いきるのでざいん

いきるのでざいん

生きるのデザイン。活きるのデザイン。
生きるとは。 自分を活きる。
こころの設計、創造、デザイン。

「こころ」と「からだ」を
「食べる」と「動く」で
バランスをとっていく。
自分を生きる。
自分を活かす。
そんな、「いきる」をデザインしませんか?
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みなさまこんにちは。

 

突然ですが、みなさまは今、運気が良いと思いますか?

それとも、良いことがないなぁと思っていますか?

 

私自身は、運気が上がってきているなぁと思っています。

たった一つの出来事だけで良い運気が巡ってきているなぁと

思っているだけで、全てが良いと言うわけではないのですが、

良い感じがしています。

 

さて、運気が良いなぁと思っている時に、

自分はどのように動けば良いのでしょうか。

 

運気が良いからこそ、そのチャンスに乗るべく動きだす?

好事魔多しなので、気をつけて、慎重に動くべき?

 

逆に運がないなぁと思うからこそ、

黙ってじっと耐えていたほうが良いのでしょうか?

それとも、運が悪い時だからこそ、その状況を打破するべく、

思い切った行動をするべきなのでしょうか?

 

こんなことを思い悩むからこそ、

占いというビジネスや

精神世界のあれやこれやが昔から今も

ずっとあるのでしょうね。

 

因果応報という言葉があります。

仏教では前世、来世の影響を示す言葉だそうですが、

そこまで広げて考えなくても、

私たちの生活の中では「因果」を感じる出来事が多くあります。

 

原因があるからこそ、結果がある。

 ある行動をしたから(しなかった)からこそ、

  その後の事象が起こった(起こらなかった)

 

今起こっている事象、結果は、

過去の言動から繋がっていることが多いのですが、

その原因となる言動は思いつくものも、

思いつかないこともあるでしょう。

 

もしくは、原因となる言動を

将来を意識して行うこともあれば、

何も意識せずに行った言動が、

未来の結果となって現れることもあるでしょう。

 

未来を意識して行った言動が、

全く予想していなかった結果を招くこともあるかもしれません。

 

私自身が、今、運気が良いと思っていることも、

これまでのことの積み重ねから起こっていることだと思いますし、

もしかしたら、将来に振り返った時に逆の見方になるかもしれません。

 

簡単に言えば、

 運の良い悪い、

 状況の良し悪し、

などは、その時の見方によって

どうにでも捉えられる

ということなのではないでしょうか。

 

例えば、経営者が過去の自分を振り返った時に、

とても貧乏な生活で苦労をしたから

今、その時の思いを糧に成功しているという話をよく聞きますが、

貧乏な生活、苦労をした人、苦労している人は

他にもたくさんいるでしょうが、

表舞台に立ち、発信できる人は成功した人だけではないでしょうか。

 

一方、苦労も、貧乏を経験しなくても、

幸せに生活を送ったり、成功したりする人も

多くいることでしょう。

 

とりとめもなくなってきましたが、

何を言いたいかというと、

運気の良し悪しに左右されず、

自分の軸をしっかり持ち、

未来に良い結果をもたらすべく、

今を行動できれば、

それが「運が良い」ということなのではないでしょうか。

 

とかく私たちは、周りや社会、他人のせいにしておけば、

自分は悪くないと考えることも多いです。

それって、とっても楽ですしね。

 

しかし、自分の生き方のハンドルは、

自分で握りたいと思いませんか?

 

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

また次回、お会いしましょう。

今日もこんにちは。

いかがお過ごしですか?

 

今日は、前回までとテーマをちょっと変えて、

老害とゆとりについて考えてみます。

 

少子高齢化が進んでいることで、

定年の年齢が延びて、年配の方の雇用が増えています。

そしてそれに伴って「老害」という言葉が使われています。
 

「老害」は年配の方が

 仕事をしない

 仕事をかき混ぜる

 給料と見合った成果を出さない

などが挙げられます。

 

私の周りだけかもしれませんが、

ポスト団塊世代やそのあたりの世代が多いと思うところもありますが、

単純にその世代が50代から60代になっているからかもしれません。

 

また、近年では「ゆとり世代」と、

若者についてもあれこれ言われています。

 

「最近の若い者は、、、」も「老害」も

昔から言われ続けており、

世の常として考えておいたほうがいいですよね。


私自身は「最近の若い者は、、、」の

言い方をしないように気をつけています。

 

それは、「老害」だろうが「ゆとり」だろうが、

世代や年代で区別するのではなく、

あくまでも一人ひとりを見るべきであると

思っているからです。


そして、自身が「老害」になるかもしれませんし、

「ゆとり世代」が今後活躍するかもしれませんし、

若者を批判することは、

そのまま大人たちを非難することに

違いないと思います。

 

さて、世代論を語りたいわけではなく、

結局のところ「その人」を見て

判断しないといけないといけないですよね。

 

それで判断すると、年配の方に限らず、

「最近の若い者は、、、」を発する大人は、

結構な割合で、大人の間でも疎まれていることが多いと思っています。

 

若い者を育てることよりも、

否定して、相手のせいにする方が楽ですしね。

 

そういう人ほど、自身を省みることなく、

他人や社会など、周りのせいにしていて、

視野が狭く、自分のことしか考えていない人が、

「最近の若い者は、、、」と言っているように見えます。

 

そして、それこそが「老害」なんですよね。

それは定年を過ぎた年配の方に限らず、

20代でも、30代でもいるのではないでしょうか。

 

40代、50代になると、下からの突き上げと、

上からのプレッシャーに挟まれ、

誰かのせいにしてしまいがちです。

 

大人が、若者を伸ばせる、

若者が、素直に大人から吸収できる、

互いに良いところを活かしていける社会。

 

成熟した日本の社会では、

そうなると良いなぁと感じます。

 

徒然と、ダラダラと書いてしまいましたが、

今日は、この辺りで。

 

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

また次回もよろしくお願いします。

みなさま、こんにちは。
今日もお越しいただき、ありがとうございます。

 

前回は
無意識に意識する

として、自身の無意識の行動にフォーカスしてみましょうというお話をしました。

 

今回は、その逆です。
普段、意識しているもの、ことを、

 空っぽにしてみましょう
 無意識にしてみましょう
というお話です。

 

皆さんは瞑想をしたことがありますか?

座禅をしたことがありますか?


瞑想じゃなくても、精神を集中させるために、

何も考えないようにしようとか。

 

頭の中を「空」にしようとした経験は

何がしか、あるのではないでしょうか。

 

スティーブ・ジョブズであったり、

経営者が禅、瞑想をするということで、

それらの話も、書籍などで取り上げられていますよね。

 

さて、

 頭の中を空っぽにしよう
 何も考えないようにしよう
 無になろう
と、意識すればするほど、
それらに意識してしまいます。

 

いろんなことを無にしようとしていることで、
さっぱり無になっていきません。

 

考えれば考えるほど、
ゼロになっていきません。

どうしたら良いんでしょうね。

 

私の場合「無」「空」にしようと、

まずは自身の呼吸に意識します。

 

「ゆっくり吸って〜」「ゆっくり吐いて〜」

そんなことを意識しながら続けていると、

「おや、そんなことも考えないように」

となり、「いやいや、そういうことも考えないように」

という、堂々巡りに陥ります。

 

でも、おそらく、そういうことで良いのではないかと思います。

 

「頭の中を空っぽにしたい」時というのは、

きっと、頭の中から離れない、何か、

例えば、悩みとか、

例えば、執着とか、

後悔とか、

寂しさとか、

不安とか、

 

そういった考えたくないことが

有るからなのかもしれませんね。

 

そんな時には、自分の呼吸や、

周りの音や、

エアコンの風を感じたり、

鼻から出る行きが、上唇をとおる感覚や、

目の前にある木目や、

そんなことに意識を向けるだけでも

良いのかもしれません。

 

意識を無意識にする。

 

今、フォーカスしているもの、ことから、

焦点をずらし、

視点を広げ、

見えなかったものを探すための方法なのかもしれません。

 

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。
また次回のお越しをお待ちしております。

みなさま、こんにちは。
今日もお越しいただき、ありがとうございます。

前回は
それでもやっぱり、ダメ
として、苦手なものは放っておいていいというお話をしました。

 

そこで、

 忘れられない過去を、
 忘れようとするから忘れられない
というお話をしました。

 

それは、嫌いなもの、ことだからこそ、
 意識してしまい、
 余計に気になる

ということでもあるのではないでしょうか。

 

私たちには、
 無くて七癖有って四十八癖
と言われるように、
無意識にしている言動があるのだと思います。

 

そこで、まずは自分が
 無意識にしてしまっている言動、
 無意識で感じている感情
 無意識にしている、、、
に意識を向けてみませんか?

 

それは、良い、悪いの判断では無く、
 「ああ、自分は今、こう感じているんだなぁ」
とか、
 「今、頭を掻いてしまったなぁ」
とか、
 「あの人の前に立つと、空咳が出てしまうんだよなぁ」
などなど、自分から自然と出てくる
 行動
 言葉
 感情
 体の変化
 

それらに意識することで、
気になる物事、嫌な物事、などなど、
気にならなくなるかもしれません。

 

つまりは、
外からの影響で自分の言動を左右されるのでは無く、
自身の内側からの影響力を強くすることで、
何かが変わってくるのかもしれません。

 

忘れたい過去のことであっても、
 「忘れよう、忘れよう」
とそれに意識するよりも、
 「ああ、今、悲しいんだなぁ」
 「あの時、辛かったなぁ」
と、自分の意識を確認することで、
すんなり忘れてしまうとも言われています。

 

自分の言動や感情を、
自分でコントロールしてみませんか?

 

そのためにも、
自分の中にある、無意識を意識してみましょう。

 

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。
また次回のお越しをお待ちしております。

みなさま、こんにちは。
今日もご覧いただき、ありがとうございます。
 
前回は「好き、嫌い」として、
もしかしたら、喰わず嫌いかもしれないから、
チャレンジしてみませんか!として、
これまで嫌いなものも、
嫌いじゃなくなっているかもしれませんね
というお話をしました。
 
それでもやっぱり嫌いなもの、
受け付けないものもありますよね。
 
食べ物じゃなくても、
生活の中でも、勉強でも、仕事でも、
人でも。
 
そんな時は、すっかりそのまま、
嫌いでいいじゃないですか。
 
でもね、「嫌い」を意識すると、
余計エネルギーを使ってしまいませんか?
 
「どんな人にも、いいところがある。
嫌いな人の、いいところを
探してごらん。」
そんなことも言われます。
 
でもね、無理なんですよ、きっと。
だからね、好きとか、嫌いとかの尺度から
外してしまえば良いんですよ。
 
嫌いな人、もの、ことの
嫌いな側面を探しても、
あまり良いことはないんじゃないでしょうか。
 
だからね、皿の中の、嫌いなものを外すように、
脇の方に避けておけば良いのかもしれません。
 
ダメなものは、やっぱりダメなんですよ。
 
ほら、忘れたい過去を、忘れよう、忘れたいと思っているからこそ、
忘れられないっていうこと、ありませんか?
 
だから、意識の中から、外してしまえば、
きっと楽になりますよ。
 
今日もお読みいただき、ありがとうございます。
また、次回、お会いしましょう。
今日もお越しいただき、ありがとうございます。


好き、嫌い

皆さんは、好き、嫌いが多いですか?
そうでも無いですか?

「好き、嫌い」と言う言葉で、
あなたは何をイメージしましたか?

食べ物?
ひと?
色?
趣味?
まぁ、人によって、いろいろ有ると思います。

私は食べ物の好き嫌いは、ほぼありません。
どーーーしても食べられないのは、パクチーです。
セレブの間で人気のようですが、
これだけはどうしても食べられません。
タイ料理もベトナム料理も好きですが、
パクチーだけはよけてしまいます。

ふきのとうの天ぷらも、カツオの刺身も、
小さい頃は食べられませんでしたが、
今では嫌いな食べ物では、なくなりました。

歳の変化により、好みの変化が有ると言われていますが、それだけでしょうか?

食べ物の好き嫌いが多い人は、勿体ないなぁと思います。
嫌いな人にとっては、別に勿体ないなんて、
思いもしないでしょうが、
食べる楽しみの範囲が狭くなるのは、
やはり、勿体ないなぁと。

「食わず嫌い」
と言う言葉も有ります。

昔ダメだったものでも、
今になって食べられるように
なっているものも有るでしょうし、
昔食べた、その時のものとは、違うかもしれません。

例えば、私の場合、カツオ。
新鮮なカツオが手に入りにくかったのか、
生臭く、好きになれませんでした。
母から
「一切れ食べたら、100円あげる」
とも、言われた程です。笑

嫌いな食材の代表とも言える、レバー。
小学校の給食で出るものは、
確かにイマイチだった記憶が有りますが、
私は
「レバニラ」
「レバ刺し(食べられなくなって、残念。。。。)」
「レバーペースト」
大好きです。

大好きなものでも、いっぱい食べることで、
嫌いになってしまったと言う話も、よく聞きます。

「好き、嫌い」って何だろうなぁと、思ってしまいます。

食べ物の話から変わり、食べ物の好き嫌いが多い人は、
人の好き嫌いが多いように思います。

「あの人のここがいや。」
「あの人、きらい」
そう言うひとの多くは、食べ物も同じように
嫌いなものが多いように思えてしまいます。

確かに、
生理的に受け付けない
接すれば接する程、嫌な面が増えていく
など、そういう人も確かに居ますが、
簡単に好き、嫌いを判断してしまうのも、勿体ないなぁと。

夫婦や恋人であっても、
「あれだけ好きだったのに、顔を見るのも嫌」
良く聞く話です。

全部の嫌いなもの、人を無くせとは、言いません。
私もパクチーは食べられません。
同じように、どうしても好きになれない人もいます。

が、ちょっと苦手なものにもチャレンジしてみませんか?
自分が作った、自分の枠を、ちょっとだけ、はみ出してみませんか?
新たな発見が有るかもしれません。

そして、好き、嫌いだけではない、
もっと幅広い見方ができれば良いですね。

今日もお読み頂き、ありがとうございます。
みなさまこんにちは。
これまでご覧いただいていた方々、お久しぶりです。
初めてご覧いただいている方々、はじめまして。
 
かなりしばらくぶりの更新です。
2016年は一度も更新しなかったですね。
楽しみにご覧いただいていた方、すみません。
2016年の年初には、目標として掲げていたんですよ。一応。
 
今まで何度も更新しようとしていましたが、
結局放置したままになってしまっていました。
 
さて、みなさんには
「やりたい」と思っていること
「やらなければ」と思っていること
「やるべきだ」と思っていること
ありませんか?
 
もしかしたら、「やろう」と思っていながら、
やらない理由、できない理由を言っていませんか?
もしかしたら、その理由を探しているのかもしれませんね。
 
実は、私がそうでした。
ブログに書きたい内容、テーマはいつもあり、
書こう、書こうと思いながらも、
これだけの日にちが経ってしまいました。
 
私たちはおそらく、やらない理由を探す天才なのかもしれません。
やる理由よりも、やらない理由の方が見つけやすいですもんね。
そうして今の現状に満足して、毎日が過ぎてしまっているのでしょう。
 
「やらねば」
「やるべき」
この「ねば(must)」「べき(should)」が付いていると、
なおさらですよね。
 
でも「やりたい」は自分の意思で思っていることなのに、
後回しにする理由が見つかる。
それは自分で探しているからかもしれません。
もしかしたら「やりたい」と自分では言っているものの
「ねば」「べき」を自分に言い聞かせているだけなのかもしれません。
 
「やらない理由」を探していて見つかるのであれば、
「やる理由」も探せば見つかるのかもしれませんね。
 
モチベーションだとか、
自信だとか、
時間だとか、
それらを理由にしないで、
コツコツと続けるための仕組みが必要なのかもしれませんね。
 
罰則があればやれますか?
 
褒められればやれますか?
 
「やる理由」
「続ける理由」
を自身の中から見出せれば良いですよね。
 
久しぶりの更新は、自分自身に向けて書いてみました。
みなさんにも何らかのメッセージが伝われば幸いです。
 
2017年は少しずつ更新していこうと思っています。
これからも、よろしくお願いします。
今日もお越しいただき、ありがとうございます。

オリンピックに関わる昨今のいろいろ。
1964年、前回のオリンピックと比べて、
何が変わったのでしょうか。
この50年、60年の間で、どのような変化があったのでしょうか。

1964年のオリンピックは、
1945年に第二次世界大戦の終わりから
19年後に開催されています。

開催の決定は終戦から14年後の1959年。
開催から6年前に決定しています。

その頃には、私は生まれてはいませんが、
表に出ている情報を踏まえると、
全国民が一丸となって、
成功に向けて取り組んだ様子が伺えます。

もちろん、綺麗事だけではなく、
水面下の、私たちには届かない情報の中には、
あれやこれやや、お金がらみや利権の汚い話も有るかもしれません。


1964年には、
東海道新幹線が開通し
国立競技場が造られ
まさに、戦後からの復興を表すものだったのでしょう。

いろいろなデザインについても、
デザイナーが一丸となり、
どのような大会にすればいいのか、
世界から訪れる方々に分かりやすくするためには、
など、向かう方向がひとつになっていたのではないかと
想像されます。

多くのピクトグラムも創られ、
ポスターの写真ひとつに於いても、
かなりのこだわりを持って創られたと言われています。


さて、その時代はどんな時代だったのでしょう。
もっと美味しい物を食べたい。
もっと良い生活がしたい。
もっと豊かになりたい。
そんな夢を持って、みんながまとまっていったのかもしれません。

それから、50年、60年が過ぎ、
私たちの生活は、格段に豊かな生活を送っています。

食べる物も、
暮らす家も、
来ている服も。

その一方で、テレビや週刊誌では、残念な情報が多く取り上げられます。

メディアは私たちが求める情報を取り上げます。

その情報を、ネットや口コミでもって、みんなが叩きます。

犯人探しをします。

2020年の東京オリンピックは、
何を目指したオリンピックなのでしょうか?
どんな世相が反映されるのでしょうか?

オリンピックに関してだけではなく、
私たちの生活は豊かになっているのでしょうか。
こころは豊かになっているのでしょうか。


懐古主義で
「昔は良かった」
などとは言いません。

昔に戻りたいとも思いません。

しかし、私たちが豊かになったことで、
失ったもの、
忘れてしまったもの、
知らない何か
があるのかもしれませんね。


世の中では、良いことも、悪いことも
どちらも起こっています。

そのうち、悪いことを見つけては、
とことん叩く世の中は、
住みやすい世の中でしょうか。

お金が無いとしても、
物が無いとしても、
仲良く暮らせる世の中のほうが、
幸せなのかもしれませんね。

持ってしまった豊かさからは、
離れられませんが、
物も、こころも、
豊かな世界で過ごしたいと考えるのは、
欲張りなのでしょうか?

不可能なことなのでしょうか。


明日は、どんな幸せが待っているのでしょうか。
楽しみですね。
今日もお越しいただき、ありがとうございます。

今日の昼食で入ったお店での出来事です。

私の隣のテーブルには、
母親であろう女性と、二人の女の子が座って、
食事をしていました。
ふたりの女の子は、3歳から6歳くらいの年頃でしょうか。

母親も、ふたりの女の子も、
一人前の定食をそれぞれ食べて居ました。
女の子もお子様ランチなど、子供用ではなく、大人の一食分です。

私はそれをみて「食べきれないだろうなぁ、、、」と。

その親子らしい方々は、私より先に店を出て行きましたが、
案の定、子供達のお皿には、まだまだ食べられる分の料理が残っていました。

それを見ながら、
「あの子達は、残してもいいんだ!」
というプログラムがされていくんだろうなと。

ま、よくよく考えると、それを見て、
こんなことを考えているオヤジも、嫌なオヤジですがね。

親子の中にも、私の知らない
いろいろなやり取りがあったのでしょう。

3人の食べたい物が合わなかった
子供扱いせずに、一人前を頼みたかった
などなど、いろいろな事情があったのかもしれません。

お金の問題ではなく、
食べ物を残すということが、
「もったいない」という感覚、認識は薄れていくのだろうなと。

こうして、無意識の中にプログラミングされていくのかなぁと思ったら、
子供達の将来が、少し心配になりました。

まぁ、大人の私たちであっても、
飲み会の食事やお酒を残したり、
バイキングなどで、食べきれないほどの食べ物をかき集めてきたり
と、似たようなことをしておりますが。



翻って、私の中に刷り込まれているプログラミングは、
「残してはならない」
です。

学生時代には「クリーナー」とか「掃除機」(意味は同じですが)
と呼ばれていたこともあります。

飲み会で残った食べ物を次から次へと食べていました。

最近では、食べきれないことも多いので、残してしまいますが。

単に食い意地が張っているだけと言えば、それまでですが。


ここでは、
残すことがいけない
残さないことが偉い
ということを伝えたいのではなくて、
意図せず、意識せず、何気なしに、
いろいろなことがプログラミングされているんだなぁということです。

中国などでは、
出された料理を食べきってしまうと、
「美味しいので全部食べた」
と思われずに、
「料理が足りなかった」
と、もてなす側に失礼にあたるのだとか。


育った環境でも、プログラミングの内容は違います。
そのプログラミングから得られる結果も違います。

もしかしたら、もう必要のないプログラムも
「わたし」の中にはたくさんあるのかもしれませんね。

新しいプログラムを組むためには、
その要らないプログラムを捨ててしまう必要があるのかもしれません。
修正で済むのかもしれませんし、
バグが出ているのは、別のプログラムに原因があるのかもしれません。

その原因を突き詰める前に、
「わたし」どのような結果が欲しいのでしょう。

それがわからないと、修正も、新たなプログラムも、
どうしたらいいのか、わかりませんね。

さぁ、私はどんな風に周りから見られているのでしょう。
ま、気にしませんが。笑

明日は、どんな幸せが待っているのでしょうか。
楽しみですね。
今日もお越しいただき、ありがとうございます。

私たちは、産まれた時から、今までの間、
いろいろと、多くのプログラムをされながら生きてきています。

社会とはこういうものだ。
男とは。
女とは。
仕事とは。
常識とは。

こうあるべき。
こうでなければいけない。

このようなプログラムを経て、
今まで生きてきています。

もしかしたら、産まれる前からプログラムが始まっているのかもしれません。
産まれたら、乳首を吸うと母乳がもらえる。
お腹が空いたら、泣けばお腹が満たされる。
こういったプログラムもそうですし、
もしかしたら、生き方もプログラムをして産まれてきているのかもしれません。

それは、宿命という言い方で使われることもあれば、
種の保存として、使われることもあるのでしょう。
この人生の中で、何かを学ぶために、
プログラムを自分で組んできているのかもしれません。
もしかしたら、それが生きて行く意味なのかもしれません。


さて、話は変わって、人工知能やロボットなど、
私たち人間が作り出したプログラムも多くあります。

ロボットが人類を滅ぼすなどということを危惧する話もありますが、
ロボットが「こころ」を持つとしたら、
どうなるのでしょうか。

ロボットは、存在する意味を考えたりするのでしょうか。
ロボットは、種の保存のために、自らプログラムをするようになるのでしょうか。

ロボットは、私たち人間が作り出したものですが、
同じように、私たち人間を作り出した存在もあるのかもしれませんね。

それは、神と言われているものなのかもしれませんし、
もしかしたら、地球の外の世界に住むなんらかの存在かもしれません。
宇宙と言われているものかもしれません。

いずれにしても、私はその存在を証明することも、
否定することもできません。

しかし、なんらかの存在により、
私たちが作り出されたプログラムの一部だと考えることも
できるのでは無いかとおもいます。


例えば、将来では、ロボットが自分の意思でロボットを作り出すことも、
可能になるでしょう。
「ターミーネーター」や「マトリクス」は映画や小説の世界での出来事ではなく、
実現するかもしれません。

それが生物の世界では、性交であったり、交配であったり。
それ自身がプログラムの一つかもしれませんね。

私たち生物には、怪我や病気を直す力を持っています。
ロボットも、自分で自分を直すようにプログラムすることもできるでしょう。


私たちがしらない、とても高度な文明を持った存在があるとすれば、
私たちを含め、地球上の生き物を作り出すプログラムを作ることも
可能なのかもしれませんね。

サイエンスフィクションの世界、
スピリチュアルな世界、
私たちが気にし無いで生きている世界、

それぞれのアプローチは違いますが、
もしかしたら、同じプログラムを
どの側面から見ているかによる違いなのかもしれませんね。

もしかしたら、それ自体も、プログラムされたものなのかもしれません。

そう考えると、どんどん、訳が分からなくなってきましたので、
ここまでにしておきたいと思います。


明日は、どんな幸せが待っているのでしょうか。
楽しみですね。