「食在広州」食は広州にありと言う言葉がある。我々壱岐の島は海のもの、畑のもの、それに壱州牛と人々を魅了するグルメな島で「食在壱州」食は壱州と言っても過言ではないだろう。
*「壱州」とは壱岐の島が国だった頃の呼び名で、ちなみに対馬は「対州」と言う。
そして、壱岐の島には反骨精神を持った人も多く、その中で「人在壱州」(人は壱州にあり)と題して、島の偉人、著名人、更に現在頑張っている人たちを紹介させて頂きたい。
第1回目は離島に初めて電気を引いた長嶋主税氏の功績を、、、
壱岐電灯会社と長嶋主税氏・田口伊勢四郎氏
大正三年一月田河村長・長崎県議会議員だった諸吉八頭家の長男長島主税氏が、当時日本人で西洋文化の先駆者福沢諭吉先生の娘婿福沢桃介氏と慶応大学時代の友人であった、のちに電力王といわれた本郡石田出身の松永安左エ門氏の協力で、持ち前の気質で壱岐電灯会社を発起、実行に移された。
その裏には、時の政友会の指導者であった弟の長嶋若枝、田河村会議長の叔父の中村一郎太、松永安左エ門氏の慶応大学の後輩で弟の中村進、松永氏の福博電鉄・福松商会役員の義弟の東直太郎の兄弟コンビでの競争がある。
競争に勝った長嶋氏は、芦辺浦・清石浜入口空地の原野の中央に火力発電所を設立、島内に初めて文明の明かりををつけたのが壱岐電灯会社の始まりである。
当時は、現在の小学校より当方には一軒の家もなく、風害を大変恐れた場所であり、発足当時はわずか七十五馬力で光力は微弱だったがあったが、その後、設備も着々と整っていった。
壱岐電灯会社が九州電力壱岐営業所となり、初代の所長は田口伊勢四郎氏は、大正三年の壱岐電灯発足当時からの人で、当時の郵政省の高等職員養成所に学んでおられた。経理と社交力に富んだ若い田口青年を長嶋主税氏が認めたのが、田口氏の電力会社職員のはじまりである。
大正十五年十月に百五十八馬力、昭和七年九州電力となり、七月二百五十馬力百ボルト、二十六年四百馬力、三十一年一千キロ発電器増設、同年六月より昼夜送電、三十三年五百キロ増設、昭和四十八年壱万四千四百キロの発電で職員十四名となる。営業所は三十七名の壱岐最大の会社となる。
昭和二十九年より発電器の冷却水を海水利用、昭和五十年に営業所を
近代建築で整えた。
その後、壱岐の電力消費量は年々増加の一途を辿っている。昭和五十六年から八幡湾内青島に橋をかけ、第二発電所建設を進めているが、電力の供給はもちろんだが、内海湾の美しい風景に大きな橋、観光の名所になる事も疑いないだろう。
あしべ今昔』(昭和58.3.1 著者・中村八朗氏 発行者・芦辺文化協会)より