令和4年年10月10日
(月) 第1日目
10度目の歩き遍路になり今回、更新しました。
霊山寺奥の院・東林院から打ち始め、本来の遍路道から外れた奥の院、番外霊場も出来るだけ参拝しようと思って出かけてきた。
ただ、今までのような「通し打ち」でなく、2週間程度の「区切り打ち」となり、案内記の内容も初めての札所の体験以外は、重複することになります。
6:15
JR快速マリンライナー
1号 で坂出を発つ。
8:03 JR高徳線・
池谷駅に着く。
快晴にもかかわらず、
遍路の姿は無く降り立ったのは、私一人だった。
一般的にはJR板東駅で下車して、第一番札所・霊山寺から打ち始めます。
池谷駅から撫養(むや)街道(県道12号線)に出て、東の方向に進み阿波神社の角から路地を左手に進み、暫く歩くと霊山寺の奥の院東林院に着く。
池谷駅より1.5km。
四国霊場には本堂(本尊を祀る)、大師堂(弘法大師を祀る)、奥の院が「三位一体」となって成り立っている札所が多い。
但し、奥の院が定かでない札所もある。奥の院とは札所の開基伝説の聖地であったり、札所がかつて存在した旧境内地であったりと謂れは様々であるが、中には昔から修行場とされてきた奥の院も存在する。
石柱
八葉山神宮寺東林院
高野山真言宗
ご本尊 愛染明王 薬師如来
開基 行基菩薩
薬師如来真言
おん ころころ せんだり
まとうぎ そわか
御詠歌
種蒔きし 稲穂実りて栄えゆく
大師の恵み 仰げもろ人
境内風景と本坊
寺伝によれば、奈良時代の天平5年(733)に行基によって、建立されたと伝えられる。
平安時代前期の大同3~4年に弘法大師がここを訪れ、住民に真言の教えを伝えるとともに農業振興を奨励したと言われる。
大師は自ら鍬を取り米・麦の種を蒔き、災害の調伏を行ったと伝えられ、これにより当寺院は「種蒔弘法大師」と称される。
大師堂
修行大師像
かつては薬王寺・太龍寺・鶴林寺・隆禅寺・神應寺・瑞川院・荘厳院と阿波国八門首に数えられ、末寺16ヶ寺を持つ寺である。
江戸時代前期の元禄13年に大火に遭い伽藍の大半を焼亡したが、昭和59年に本坊が再建された。
行基菩薩像
その本坊の本尊は愛染明王で、本堂は薬師堂で札所本尊は薬師如来である。
だが、信仰上の本尊は本堂よりひと回り大きい大師堂の弘法大師である。
観世音菩薩
本坊の前に「平和の火」がある。
昭和20年8月6日午前8時15分、広島の上空で炸裂した原爆の火は一瞬にして十数万人の命を奪い、広島の街を焼き尽くした。
半月後、爆心地より500m圏内あった革屋町の金正堂書店の地下倉庫内で未だ燻りつづけていた火をカイロの灰に移し、随一の叔父の形見として福岡県八女郡星野村に持ち帰った人が居りました。故山本達雄さんという方です。
鐘楼
以来、山本さんは23年間肉親の供養と怨念の「火」として消してなるものかと灯し続けてきましたが、歳月とともにいつしか怨念は消え、「報復は報復を招く、平和を願えば平和の時代が来る」と考えるようになりました。
昭和43年8月、星野村がこの「火」を引き継ぎ、今日まで「平和の火」として灯しつづけている。
この「平和の火」は原爆の火として、第88番大窪寺でも灯し続けています。
平和の火
9:10 東林院から撫養街道を打戻り、途中から旧道に進み十輪寺に着く。
東林院から2.5km。
説法山 十輪寺宝珠院
高野山真言宗
ご本尊 地蔵菩薩
開基 智光律師
地蔵菩薩真言
おん かかかび
さんまえい そわか
山門の石柱
境内の風景
平安時代初期の大同年間に弘法大師が智光律師の伝説を聞き及び、地蔵菩薩を彫って再びこの地に安置したと言われる。
その際に、僧侶を集めて説法を行い四国霊場の談義をしたとされる。そこで十輪寺は「談義所」と呼ばれるようになった。
本堂
地蔵堂
かつては近畿方面より四国八十八箇所の巡礼を行う場合、船で鳴門の撫養港に到着して、ここから上陸し巡礼に向かった。
十三仏像
十輪寺は第一番札所の霊山寺に向かう途中に位置するため巡礼者の多くはここに立ち寄った。そこで第一番前札所と呼ばれている。
現在の境内は昭和61年に整備されたもので本堂、地蔵堂が改築されている。
六地蔵
参拝を終えて、そのまま旧道を進み坂東駅前を通り、閑静な門前町を抜けて進む。すれ違う人に挨拶されて気持ちがよい。
9:40 霊山寺に着く。
さすがに遍路姿や
参拝客が多い。
十輪寺より1.3km。
門前町・板東
第一番 竺和山霊山寺
高野山真言宗
ご本尊 釈迦如来
開基 行基菩薩
釈迦如来真言
のうまく さんまんだ
ぼだなん ばく
御詠歌
霊山の 釈迦の御前に
巡りきて よろづの罪も
消えうせにけり
仁王門・秋
相変わらず仁王門には厳格な表情の金剛力士像が立っている。金剛力士は仏教の護法善神(守護神)で、開口の阿形像と口を結んだ吽形像の2体一対として、日本では寺院の入口の左右に安置することが多い。
金剛力士像
像容は上半身裸形で筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情で表わすものが多い。
金剛力士像
こうした造形は寺院内に仏敵が入り込むことを、防ぐ守護神としての性格を表わしている。
どんな苦しいことも耐え忍び、88ヶ所を打ち終える強い心を授けてくれるかのようである。 一礼合掌して仁王門を潜る。
境内に入るとすぐ左に手水場が在り、その後に鐘楼がある。
まず、手水場で口を漱ぎ手を清めてから、鐘楼で梵鐘を撞き、瞑目、合掌して余韻に聞き入る。今までむやみに梵鐘を撞かなかったが、始めの札所であるので撞かしていただく。
鐘楼
参拝後に梵鐘を撞くのは「出鐘」と云われ、仏に戴いた「徳」が出てしまうので梵鐘は参拝前に撞く。
多宝塔
先に進むと左手に多宝塔、その向いの池の先に大師堂が建っている。
多宝塔には五智如来が祀られている。五智如来とは、密教で大日如来が持つ五つの智慧をひとつずつ如来にあてはめたもので、大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の五如来である。
多宝塔の並びには不動明王堂と十三仏堂が建ち、正面の最も奥に樹木に覆われた本堂が建っている。
本堂
本堂に進み所定の箱に納札を納め、写経が有れば写経も納める。
灯明を灯して、線香に灯をつけ、お賽銭をあげる。
後から参拝する人の邪魔にならないように、灯明は上段から線香は中央から立てる。そして本尊を念じ、合掌して読経する。
読経も後から参拝する人の邪魔にならないよう、向拝の正面避け脇で行う。
読経については決まりはないが、開経偈、般若心経、御本尊真言、光明真言、高祖宝号、回向文を唱えることにする。
大師堂
それから大師堂に進み納札を納め、同じ手順で参拝する。但し、大師堂では当然、御本尊真言は唱えなくてよい。
納札は紙製の物が市販されていて、事前に遍路はこれに出身地と氏名年齢、願い事を書き込んでおく。
納札は願い事を仏様にお伝えするのが目的であるが、時には遍路同士で取り交わす名刺代わりともなり、接待を受けた時に返礼として渡す習慣もある。
そして88ヶ所を巡拝した回数によって次のような色分けがある。
1回 ~4回は白
5回 ~7回は緑
8回 ~24回は赤
25回 ~49回は銀
50回 ~99回は金
100回以上は錦
金や錦の納札はめったに見られず、後にその希少価値を知ることにる。
私は車遍路の2回を含めると12回目になり、赤の納札を使用する。
参拝を終え、納経所へ。
今回の納経は以前参拝した時の納経帳に、墨書はせず重ねて宝印を頂く。
何十回も遍路を重ねている人の納経帳は真っ赤になっていると聞いたことが但し、料金は同額である。
納経帳
霊山寺は聖武天皇の勅願により天平の頃、行基菩薩が開基したと伝えられる。
弘仁6年、弘法大師が四国霊場を開創するためにこの寺を訪れ、21日ほど留まって修法された。
この間に霊感を得て釈迦如来を刻み、天竺の霊山を日本に移される意味から、天竺と和国(日本)から一字づつとって竺和山霊山寺と号し、第1番の霊場に定められたという。
ほかにも霊山寺は撫養・岡崎の船場に近いので、京阪神から四国を訪れる場合、足場がよくて第1番目に、という説や四国の東北に位置し、この寺から右回りに結ぶ真言密教の祈願檀結界の五色の檀線を引く形で、88ヶ寺が配置されているという説もある。
その後、明治24年に通夜堂から出火し本堂、多宝塔を残して建物は焼失し、近年になって再興した。
不動明王堂
本堂、大師堂を参拝した後、不動明王堂と十三仏堂に参拝する。真言宗では、あまたの仏様の中から特に慈悲深く、私達に直接救いの手を差しのべて下さる仏様を、「十三仏」と称して古くから信仰している。
十三仏堂
この世に生きる我々の守り本尊であると同時に先祖供養の仏様でもあり、年忌の際には必ず御本尊として拝まれている。
虚空蔵・大日・阿閦
十三の仏様は、それぞれに違った徳(特性、役割)を持ち、それぞれの働きを以て私たち一切衆生を救済されます。
私達の心が真に救われ、すべての世が浄土となることを願って精進されていると云われる。
阿弥陀・勢至・観世音
初七日・不動明王
二十七日・釈迦如来
三十七日・文殊菩薩
四十七日・普賢菩薩
五十七日・地蔵菩薩
六十七日・弥勒菩薩
七十七日・薬師如来
百ヶ日・観世音菩薩
一周忌・勢至菩薩
三回忌・阿弥陀如来
七回忌・阿閦如来
十三回忌・大日如来
三十三回忌・虚空蔵菩薩
普賢・文殊・釈迦
また、十三仏に名を連ねる仏のうち八仏が、十二支の守護仏である。
子・観世音菩薩
丑・寅・虚空蔵菩薩
卯・文殊菩薩
辰・巳・普賢菩薩
午・勢至菩薩
未・申・大日如来
酉・不動明王
戌・亥・阿弥陀如来
薬師・弥勒・地蔵
因みに「へんろみち保存協会・地図編」によると、歩きの全工程は約1,200km、通し打ちの所要日数は、その人の体力、背負う荷物の重さによっても変わってくると思いますが、 1日30kmを歩けば40日で1,200kmを歩ける計算になります。
本堂の天井絵
更に88ヶ所霊場、別格20番霊場、番外霊場に参拝して、第一番札所・霊山寺から霊山寺まで四国を一周すると約1,500km
また、辺地(へじ.辺路)とは海と陸の境界を意味し、遍路は海際を巡り修行しながら歩くのが本来の姿で、熊野古道の小辺路、中辺路、大辺路も当然同じ語源である。
縁結び観音像
ある人が言う。
「四国は、不思議な所。癒しの道だということを身を持って知やろう。出来るだけ苦労して回った方がいい、全て回るとものすごい満足感が生まれる。それはいつまでも胸に残る」と。
幼稚園児の接待所
9:40 参拝を終え、
仁王門を出て一礼合掌して極楽寺に向かう。
10:00 極楽寺に着く。
霊山寺より 1.4Km。
第二番 日照山極楽寺
高野山真言宗
ご本尊 阿弥陀如来
開基 行基菩薩
阿弥陀如来真言
おん あみりた
ていぜい から うん
御詠歌
極楽の 弥陀の浄土へ
行きたくば 南無阿弥陀仏
口ぐせにせよ
仁王門
派手やかな朱色が印象的な仁王門を潜って,右手に進むと石や刈り込みを配した美しく広々とした庭園になっている。
金剛力士像
金剛力士像
参道を進み左に折れると、石段手前に仏足石があり、その右手に一願水掛不動尊と観音堂がある。
境内の風景
石段を上がった左手に薬師堂、更に45段の急な階段を上ると正面奥に本堂が建ち、その右に大師堂が建っている。その間には安産大師が祀られている。
仏足石
一願水掛不動尊
寺伝によれば弘法大師が巡錫し、21日間、阿弥陀経を読誦して修法された。その結願の日に化現した阿弥陀如来を刻み、本尊としたと伝えられている。
本堂
日照山の由来は、本像から発する光が海までも照らし、漁の妨げになったので鳴門・長原郷の漁民が寺の前に小山を築くと、再び大漁になったという言い伝えからきている。
大師堂
極楽寺は「安産大師」として安産にも霊験があると信仰されている。明治の頃、大阪に住む病弱な婦人が妊娠したので安産を祈願したところ、ある夜、夢の中に弘法大師が現われて、四国遍路を勧められた。
そこで発心して讃岐から巡拝して、ここ極楽寺まで来ると急に産気づいた。
しかし、大師の再度の夢告があって、最後まで巡り続けた。
安産大師像
結願して帰宅したら、男子を無事に出産することが出来たという。感激した婦人は後に大師堂の前に修行大師像を奉納した。
それ以来、安産大師と呼ばれ、祈願する人が絶えないという。
遍路することによって婦人は健康になり、尊い生命を世に送り出すことが出来たのである。
長命杉
弘法大師がこの寺で21日間の修業後に植えてと伝えられる長命杉がある。
以来、約1,200年が経つと伝えられ、注連縄が飾られ下部はつるつるだ。
長年に亘り間近で手を合わせ、幹を撫でて長寿を祈る人が絶えなかった言われる高齢化社会の見本のような老樹である。
私も触れて家族の
長命を祈願した。
鐘楼
梵鐘
縁起の良い寺として隆盛だったが、長宗我部元親が天正13年に四国全土を領有しているが、その蔭で阿波の寺はほとんど兵火によって、焼失したり破壊の被害を受けた。
六地蔵菩薩
この寺には柱に龍が刻まれて、荘厳な趣きのある一風変わった手水舎がある。
手水舎
参拝後、金泉寺に向かう。極楽寺を出て、車の通れない墓の中の道を行くとまもなく、県道と平行して旧道が西に延びている。
交通量の多い県道と違った静かな道を田園風景を過ぎ、古い集落を抜けて進むと真新しい道と合流。
遍路石
その先で高松自動車道を潜ると、田んぼの先に金泉寺の森が見え、へんろ道保存協力会の標識に従い車道を離れ、あぜ道を進むと山門の正面でなく大師堂の裏手に通じていた。
この道を通る方が若干近く、また、かつての遍路道であったようだ。