
いよいよ幕は切って落とされた
麻衣子が市役所へ保護申請をしたのは、初回相談から1週間後の事だった。
既に施設の内山相談員にも事情は説明済だった。
「役所のワーカーから実態調査の連絡を受けているので僕が対応しますね」
内山相談員も何度か経験済とあって、麻衣子も多くを語ることはなかった。
賢の生活状況は施設が掌握しているし、あえて同席はしないと決めていた。
「損害保険が認められないってとこが気になります。
その辺り事故の状況説明を求められると思います」
「解りました。
必要性はアピールしておきます」
貴方の暮らしを変えたのは
施設入所から半年を経過した頃、賢は既に破損事故を起こしていた。
それでも施設に移り住んでから、彼の生活は一変していた。
入院中はできなかった事が、できるようになったことだ。
それは他でもない日常的な行為、歯磨き習慣だ。
麻衣子は、口腔ケアが感染予防として、重要であることを知っていた。
「本人が望まない習慣を、ケアする側の価値観で押し付けるのはどうかと…」
彼女は以前、病棟で受けたこの説明を思い出していた。
改めて治療優先の場と、生活の場の違いを実感させるエピソードだ。
今では歯磨きペーストの好みを口にするほど、習慣化されている。
いうまでもなく、普通の暮らしが彼を生活者へと成長させた。
ありえない敗北です
保護課の実態調査を終え、1週間が経過した。
申請から2週間が過ぎたころ、麻衣子の下に保護課の通知が届いた。
「えっ!却下、そんな馬鹿な。決まりじゃなかったの、なぜ⁉」
麻衣子は驚きのあまり封筒を強く握りしめ、暫く動けなかった。
直ぐ様、役所の保護課へ連絡を入れた。
担当ワーカーの説明はこうだった。
「保護基準に値する最低生活費を上回っています。
また、6月には年金額が増額されますので、
それを踏まえて保護費支給に該当しないと判断しました」
麻衣子の心臓は早鐘を打つ勢い、これまでの手順に手落ちはなかったか等
様々な状況を思い起こしていた。
その時初めて“権利”という言葉が頭の中を駆け巡っていた。
権利には当然のごとく縛り(法律)が存在している。
1つでも合致しなければ、それは非合法になることを知った瞬間だった。
起死回生なるか⁉
さて、この先麻衣子はどう動くべきか、即座に思考をフル回転させた。
(自分だけの判断では弱い、客観的意見が必要だ。そうか、あれだ‼)
彼女の言う “あれ” とは、『成年後見制度中核機関』を指している。
数年前に制度化され、権利擁護事業に特化した相談支援機関のことだ。
権利擁護事業の主な目的は、支援が必要な方々の「権利」や「利益」を守り、
誰もが地域社会で自立した生活を送れるようにすることだ。
具体的には、不当な取引による財産の侵害、虐待や不適切なケアの防止、
保険・福祉サービスの契約等を支援することにある。
その対象は、後見人等を求める人やその担い手という事になる。
麻衣子たちのような後見人にとっては、強い味方と言える。
早速その事業所を訪ねた彼女は、間髪入れずに用件を切り出した。
「実はつい先日、保護申請したのですが却下されました」
麻衣子は迷うことなく事の状況を、時系列で話し始めた。
柔らかな面差しの玉井相談員は、男性にしては中々のハイトーンボイスだ。
どこか中性的な雰囲気を感じさせる。
「却下の理由は何だったのでしょう」
「預貯金が、保護基準の生活費を上回っていると言われました」
「担当ワーカーは、基準額を教えてくれましたか」
「はい、9万から10万らしいのですが、何だかアバウトな回答ですよね」
そんな問答がしばらく続いたところで玉井から提案があった。
「それでは、月額収入と支出を書き出してみませんか、
それで次回申請のタイミングが計れるはずです」
玉井のその言葉を聞いて、麻衣子は予め準備しておいた
出納表を提示した。
用意周到な彼女に、玉井も驚きの表情を見せた。
「これはすごい、問題も拾いやすいですね」
実は麻衣子もこの表を作りながら気づいたことがあった。
「ええ、ここに来る直前に気づいたんです。
時期が早かったーって(*_*;」
「そのようですね。
今現在の残高を見る限り、次回申請はもう少し待ったほうがいいですね」
「そうですよね、ここで今話しながら整理もできました」
「次回は、ご一緒させて頂きたいのですが大丈夫ですか」
「ぜひ、お願いします」
ここでは、相談する側とされる側として対峙しているが、
互いに支援者の立場にあるだけに、率直な意見交換となった。
つまり、腹の探り合いをすることなく、
互いの意図に暗黙の了解があったということだ。
麻衣子はこの日最高の笑みを見せた。
法的根拠が存在する申請の相談窓口では、
第三者を同席させることが望ましい。
その客観的視点がいかに重要か、彼女は知っていた。
敗北は勝利の前兆と言うけれど…
3ヶ月後、彼女は玉井相談員を伴い、再び保護課の窓口を訪れた。
「2度目ですが、保護申請の相談にきました」
カウンター越しの担当者は、初回同様太田だった。
「今回は中核機関の相談員さんが同席しますが宜しいですか」
玉井はおもむろに名刺を差し出し軽く挨拶をした。
「太田さん、基幹事業所の玉井です。
宜しくお願いします」
「はい、存じ上げています。
いつもお世話になっております」
(なーるほど、そういう関係なんだ、よしっ!覚えた)
麻衣子の内声には意味がある。
それは自分の中に湧き上がる衝動を癒す緩衝材なのだ。
だからこそ、どんな場面でも発動させている。
間もなく太田が口火を切った。
「前回、本人の詳細につては聞いていますので、
残高の確認をさせて下さい」
麻衣子も通帳を手渡すと同時に話し始めた。
「このままいくと10月分の支払いは負債をだすことになります」
だからどうだという結論を、彼女はあえて口にしなかった。
すると太田は言った。
「何も出し惜しみをしているわけではありませんよ。
前回は、保護決定の基準に従った決定です。
そもそも、〇〇市の家賃上限は32,000円ですが、
この施設は35,000円なので、上回っています」
(出し惜しみだと⁉ こっちはそんな事なんて知らんわい。
ははーん、ない腹を探ってきたな。
太田さん、その発言、貴方には似合わないって(゚д゚)!)
麻衣子も、ここは我慢のしどころとばかり、ぐっとこらえた。
太田も少しずつ詳細に触れる発言がある一方、
麻衣子には今1つ彼女の説明が理解できなかった。
そこで、施設相談員から入手した情報をぶつけてみた。
「ですが施設職員の話しによると、つい最近こちらで
保護を受けている方が入所したと聞いています。
家賃は同じ額だそうです」
「通帳残高が基準生活費を下回っていたのでしょう」
ますます混迷する麻衣子に気づいた玉井が発言した。
「つまり、最低生活費の上限額を下回るタイミングが
ベストということになりますか」
太田は無言でうなずいた。
「それと、通帳残高だけが本人の財産ではありません。
手持ち金も合算します」
「なるほど、施設に預けてある小遣いなどが
手持ち金ということになるんですね」
「そうです。
前回却下の理由が、通帳残高に手持ち金を合わせると
最低生活費を上回っているという事でしたので」
そこまでの話の展開に、麻衣子も、やっと腑に落ちた気がした。
最低限度の生活を可視化すると
この最低生活費とは、憲法第25条が定める“最低限度の生活保障”を
可視化したという事になる。
日本国民の最低限度の生活費は10万円がボーダーラインという事なのか。
麻衣子は、太田と玉井のやり取りを聞きながら、
この25条の意味を改めて考えていた。
「健康で文化的な最低限度の生活」は、
憲法第25条で保障された生存権の核とも言われている。
人間らしく生きるための最低限の生活水準を指し、
これを実現するために生活保護制度などが設けられている。
この権利は、国が社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上に
努める義務を伴い、国民の生活全般に関わる重要な理念といえる。
この条文は、言い換えると生活保護制度の根幹でもあり、
保護受給を認めるか否かの重要な基準となっている。
麻衣子は、その可視化された基準に、
なぜか根拠のない虚しさを感じていた。
(人の生活には、対価が伴うのは当然…なんだけど⁉
あーっ‼ 今は忘れよう、思考放棄だ)
そんな彼女の表情を見透かしたかのように、太田が切り出した。
「こちらからの提案ですが、月末にもう一度残高を確認させてください。
電話連絡で結構ですので…
今お伝えできるのはここまでです」
玉井も、太田と同じように麻衣子の表情を覗き込みながら
この提案を促すような眼を送った。
そんな2人の視線を受けて、彼女もまた腹が座ったようである。
その秘策、リスクあり⁉
麻衣子は後日、再び玉井を訪ねた。
彼女には万が一を想定するある秘策があった。
「玉井さん、私たちの仕事は、リスク管理(マネジメント)が必要です。
そこで私の対策をお話してもいいですか」
玉井は、柔らかな表情を浮かべながら頷いた。
「あくまで万が一なんですが、
次回も却下となった場合、彼が抱える負債は今後益々膨らんでいきます。
まずはそれを止めないとけません。
その時は、再入院を考えています。
彼の場合、重度身体障がい者の医療助成を受けているので、
入院費は免除になります。
そうして負債を解消して、新たに安価の施設を探す。
つまりリセットです」
「重度心身障害者(児)医療費助成制度」とは、重度の障害を持つ人の
医療費自己負担分の一部または全部を助成する市区町村管轄の福祉制度だ。
中城 賢もその受給者証を既に取得していて、その対象者なのである。
玉井は、麻衣子の突飛な発言に戸惑った表情を見せた。
「与儀さんの考えは僕にも理解できます。
ですが、それは彼の今の生活や心情も振り出しに戻すという事ですよね。
それはどうなんでしょう⁉」
「重々承知の上です。
対価を払えないからといって、人の生活を止める事はできないでしょ」
玉井は、麻衣子の苦渋の選択を理解すると同時に、
避けるべき選択肢だと認識した。
暫く2人の間に沈黙が流れた。
「病院の相談員さんには、少し情報発信しておこうかと考えています」
「そうですね、
相談員の心理としては、前情報のないまま、この依頼は動揺しますね」
ごもっともな意見だ。
こんな深刻な場面ではあるが、専門職同士のやり取りは、
率直で清々しいものがある。
麻衣子はその後も心中複雑で、中城賢の顔が浮かぶたび、
その幻影を消去したくなる衝動にかられた。
日本国憲法は美しいんです‼
麻衣子は、本業の傍らも中城案件が頭から離れずにいた。
ある日の昼休み、彼女は休憩室で1人物思いにふけっていた。
すると彼女は、背中のあたりに気配を感じて振り向いた。
同法人診療所の松川Drだ。
彼は訪問診療医として、地域医療に携わる医師だ。
歯に衣着せぬ物言いは、
地域住民からは賛否の声もあるが、信頼される医師だ。
言い換えると、正直者、根拠のないことは軽々しく口にしない。
そんな職人気質の医師だ。
麻衣子は、この無駄のない物言いをする松川に、
ことある毎に教えを乞う関係だ。
「こらっ‼ 昼休みとは言え、心ここにあらずか⁉」
彼女はふっと息を吐くと、物憂げに言葉を紡いだ。
「先生、一時保護なんて理由で入院することって罪ですよね」
「罪だとする根拠を聞かないと何とも言えないが、
精神科ではよくあることだろ」
そこで麻衣子は、今回の事案について簡単に説明した。
すると松川はこう言った。
「まさに憲法第25条の体現みたいな話だな」
「憲法ですか⁉」
松川は腕組みをしながら話し出した。
「25条を語る上で、まず僕が真っ先に言いたい事は1つ!
なんとも美しい表現だってことだよ」
「美しい⁉ どういうことですか」
「日本国民には、健康で文化的な最低限度の生活が保障されるってことだろ。
こんな詩的な表現の最高法規って他にはないだろ。
まずはそこだ」
「えっ、ちょっと凡人には解りません」
「単純に言葉の美しさだよ、凡人もクソもないさ、率直に美しいんだよ」
麻衣子は、また顎に手をあて思いっきり首を傾げた。
「金で計られる以前に、人としての真理を説いていると思うんだよ。
僕は法律家じゃなくて医者だから、人は国の責任で守られるって
とこに共感する訳さ」
松川のこの語り口に、麻衣子も漠然と何かを感じ取ったようだが…。
「美しい物にはトゲがあるってことですか」何とも彼女らしい発想だ。
ここは、らしさを尊重しつつ軽く受け流しておこう。
「理念ってのはあなどれないものだよ。
不思議と人はそこに向かっていくんだよ。
必ずあの美しい条文が体現される方向へな…」
「つまり、それって、言い換えると保護は決定するよってことですか」
「まあ、そこはオブラートにしておこう。
何せ僕は医者であって、保護決定権者ではないからな」
麻衣子は解るような・解らないような、そんな曖昧さを、
安堵の思いで受け入れた。
権利と義務の関係って
松川は、さらに法の原則に触れる発言をした。
「当然のことながら、憲法は人としての権利を表現しているんだよ。
だが、人は権利を得ると同時に、義務が発生することを忘れがちだ。
その義務を全うできるかどうかを法律(刑法・民法等)が監視するんだよ。
医業もまさしく権利を盾に何でもかんでも報酬化できないだろ」
「権利があれば、そこに義務が発生するってことか。
それは私も熟知しているつもりです」
福祉の専門職であるかぎり、“権利と義務”の関係は、
切り離すことのできない真理ということになる。
「健康で文化的な最低限度の生活」とは、
具体的に言うとどういうことなのか。
この“俯瞰の黒子”も改めて考えてみることにしよう。
「健康」であるという事は、病気にならず、衛生的な環境で暮らせること。
「文化的」とは、単なる生存を意味するのではなく、教育、文化活動
といった人間らしい生活を送るための最低限の要素だろう。
人はその理想に近づくための権利を得て、これを持続させるために
義務を果たすことになる。
例えば、対価を得る(権利)ために労働し、
それに見合う税金を納める(義務)といったことだ。
麻衣子も、この事案を通して
「最低限度の生活」の意味に気づき始めている。
超えられない試練はありません…
麻衣子は、オフィスの窓から空を眺めて思った。
(今知っている情報を繋ぎ合わせていけば達成できるはずなのよ)
彼女の内声は既にポジティブ思考に転換され始めた。
松川医師の発想も、その助けになったことは言うまでもない。
とりあえず、病院相談員への情報発信も済ませた。
(やるべきことはやった☆彡)
準備は全て整った。
それから太田の助言通り、月末まで時期を待ち、月が変わると同時に
2度目の申請をした。
麻衣子はひとり呟く
「超えられない壁はぶち破るしかない、やってやろうじゃないの」
与儀麻衣子殿、その意気です。
この“俯瞰の黒子”も陰ながら、あっ!基、
影としてエールを送ろう。
…つづく
