日本国憲法第25条
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
プロローグ
私は、何を隠そう人である。
唐突だが、社会人としての役割を無事卒業させて頂いた者だ。
今や何の肩書もない…ただの人である。
このご時世を反映して、あえて性別は明かさずとしよう。
言うなら、“俯瞰の黒子” とでも言っておこう。
現役の頃は、納税者としての義務を果たし、ひたすら労働に励む日々だった。
今は、その恩恵にあずかり、“俯瞰の黒子” という身分で、社会の現状に
触れる機会を与えられた。
つまり、のぞき見をゆるされていると言ったところだ。
この世の中、知っている事より、知らない事のほうが圧倒的だと
既に気づいている。
人生終盤に突入したばかりの新参者ではあるが、
人の幸福って何(・・? 等と考える機会を与えられてしまった。
ここに来て今更といってしまえば、身もふたもないのだが…。
何はともあれ、これから遭遇する出来事を、
この“俯瞰の黒子”が、ナビケートしてみよう。
財産を守るとは人を守る事です
いきなり目に飛び込んできた1人の女性、覇気のある足取りが心地よい。
顎に手をやり、ひとり言を呟きながら、オフィスへ吸い込まれていった。
彼女の名前は与儀麻衣子。
地域相談支援事業所の相談員という肩書を有している。
とある法人に所属する社会福祉の専門職者である。
その専門職には、他にもいくつかの役割が付与されている。
その1つが成年後見人である。
彼女も本業の傍ら二足の草鞋を履く身分なのである。
彼女のキャラクターを一言で言うと、単純明快。
つまり喜怒哀楽が顔に出てしまうタイプ。
曲がったことが嫌いで、直ぐに激昂するのはやっかいだ。
この仕事をするようになってからは、流石に抑えも効くようになった。
つまり、on・off の切り替えが上手くなったという事だ。
だが、彼女をよく知る人たちに言わせると、切り替えの上手さは天性らしい。
ある意味この職種は、彼女にとって適材適所と言える。
ここで成年後見制度について触れておこう。
法定後見人とは、裁判所から任命を受けた”三士会”がその役割を担っている。
“三士会”とは、主に3つの専門職能団体
(弁護士会・司法書士会・社会福祉士会)を指す。
家庭裁判所へ後見制度利用の申し立てを した後、その権利が認められた
当事者に対して、裁判所が後見人等(後見・補佐・補助)を任命できる。
麻衣子も職能団体に登録する法定後見人ということになる。
彼女は今、難題とも言える案件に直面している。
当初はまだ、なんなく切り抜けられると思っていたようだ。
だが直ぐに、事の重大さを知ることになる。
彼女が担当する被後見人が退院し、障がい者施設へ入所して1年が過ぎた。
(中城さんの預貯金が底をついてきた、セオリー通り保護申請しなくちゃなー)
このところ彼女は、そのタイミングを計る事で思考の殆どをつぎ込んでいる。
中城賢なる人物は、知的障害と統合失調症を合併し、
長期間精神科に入院していた。
昨年、無事退院し、障がい者施設(グループホーム・G.H.)に
入所した48歳の男性だ。
彼は入院中、家庭裁判所から後見相当の審判を受けていた。
その後、麻衣子が彼の後見人に任命されたという経緯だ。
つまり麻衣子は、被後見人中城賢の法定後見人となったわけである。
父親を数年前に亡くしてから、彼の相続人となる親族は不明のままだ。
体に障害はなく、日常生活の行動は保たれているが、コミュニケーション
理解力に乏しい。
ひたすらに自分の世界を誇示し、話し始めると留まることを知らない。
問題は、突発的な粗暴行為がある事と多飲水にある。
人は水分不足で干からびると死に至るが、摂りすぎもまた危機的なのである。
そんな彼にも、普通の生活を手に入れるチャンスが巡って来た。
そうして、新たな生活の場を得た。
退院直前の置き土産(回想1)
時は1年ほど前に遡る。
中城賢が退院を3日後に控えたある日、麻衣子の携帯に着信がとびこんだ。
病棟ケースワーカーの島袋妙子だ。
「賢さんが椅子を壊しました。
詳細は師長から連絡が入ると思います。
残念ですが完全破損の状態で弁済対象になります」
担当して以来、初めてのアクシデントだ。
よりによって何故今なのかと、麻衣子は1人絶句してしまった。
程なくして師長から事の詳細について連絡があった。
師長は電話越しで、申し訳なそうに麻衣子に語り始めた。
「モニターで確認したところ、夜中に食堂の椅子を投げ飛ばしたようです。
実物を確認したところ、使用不能の状態です」
麻衣子が中城賢を担当して2年になるが、物を壊すほどの粗暴行為は
初めての事だった。
「また、どうしてそんな事したのでしょう」すかさず麻衣子は切り出した。
「はい、本人にも理由を確かめたところ
『ガタガタして壊れていたから危ないと思って壊した』 と言っていました」
「えっ、それが理由ですか」麻衣子は思わず声を荒げてしまった。
「退院する事を理解していた半面、どこか不安もあったんでしょう。
その表れかと推測しています」
さらに師長はこう付け加えた。
「彼のキャラクターからすると、それなりの配慮ともとれるんです。
つまり自分がいる間に壊してしまえば新しい椅子が届く、
他の患者が助かると思ったんでしょう」
精神科の看護師はその道のエキスパートだ。
彼らの的確な分析に麻衣子も納得せざるを得なかった。
同時に彼女は受話器を握りながら、なぜか笑みをこぼしてしまった。
人の行為はその人なりの認知力に裏打ちされた理由がある。
麻衣子はこのエピソードを通してそう実感していた。
そんなどたばたを経て、彼は退院した。
その事件以来麻衣子は、彼が新たな環境に馴染むまで
気が抜けないことを学習した。
新たな生活の始まりは…(回想2)
それから施設での生活も数か月が過ぎ、平穏な日々が続いていたある日、
G.H.の内山相談員からの一報が麻衣子に飛び込んできた。
それは案の定、衝撃的なものだった。
「賢さんが、談話室のテレビを壊してしまいました。
どうやら使用不能のようです」
不意打ちの出来事に、職員も防ぎようがなかったとの説明だった。
ここで、入所と同時に加入した損害保険が功を奏し、
本人は最小限の負債額で事なきを得た。
これは、障がい者を対象とした保険である。
仮に保険事故が発生したとしても、事後の保険料は、
契約時と同額という優れものだ。
入院中の一件を教訓としたリスクマネージメントが、ここで活かされた。
”過ちは正すことに意味があり、二度目は罪になる”
そう心して臨んだ麻衣子の判断が勝利した。
そんな彼女のポリシーからすると、理由は改めて聞くまでもなく推察できた。
スタッフも細心の配慮で本人に接していたことは彼女自身も知っていた。
この事態は、成るべくしてなったと自身を諫めた。
それ以降、賢は徐々に落ち着きを見せ、面会のたびに笑顔も増えてきた。
「俺が、ここで働ける間はこの会社も安泰さ」
そんな賢の発言をスタッフも笑顔で受け入れている事を麻衣子は知っていた。
当然の結果として、環境変化に対する賢の心の葛藤も和らいでいった。
保護申請、まずは相談から
入所後1年が経過し、現在の麻衣子の気がかりは、賢の財産状況だ。
そろそろ預貯金が底をつき始めたのだ。
入院費に比べ、施設利用料の方が上回ることは、入所当初から試算済みだった。
そろそろ、生活保護の申請の時期にさしかかっていることを実感していた。
麻衣子はまず、市役所の保護課窓口へ相談にやってきた。
「太田と申します。
状況をお聞かせください」
柔らかな口調のこの女性はインテークワーカーだ。
インテークワーカーとは、
介護・福祉の分野で、困りごとを抱える相談者(利用者)と最初に出会い、
その悩みや要望を聞き取り、適切な支援につなげる役割を担う専門職
(ソーシャルワーカー等)のことである。
その業務自体を“インテーク(受理・受け入れ)”と呼ぶ。
彼女の第一声を聞いた麻衣子は、
(よっしゃ!これは相性よさそうだ、いける‼) と内声を発動させた。
「私の担当する被後見人さんが、1年前に病院を退院してG.H.に入所
したんですが月額の年金収入を上回る施設利用料を支払ってきた結果、
近日中に預貯金が底をつくという試算になり、保護申請の相談に来ました」
「そうですか、
本人の通帳をお持ちでしたら拝見したいのですが、よろしいですか」
「はい、どうぞ」
太田は、柔らかな口調ではあるものの、表情は全く変えず、いわゆる
ポーカーフェイスだ。
(あれっ、少し印象が変わったな、感情が読み辛いタイプか(・・?)
麻衣子はさりげなく太田の表情を観察し始めた。
少しでも多くの情報を収集しようと、すかさず会話の攻略法を練り始めていた。
保護受給申請にあたっての一通りの説明をうけたところで、
太田は確信に触れる説明を始めた。
「まず被保護者は、基本、任意保険加入は認められていません。
予めお伝えしておきます」
「今後、物を壊したりする可能性があるので、負債は抑えられると思うんですが…」
太田は麻衣子の説明には応えなかった。
「必要書類は揃っているようなので本日付けでも申請は可能です。
ですが、なるべく直近の支払いは済ませた方がいいかと…どうしますか」
麻衣子はやけに意味深な彼女の発言に即座に思考を巡らしながら
慎重に言葉を発した。
「それはどういうことでしょう、可能な範囲で説明して頂けますか」
「今は保護基準の預貯金額を上回っているので、
この月の支払いを済ませた後がいいと思います」
太田のこの言葉は、その時の麻衣子には勝利を呼び寄せるものに聞こえた。
(なるほど、預貯金額か、それは最高のヒントじゃないの、太田さん有難う)
この手の面談は、お互いが専門職であればあるほど、腹の探り合いの欧州だ。
どちらも相手の攻略法を探っている。
あえてどちらが探り当てたかは触れないでおこう。
太田は面談の最後にこう言った。
「中城さんの今の生活は入院中と比べてどんな様子ですか」
「一言で言えば、人並みの生活が戻ったという印象です」
その時初めて、太田と香苗の双方に笑みがこぼれているのを見届けた。
時は若夏の季節にして、官公庁では新年度を迎えたばかりだ。
そして麻衣子の試練の始まりでもあった。
・・・つづく












































