牧山耕蔵


明治15年1月20日牧山猪七の四男として出生。


経歴
明治39年早稲田大学政治経済学部卒業


大隈重信、犬養毅の推挽により朝鮮に渡る。「京城日報」を創刊し、のち「朝鮮新聞」の経営を引き受ける。


京城居留民団議員、京城学校組合会議員を経て、大正6年衆院議員初当選(長崎2区)。以降7回当選計8期25年間代議士として活躍する。海軍政務次官(第2次若槻内閣)、政友本党代議士会長、立憲民政党総務などを務めた。


また、昭和11年5月、ハンガリーのブタペストに於いて開催された万国議員会議には、衆議院・貴族議員11名の団長として出席し、同会議の副会長を勤めた。


朝鮮新聞社・長崎日日新聞社・佐世保新聞社等の社長としても活躍した。中央にあっては、大日本興業株式会社、国際観光興業株式会社等多くの株式会社の社長を歴任。


昭和36年6月5日、軽井沢の別荘に於いて心不全のため逝去。時に79歳であった。


父猪父は壱岐の立石外一ヶ村戸長を歴任し、のち郡会議員となって永年勤続し、三度郡会議長を勤める。


また、曽祖父忠之平は、天山流砲術の奥儀を極めて平戸藩主の家臣として重用され、壱岐島にあって海辺の警備と砲術の師範に当たっていた。


兄弟
長女ヤエ
18歳で大久保触の本土徳衛(元長崎県県会議員)の元へ嫁ぐ。
長男廿五郎
平戸猶興館中学を卒業後、新潟県警察に在職。
次男熊二郎
東京帝国大学卒、日本興業銀行監査役、同行の子会社役員を歴任。
三男清砂
東京帝国大卒、三井物産を経て帝国製糖(専務)、北海道製糖、中央製糖、山三証券、報国興業等諸会社の社長を歴任
次女ユイ