昨晩から降っていた雨は明け方には上がったようだったが、外に出ると、アスファルトの路面はまだ水をたっぷり含んだ濃い色をしていた。
朝目覚めてベッドのすぐ足元にある窓にかかる遮光カーテンを開くと、1日はすっかり始まっていた。開きたての目が外の光の眩しい刺激に閉じてしまいそうになるのを堪えながら目を凝らしても、向かいの家の屋根越しに遠方に見えるはずの山並みはそこにはなかった。代わりに、ずっしり重そうな灰色の雲が空の大半を覆っていた。
「この様子では、今日は一日中、山の上は雲の中だろう。」そう思ったけれど、それでも今日は山を歩きたくて、そのままベッドから出て着換えやその他準備を済ませて駐車場に向かった。
玄関を出ると、フワッと柔らかい空気が迎えてくれた。少し前から、顔を刺し全身を縮こませるようなキンとした寒さは消えていた。厚い服を着込んでプクプクにならなくても、身軽な服装で外に出られるようになった。それだけで、体につられて心も軽やかになり、顔の筋肉もほころぶ。この感じ、好きだ。
駐車場に着いて、まだ水滴のついた車のドアを開け乗り込む。ハンドルを握っても、もう手袋が欲しくなるようなひんやりした感触は返ってこない。それがまた私をご機嫌にさせて、私は気持ちよくアクセルを踏んだ。
目的地についても、空の様子は一切変わらず、上に登るにつれて周りは白い空気で包まれていった。右を見ても、左を見ても、木々の向こうは真っ白な世界で、太陽の光が差し込んできそうな気配もなかった。それでも、それは朝家を出る前に予想した通りの光景で、私をがっかりさせるようなものではなく、それはそれで神秘的な美しさがあった。そして、湿った土から伸びる透き通った緑の新芽や、雨上がりの土と濡れた木の匂いが合わさった香りや、時々耳に届く鳥の声がじわじわと私の心を満たしてくれた。私が欲していたものがそこにはあった。
頂上に着いても、景色は変わらなかった。どの方向を見ても、周りは真っ白で変わり映えしない。それもあってか、天気の良い日には大勢の人がゆっくりと過ごす場所にも、留まる人の数はまばらだった。
人の多いときにはまず空いていない大きめのベンチが空いていたので、そこに腰を下ろした。そして、上着を羽織り、ザックから魔法瓶とビスケットの袋を取り出した。「今日は頂上でゆっくりお茶を飲みながらお菓子でも食べてゆっくりしよう」と決めていた。頂上の気温は麓の街よりも10℃近く低いので、風が吹くと身をかがめたくなるぐらいの寒さは感じるけれど、だからこそ温かい紅茶が身体に染みる。
ただただ真っ白な空間を前にして、時々感じる冷気をもたらす風に耐えながらも紅茶とビスケットをゆっくり堪能し、私の気分は穏やかだった。
「あーあ、何も見えないよ」そう言ってがっかりするのが、いつもの私であるかもしれない。でも、今日はそういう気持ちにはならなかった。穏やかな気持ちで、その時目の前にあるものの良さを認め、それに幸福感と満足感を感じていた。全ての違いが良い悪いだけで評価されるべきものではなく、悪い事であるように見えることの中にも、味方や考え方次第で良い事に変えられることが実はそれなりに多いのかもしれない。そして、私自身も薄々はそれに気がついてはいたのかもしはれない。ただ、今の私はそれが苦手な思考回路を持っているのだと思う。それが自分を幸せにする能力だと思って思考を変えられると、人生少しは変わるのかもしれない。
しばらく頂上でゆっくりした後、さあそろそろ下山しようという時だった。少し長めに風が吹いたかと思うと、視線の先の視界がサーッと開けた。一面の真っ白の先に、山々が現れた。そして、そのまま幕が引かれるように周囲ぐるりと視界が開けていった。遠くの海が見えて、半島が見えて、それからその先の街が見えた。一瞬のうちに、真っ白の先に絶景が広がった。
全く期待していなかった。今日のこの天気で見えるとは思っていなかった。だからこそ、いつもより貴重でありがたいものに感じた。
良いことって、ちゃんとある。私にも、ちゃんと良いことは起こる。
今は望みが薄くても、これからがどうなるかなんて分からない。
今日の山頂での出来事は、私にそんな光を見せてくれた。