2019.3.31日/AM2:05
父が亡くなった。
ヘルニア持ちの父。
しばらく前から畑仕事はしんどいと言って、あまり畑に出なくなり、もともと扁桃腺が弱く、すぐ熱が出てしまう人だった事もあり、娘を実家に預ける時はほとんどの日が、じぃじがうちにいるから大丈夫という日だった。
2月中頃に、腕が痛いと言う父を、兄が整形外科へ連れて行きレントゲンをとってもらう。
そこで医師に、「これはダメだ。うちでは診れない」と言われ、大きな病院へ行くように促された。
次の日、近所の大きな病院へ行き、肺がんと診察された。
片方の肺は真っ白で、もう他方も半分は白かったと聞いた。既にステージ4。手の施しようがないと。
本人すらも気づかなかった肺がん。
しょっちゅう咳はしていたけれど、風邪を引きやすい人だったし、胸が痛いなどと言うことはまったくなかった。
何で気づかなかったんだろう。などと思いもしたが、もうどうしようもない。
腕の痛みは、肺がんからの転移もあり、骨も脆くなっていたため、手術をすることに。
家では、だいぶ細くなった父も、それなりに元気だったが、歩くのもフラフラな状態。
ガンがわかり、手術をする頃には随分弱っていたと思う。
手術前日、入院した父は家にいた頃の父と変わらなかったと聞いている。
手術当日は、私も病院へ行き、立ち会うつもりだったが、せん妄と言われる混乱状態のようになってしまい、座っている事もままならず、医師の判断により延期となった。
こんな父、見たことない。
厳格で昔気質の頑固一徹。
口調が強く、兄や姉からは疎まれるような存在。自分が知らないことがあるといじけて『俺は知らん!聞いてない!』と怒るから、母がめんどくさいと言っていたことも。
母とはしょっちゅうケンカ…と言うより、一方的に噛み付いて兄や姉に怒られてた。
年の離れた私には、かなり甘く優しいところも垣間見せていたが、基本、古い考えは変わらず、携帯を持つときや、流行りの格好をし始めた頃は、かなり煩かった。
でも、いざという時は頼りになる、大好きなお父さん。
そんな父しか知らない私は、怖くなった。
このままの状態が続けば、実家の同居している母や兄は大丈夫だろうかと。
医師の話だと、せん妄は人によっては痴呆症へと繋がっていく人もいると聞かされた。
しかし、入院の時には高齢者にはよくある症状で一時的なことも多いと。
それでも。どうなるのかと不安になった。
数日は不安定な状態が続いたが、父は戻ってきてくれた。
最初の術日から一週間後にずらして、手術をすることになり、全身麻酔での手術のため、少しの不安はあったが、成功。ひと安心。
しばらくせん妄の気配があったため入院したが、病院に長くいることは出来ないため、退院することに。
看護師をつねったり、小突いたりなど、厄介な患者だったのもあるかもしれない 笑
家に帰ってせん妄が出てしまう不安もあり、家を出ていた兄が泊まってくれた。
夜によくせん妄が出ていたため、次の日に電話したら、父が電話に出た。
凄い元気。ふつうに喋るし…!
病院でのあの姿は何だったのかと思うほど、入院前より元気だし。ひとりで歩いてると。
驚いた反面、嬉しかった。
これなら肺がんは歳も歳だから進行も遅いだろうし、もしかしたら病院暫くは良いんじゃないかと思ってしまうほど。
退院から2日後に、私も父の様子を見に実家へ行くと、あいも変わらず母とケンカしてた。
でも、これが我が家の通常運転。
泣きそうになったけど、笑えた。
それからも、毎日様子を見に行ってくれている姉から今日はどうだったと連絡をもらっていた。
病院に行ったと言うのは毎日だったけど、元気だと思っていた。まだ大丈夫と。
一週間ほど家にいた父が、急遽入院することに。
肺が真っ白になっていた。
肺炎だと言われ、抗生物質などを打って様子を見るとのこと。
話をしたり、歩いたりすることは出来ているけど、息苦しそうにしている父の姿を見るのは辛かった。
けど、母とは相変わらず憎まれ口を叩いて、ヘラヘラ笑ってる。そんな父だから、新元号も、娘の誕生日も迎えられると思った。
娘が20歳になるまで生きると言っていた。
土日の休みは、娘の誕生日プレゼントを買いに行って、父からも渡してもらおうと思っていたのに。
容態が急変したのは30日の真夜中。
昼間と夕方に顔を見に行くと、呼吸は苦しそうだったが、娘の顔を見てニコニコして、話も沢山した。
私が病室にいない隙に、父が娘に『じぃじからの最後のお小遣いだ。今持ってる全財産』と一万円を渡していた。
でも、みんなが見ているからバラされた挙句、『そんな縁起でもないこと言わんで!』と姉に怒られて笑ってた。
家にいた頃も、隠れてお菓子やお小遣いを渡していた父。
厳しい中にも愛情のある人だった。
苦しそうな父に、モルヒネを投与することになった。モルヒネを投与すると、そのまま意識が戻らなくなることもあると医師からの説明もあったが、苦しむ父を楽にしてあげたいと、父も家族も異論はなかった。
帰り際に、父は不安だったのか、予感があったのか、母に初めて泊まってくれと言った。
私もその方が安心だと思ったし、兄も姉も同意して、夫婦水入らずの時間を過ごしたら良いと家に帰った。
夜22時過ぎに母から電話があり、箱ティッシュを持って来てと言われたので、兄が届ける。
暫く話をして、兄が帰る時
『気をつけて帰れよ、ありがとな』
と声をかけ、兄も
『また明日来るで』
というと『おー』と返事をして送り出してくれたと聞いた。
明日があると思った。
暫くして、母から『様子が変だから来て』と兄に連絡があったが、その後すぐ、待機となった。
でも、20分ほどしたら『すぐ来て』と言われ、取るものもとりあえず病院へ。
兄は、車を停めに駐車場へ行き、私ともう1人の兄、娘は病室へ。
エレベーターが遅い…
病室に近付くと、母の声が。
『だめだよお父さん!目開けて!息して!』
驚いたわたし達は走って病室へ入った。
…父は寝ている。と思った。
駆け寄ると、母が
『みんな来てくれたよ!父さん!聞こえる?』
母は泣いていた。
『さっきまで話してたんだよ。疲れたから横になるって言って、横になったら急に様子がおかしくなって…』と。
私も『お父さん、〇〇だよ!聞こえる?★も来てるよ!』
ドラマかと思った。こんな風に声をかける日が来るなんて。
まだ、暖かい手足。
高イビキを上げて寝る父はいつも口が半開きで、学生の頃はかっこ悪いと嫌っていたが、歳をとった父が、相変わらずイビキをかいて寝ている姿は愛嬌があった。
そんな父を見て、『五月蝿いね』と言いながら笑い合う実家が好きだった。
その時も、イビキをかくんじゃないかと思うほどに、遠目から見た父は寝ているようだったのに。
呼吸が止まっている。脈がない。
片目が半開きのままの父に精一杯声をかけるが、私たちの声は届いたのだろうか。と思っていると、ナースセンターから心停止の音がした。
暫くして看護師の方が
『先程、心臓が止まりました』と。
駐車場へ行った兄は間に合わなかった。
私や母、もう1人の兄の声は、父に届いただろうか。
私は知らなかったが、心停止した時間と、医師がご臨終を告げる時間は、こう行った場合、医師がどこにいるかで変わるようだ。
父が実際に息を引き取ったのは午前1時過ぎだが、医師が到着し臨終を告げたのは2時5分。
私は父の心停止の音を聞いたのに。
その時間ではないのだと知った。
他の兄弟や親戚、主人も駆けつけて父の顔を見る。寝ているようだと。起きるんじゃないかと。
けれど、父の身体は徐々に冷たくなってしまった。
涙がとめどなく溢れる。
40近くなっても私は末っ子のままだ。
それからは、家へ帰るための手続き、葬儀屋の手配と慌ただしく過ぎた。
亡くなったと実感するのは難しかった。
父を迎えるために家に帰ると、暫くして葬儀屋の車が到着し、淡々と準備が進む。
気づいたら既に父は布団に寝かされていた。
父の亡骸は、本当に寝ているようだった。
帰ってきたときは、空いていた口が、暫くして自然と閉じていた。不思議だ。
気持ちよさそうに寝ている。そう見えた。
次の日の朝、叔母が
『あれ、口閉じてる?何回やっても閉じなかったのに』と言っていた。
私は、父が自分の死を認めたのかと感じた。
高齢になると肺を患って亡くなる人は多くいると聞く。
父も同様だったが、肺癌の上に、肺炎で長患いをすれば、かなり辛かったのではないかと思う。
苦しむ時間が短く、病院でも1人でいる時間は少なかった父は、幸せだったのかもしれない。
お通夜の準備で、体を洗ってもらうときは、本当に気持ちよさそうに、温泉でも入ってるのかと思うような表情をしていた。
私が父は亡くなったのだと実感したのは、布団に寝かされている父のおでこを撫でたとき。
氷で冷やされていることもあって、ひどく冷たかった。
遠目からは、寝ているようにしか見えなくても、血は通っていないのだと。
急に寂しくなった。
いつも私たち家族を心配していた父。
孫可愛さに、突然訪ねてきた父。
何だかんだ言いながら、母がいないと何もできない父。
酒好きで、酒に呑まれて大風呂敷を広げる父。
照れたり恥ずかしいときは『そうか〜?へへへ』と、誤魔化して笑う父。
そんな父を、めんどくさい人、口うるさい人と言いつつも家族のみんなは好きだったと思う。
じゃなかったら、入院したって毎日お見舞いに行ったりしない。
父は、何だかんだで愛されていたのだ。
私は、父に感謝の言葉を言えなかった。
人は亡くなっても、最期まで聴力が残っていると聞いたことがあったのに。
最期の最期にかけた言葉は、『逝っちゃ嫌だ』だった。こんな言葉をかけられて、成仏できないだろう。
ちゃんと、ありがとうと伝えたかった。
毎日実家に通うことは難しいけれど、父を思い出して、毎日ありがとうと声をかける。
これが、残された私にできること。
納骨はまだされていないから、週末は実家に、可愛い孫を連れて行ってあげよう思う。
これも、私にできること。