投稿ボタンを押し忘れて寝てしまった。
久々に夢を見た。
何故か祖父母の実家にいて、いとこと車に乗り、道路のガードレールを破って砂漠のようなところへ飛び出し、めちゃくちゃに走りまくるという冒険的な夢。
起きたら何もない世の中だった。
半分は日記から抜粋
「死」について考えたこともないし、さして興味もないことがわかった。
「死ぬのが怖い」から問いが始まる哲学者含め人間は数多いけれど、
僕にとってはあまり重要ではない。
ただ「死にたい」だけだ。
といっても本当に死にたいわけじゃない。
自己否定が重なって辛くなっているだけだ。
本当は、何か満足できることをして自分を肯定しなくちゃいけないんだろうが、
それをできるけどやらないので、
死にたい→とりあえず生きてればいいよって所までレベルを下げて、
自分が生きてることを肯定しているだけなんだ。
だからもっと自分を突っぱねる必要がある。
自分のことを良い人だと思っている人ほど容易に他人を嫌う。
それは、他人を世間的な善や、その人が常識だと思い込んでいるものに当てはめて、
そこから外れている人に対して向けられているようだ。
人は嫌えど、自分は悪い人間ではないと思いたいらしい。
どこまでも図々しい奴らだ。
小学中学高校と勉強してきて、驚くほど何にもならなかったことを知る。
小学生の時は、ただ親や先生を喜ばせたくて勉強した。
中学生の時は、自分の学力がこんなもんかってわかって、それを維持するために勉強した。
高校生の時は、周りが勉強してたのと、いい大学に行くために、特に目標はなかったのに勉強した。(11月にオール1先生の本を読んでからはあまりしなかったが。)
そしてまあまあの大学に入り、社会を前にして、
これまでの勉強と学歴が俺の将来にまるで役に立たないことを知る。
「勉強とは何だったのか」
灘や開成の高校生たちはおそらく、君らは将来の日本を背負う人間だ、だから勉強しろと
いう教育を受けてきたんだろう。
俺の通っていたそこそこの進学校では、いい大学に行けとしか言われなかった気がする。
あ、君たちの先輩で早稲田に行って今大手の外資に勤めている人がいる、っていう先生の教え子自慢?話なら聞いたっけ。通りでカスな訳だ。
「博士の異常な鼎談」という番組に中野裕太が出ている回が面白かった。
最後に宮崎さんに見せた笑顔を見て泣きそうになった。
あれは間違いなく演技じゃない。心から喜び感謝し安堵している顔だ。
正直ああいうタイプは、成果主義&冷笑主義がはびこる今の日本じゃ一番受け入れられないだろう。
中高でさぞ苦しかったであろうことが容易に想像がつく。
小説家になるんだと言って授業も受けずに小説を買いている人は、馬鹿にされるかもしれないが、本気では馬鹿にされない。どこか嫉妬されている。
理系の工学系でも一緒だろう。
しかし、詩や抽象画など金儲けができそうでなく理解し難いものであると、馬鹿にされる。
どこかで自分より下を見つけなければ安心しないクズがままに存在しているのが日本という国だ。
中野裕太が何のために勉強するのか母に聞いたら、「主体性を身につけるため」と答えたと言っていた。
確かに自分の意志でこれをやりたいって決めるには、ある程度の頭と、健康な体と、金の制約がないことが必要だ。
たしかに僕は、勉強たおかげで、ほんの少しだが自分で考えることができるようになったかもしれない。
だが、別にそんなものいらなかった。
目の前の快楽に身を委ねて、何も考えず、幸福を感じたまま死ぬのも悪くないだろう。
学がないくせに内向的なのは一番タチが悪い。
人に会わずに問題をうちに抱え込むのも辛いが、人に会って己の矮小さと無力感と、
すべてが決められているかのように無意味さを感じてしまうのも辛い。
今日もいらない子すぎた。
人間には色んなタイプがあって、みんな違ってみんないいはずだけど、
例えば、理論立てて相手を説得するのが苦手であり好きでもない人間は、どう生きていけばいい?わからないものが好きな人間はどうすればいい?元来無口の人間は?そつなくこなすことができない人間は?
こういう考えを、若いから、社会と繋がっていないから、結婚して子どもが産まれればわかるよみたいな事を言われたら、正直返す言葉がない。最もだと思うし、苦しみがそこから産まれていることも否定出来ない。しかし、救うのは断じて経験ではない。経験は常に反省されるべきもので、今の自分とは切り離さくてはならないものだ。経験を自分の意味を見出す材料にして、自分を価値のあるものと定義するのは思い込みである。もともと目の前のこのパソコンも、今日食べたカツカレーの肉となった豚も、僕にも、意味は無い。存在に有益も無益もなく、なぜかいるというだけのことだ。人間一人一人も全く同じだけ価値はなく、理由もない。ただ150年後はみんな死んでいて、世界がなくなれば何の影響もないものたち、というだけのことだ。
権利なんてハナからないのに、パソコンは使われ、豚は殺された。パソコンはわからないが、食べられた豚にとっては、僕はいないほうが良かったということだけは事実であろう。だが所詮死のうが生きようが変わらないのだ。これは豚だからという話ではない。
全てに目を向ければ、自分が生きていいいという免罪符が得られることは決してない。自分の経験や他人を道具にしなければ、自分を肯定なんてとてもできないはずだ。ただふわふわ浮いているだけの存在なのだから、すべてを他人に世界に捧げて死にたい。だが、そこに自分の無力感はあるのだろうか。何一つ影響を与えられなくても、ただ他のためだけに生きてゆけるのかは、甚だ自信がない。