孔子は、衛霊公のことを「無道」と言っているが、それは、俸給を与え、政務につかせないからだという。
しかし、政権に就かせなかったのは、孔子の能力に疑問を持ったほかに、優秀な人材が衛国には揃っており、割り込ませる隙間がなかったためである。よそ者の孔子を政権に据えたら、当然それらの家老たちが反発するのも必至で、その意味からも孔子は無茶を言っている。
衛霊公の生涯
襄公とその妾の間に生まれ、他に子がいなかったため太子となる
襄公9年(前535年) 8月、襄公が薨去したため、太子の姫元が立って衛君(以降は霊公と表記)となった。
霊公5年(前530年)、霊公は晋の昭公に参朝した。
霊公6年(前529年)秋、霊公は劉・晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと平丘(衛の地)で会合し、8月に盟を結んだ。
霊公11年(前524年)夏、宋・衛・陳・鄭の4カ国で雷による火災が起きた。
霊公13年(前522年)6月、霊公の兄である縶(ちゅう)が斉氏(斉豹の一族)によって殺された。この乱を聞いた霊公は都から死鳥(衛の地)へ逃れた。このとき斉から公孫青が訪れて霊公に面会し、霊公の護衛を務めた。その後、衛で北宮喜が斉氏を撃って滅ぼし、乱を平定した。7月、こうして霊公は都に戻ることができ、この乱に関与した者を誅殺した。
霊公29年(前506年)3月、霊公は劉・晋・宋・蔡・魯・陳・鄭・許・曹・莒・邾・頓・胡・滕・薛・杞・小邾・斉の君主たちと召陵で会合し、楚に侵攻した。
霊公32年(前503年)秋、斉の景公と鄭の献公が鹹(衛の地)で盟を結び、衛にも加わるよう催促してきた。霊公はそれに加わろうとしたが、国人たちが許さなかったので、霊公は北宮結を斉に送って捕えさせ、斉を衛に侵入させた。これによって霊公は斉の景公と沙(衛の地)で盟を結んだ。
霊公33年(前502年)夏、晋の趙鞅(趙簡子)が鄟沢(衛の地)で衛と盟を結ぶため、渉佗と成何を衛に派遣した。しかし2人は会盟の席で無礼なふるまいをし、霊公を辱めた。そこで霊公は晋に叛くことにした。秋、晋の士鞅(范献子)が成(成周君)の桓公と会合して鄭に侵攻し、衛にも侵攻してきた。冬、霊公は鄭の献公と曲濮(衛の地)で盟を結んだ。
霊公34年(前501年)秋、霊公は五氏(晋の地)で晋と戦っている斉の景公を援けた。
霊公35年(前500年)冬、霊公は斉(景公)・鄭(游遫)と安甫で会合した。
霊公38年 (前497年) 春、霊公は斉の景公とともに垂葭に駐留した。この年、魯から孔丘(孔子)がやって来たので、その俸禄を魯と同じようにして待遇したが、やがて意見が合わず孔子は帰っていった。その後も孔子は衛にやって来た。
霊公39年(前496年)春、霊公は公叔戌を憎んでいたので、彼とその仲間たちを放逐した。夏、北宮結が魯へ出奔した。また、晋が朝歌を包囲したので、霊公は斉の景公と魯の定公とともに牽で会合し、晋の范氏と中行氏を救う相談をした。秋、太子の蒯聵(かいかい)は霊公の夫人である南子と折り合いが悪く、南子を殺そうとした。蒯聵は朝礼の際、仲間の戯陽遫に殺させようとしたが失敗し、このことが父の霊公に知られ、蒯聵は宋に出奔した。
霊公40年(前495年)夏、鄭の罕達が宋を攻撃したので、霊公は斉の景公とともに渠蒢(宋の地)に駐留した。
霊公41年(前494年)4月、范氏・中行氏の一味である趙稷が邯鄲で反乱を起こしたため、霊公と斉の景公は救援に向かい、五鹿(趙の邑)を包囲した。秋、霊公と斉の景公はともに晋を攻撃した。
霊公42年(前493年)、霊公は外遊し、子の郢(えい)に車を馭させた。郢は霊公の末子で、字(あざな)を子南といった。このとき霊公が郢に「そなたを太子にするつもりだ」と告げたが、郢は断った。その4月に霊公が薨去し、夫人の南子は郢に太子になるよう勧めたが、また断ったため、蒯聵の子である輒(ちょう)が立って衛君(出公)となった。
『史記』衛康叔世家にある襄公・霊公で、その一端を見る。
【白文】
襄公六年、楚靈王會諸侯、襄公稱病不往。
九年、襄公卒。初襄公有賤妾、幸之、有身、夢有人謂曰、我康叔也、令若子必有衛、名而子曰元。妾怪之、問孔成子。成子曰、康叔者、衛祖也。及生子、男也、以告襄公。襄公曰、天所置也。名之曰元。襄公夫人無子、於是乃立元爲嗣、是爲靈公。
靈公五年、朝晉昭公。
六年、楚公子弃疾弑靈王、自立為平王。
十一年、火。
三十八年、孔子來、祿之如魯。後有隙、孔子去。後復來。
三十九年、太子蒯聵與靈公夫人南子有惡、欲殺南子。蒯聵與其徒戲陽遬謀、朝、使殺夫人。戲陽後悔、不果。蒯聵數目之、夫人覺之、懼、呼曰、太子欲殺我。靈公怒、太子蒯聵奔宋、已而之晉趙氏。
四十二年春、靈公游于郊、令子郢僕。郢、靈公少子也、字子南。靈公怨太子出犇、謂郢曰、我將立若為後。郢對曰、郢不足以辱社稷、君更圖之。
夏、靈公卒、夫人命子郢爲太子、曰、此靈公命也。郢曰、亡人太子蒯聵之子輒在也、不敢當。於是衛乃以輒爲君、是爲出公。
【書き下し文(読み下し文)】
襄公六年、楚の霊王、諸侯を会す。襄公、病と称して往かず。
九年、襄公卒す。初め、襄公、賎妾有り、之を幸し、身(ハラ)める有り。夢に人有りて、謂いて曰く、「我は康叔なり。若(ナンジ)の子をして必ず衛を有たしめん。而(ナンジ)の子を名づけて元と曰え。」妾、之を怪しみて、孔成子に問う。成子曰く、「康叔は衛の祖なり。」子を生むに及びて男なり。以て襄公に告ぐ。襄公曰く、「天の置く所なり。」之に名づけて元と曰う。襄公の夫人、子無し。是に於いて乃ち元を立てて嗣と為す。是を霊公と為す。
霊公五年、晋の昭公に朝す。
六年、楚の公子棄疾(キシツ)、霊王を弑して、自立して平王と為る。
十一年、火あり。
三十八年、孔子来る。之を禄すること魯の如くす。後に隙(ゲキ)有り、孔子去る。後に復た来る。
三十九年、太子蒯聵(カイカイ)、霊公夫人の南子と悪しき有り、南子を殺さんと欲す。蒯聵、其の徒戲陽遬(ギヨウソク)と謀り、朝(チョウ)に夫人を殺さしめんとす。戲陽、後に悔い、果たさず。蒯聵、数々(シバシバ)之を目す。夫人、之を覚り、懼れて、呼びて曰く、「太子、我を殺さんと欲す。」霊公、怒る。太子蒯聵、宋に奔り、已にして晋の趙氏に之く。
四十二年、春、霊公、郊に游び、子郢(シエイ)をして僕(タヅナトラ)しむ。郢は霊公の少子なり。字は子南。霊公、太子の出犇(シュッポン)するを怨み、郢に謂いて曰く、「我、将に若を立てて後と為さんとす。」郢對えて曰く、「郢は以て社稷を辱(カタジケノ)うするに足らず。君、更に之を図れ。」
夏、霊公卒す。夫人、子郢に命じて太子と為して、曰く、「此れは霊公の命なり。」郢曰く、「亡人太子蒯聵の子輒(チョウ)在り。敢て當らず。」是に於いて衛乃ち輒を以て君と為す。是を出公と為す。
【現代文】
襄公六年(BC538)、楚の霊王が諸侯を集めて会盟したが、襄公は病気だと言って行かなかった。
九年(BC535)、襄公が死んだ。もともと襄公には、身分の低い妾がいた。妾は寵愛されて身ごもった。ある日夢に人が現れ、言った。「私は康叔である。そなたの子を国公の地位に就けよう。子を元と名付けよ。」妾は不思議に思って孔成子に問うた。
孔成子が言った。「康叔は衛国の開祖だ。」子は生まれてみると男だった。そこで夢の話を襄公に告げた。襄公が言った。「天のおぼしめしだ。」だから元と名付けた。襄公の夫人には子が無かった。そこで元を太子にした。のちの霊公である。
霊公五年(BC530)、晋の昭公に朝見した(服属の礼を取った)。
六年(BC529)、楚の公子の棄疾が、楚の霊王を殺して、自ら即位して平王となった。
十一年(BC524)、火事があった。
三十八年(BC497)、孔子が衛に来た。霊公は孔子に魯と同じ俸禄を与えた。その後、霊公との関係が悪くなり、孔子は衛を去った。後にまた来た。
三十九年(BC496)、太子の蒯聵(カイカイ)は、霊公夫人の南子と仲が悪く、南子を殺そうとした。蒯聵は、その家臣の戲陽遬(ギヨウソク)に言いつけ、朝廷で夫人を殺させようとした。しかし戲陽は後で思い直し、果たさなかった。
蒯聵は朝廷で、たびたび戲陽遬に目配せして決行を迫った。南子夫人はその意味を覚って恐怖し、大声で「太子が私を殺そうとしている」と叫んだ。霊公が怒った。太子蒯聵は宋に逃亡し、さらに晋の筆頭家老・趙氏の所へ行った。
四十二年(BC493)、春、霊公は郊外に出かけ、子郢(シエイ)に馬車の手綱を取らせた。郢は霊公の末の息子で、字(アザナ)は子南。霊公は太子蒯聵の出奔を怨んで、郢に言った。「私はお前を跡継ぎにしようと思う。」郢は答えた。「私は国を治める自信がありません。どうぞお考え直し下さい。」
夏、霊公が死んだ。南子夫人は、子郢を太子に立てて言った。「これは霊公の命令です。」郢が言った。「逃亡した太子蒯聵の子の輒(チョウ)がいます。私は国公になりたくありません。」そこで衛国は輒を国君にした。これを出公という。