが、多くはより穏やかな現家族からの離脱願望や原家族からの出立不安である。
パニック障害の人は、自由希求度が大きいことは再三述べたが、それはバイク好きが多いことにも現れている。交通事故の危険性は四輪車よりも高いにもかかわらずその方は無頓着で、四輪車よりも自由度が高く渋滞がないこともその理由であろう。
また、彼等はスタイリストである。みっともないところを人に見られることを人一倍嫌う。
嘔吐恐怖をときどき伴うが、電車のなかで人混みのなかで吐いたらどうしようという恐怖がある。また、こうした特性は自分の弱点を知られたくないという点で、精神内界を語りたがらず、表面的な症状の話だけに終わり、治療者が上述の精神病理の洞察にまで至らぬケースも多々あると思われる。家族関係、そこでのストレスなどの糸口から推察し、できれば徐々に自分の不安の源泉に思い至るようにもっていきたいがなかなかそうはならない。
しかし、その心理的特性を知り、その精神病理を理解することで彼等との治療関係が深まることも少なからずある。