ところで何が真であるかを十分に明晰に判明に知覚していない場合、もし実際私が判断を下すことを差し控えるならば、私のかくすることが正しく、私は過つことがないのは明かである。しかるにもし私が肯定するもしくは否定するならば、そのとき私は意志の自由を正しく使用していない、そしてもし偽である側に私を向わせるならば、明かに私は過つ、またもし他の側を掴んで、偶然に、なるほど真理に当りはするにしても、だからといって私は罪を免れないであろう。なぜなら、悟性の知覚がつねに意志の決定に先行しなくてはならぬことは、自然的な光によって明瞭であるから。そしてこの自由意志の正しくない使用のうちに誤謬の形相を構成するところのかの欠存が内在するのである。すなわち、欠存は、作用そのもののうちに、これが私から出てくる限りにおいて、内在するのであって、私が神から受取った能力のうちに内在するのではなく、また神に依存する限りにおいての作用のうちに内在するのでもない。
そこで私は、神が私に与えたよりもいっそう大きな理解の力、すなわちいっそう大きな自然的な光を私に与えなかったということを訴うべき何らの理由も有しない。なぜなら、多くのものを理解しないということは有限な悟性にとって当然であり、そして有限であるということは創造せられた悟性にとって当然であるから。むしろ私は、決していかなるものをも私に負わないところの神に、彼から授けられたものに対して、感謝すべきであるのであって、彼が私に与えなかったものをば、彼によって私が奪われたもの、すなわち彼が私から引き上げたものと考うべきではないのである。
なおまた私は、神が私に悟性よりもいっそう広く及ぶところの意志を与えたということを訴うべき理由を有しない。なぜなら、意志はただ一つのもの、そしていわば不可分のものに存するゆえに、その本性は何らかのものがそれから取り去られ得ることを許さないと思われるから。そして実に、かかる意志が広大であれば広大であるだけ、ますます大きな感謝を私はこれを与えた者に対して負うのである。