濁水心無けれども月を得て自ら清めり。
草木雨を得て豈に悟り有って花さくならんや。
妙法蓮華経の五字は経文に非ず。其の義に非ず。唯一部の意ならくのみ。
初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに意に当るなり。
この四信五品抄は大聖人様の御歳五十六歳、現在の千葉県市川市に住んでおります富木殿に賜った重要な御書であります。
この御書の御趣旨とはどのようかと申しますと、末法の仏道修行は熟脱の釈迦仏法とは違う、と。釈迦仏法に於いては法華経二十八品を全て読誦する修行とか、あるいは布施行とか、或いは戒律行とか、そのようなことが行われておったけれども、末法に於いてはこれを制止しなければいけない。末法の仏道修行は唯御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る。それが唯一の成仏の修行である、ということを御示し下された大変重要なる御書であります。
只今拝読し御文はその中におきまして、何も知らずに唯南無妙法蓮華経と唱えて成仏が叶うのである、と御示し下された段の結びの一節であります。
この御文の意はこういうことです。
濁水心無けれども月を得て自ら清めり。
濁った水に心や意識はないけれども月が映れば自然とその水が澄むではないか。また草木には悟りはないけれども、雨を得れば自然と花が咲くではないか。このように知恵や悟りがなくても、唯南無妙法蓮華経と唱えれば自然と凡夫が仏になれるのだ、と言う事の例えをまず御示し下された。
では、その南無妙法蓮華経とは何かと言うと、
妙法蓮華経の五字は経文に非ず。其の義に非ず。唯一部の意ならくのみ。
これを御法門の上では文・義・意の三段と言うのです。
すなわち大聖人様が仰せ給う南無妙法蓮華経と言うのは法華経二十八品の経文の事ではない。そしてその経文によって宣示出だされる迹門・本門の義でもない。実に迹門・本門の法門が帰入する所の根源の大法、すなわち文底下種の妙法なのだ、と。これは久遠元初の御本仏が御悟りになられた生命の極理たる南無妙法蓮華経の事、つぶさに言えば御本尊の事なのですね。
そして
初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに意に当るなり。
末法の初心の行者、すなわち末法の一切衆生がこの御本尊の深い意味が分からなくても、唯御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉れば自然と成仏が叶うのである、と言うことを仰せ給う、何とも有り難い事であります。
知恵や思索によるのではない。唯信心口唱により自然と生命が変わってくるのです。凡夫が仏にならせて頂けるのである、という事なのですね。理解力とか、知恵とか、思索とかそういう事ではない。お題目を唱えれば自然と凡夫の心が仏様になっていくのだ。仏に変わっていくのだ。これは御本尊の仏力・法力による。実に末法の三毒強盛の荒凡夫、この一切衆生を御救い下さる。日蓮大聖人の下種仏法と言うのはまことに単純明瞭ですね。御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱える。この信心口唱だけで成仏が叶う。これならば日本人でなくても全世界の人々ができる。大人でなくても子供でもその事を実践することが出来る。この信心口唱の要術を以って一切衆生を御救い下さるということであります。
末法の衆生は釈迦仏法の世界の衆生と違って三毒強盛ですよ。三毒というのは、貪欲・瞋恚・愚痴でしょう。欲と瞋りと愚かしさが充満している。この三毒が強くなってくると人の心が荒れてくる。家庭が荒れてくる。学校へ行っても学校が荒れてくる。一国、社会が荒れてくる、ということなのであります。
先般の総幹部会でも申しましたか、この所、耳を覆うような、聞きたくない(ことがあった)。自分の、愛しい我が子を育てるのが親であるのに、その親が何と子供を虐待して子供を殺してしまう、ということを、テレビで何度も聞くと、耳を塞ぎたくなります。これは、三毒が強くなると母性本能がなくなってしまうのです。母性本能と言うのは誰に教わるわけではない、本能として持っているものでもある。我が子を産めば何としても、我が身を犠牲にしてもこの子を育てたい。自然と、誰から教わることなく、備えている本能でありますが、三毒が強くなれば母性本能はなくなってしまう。
父親も同じ事であります。自分本位になってくる。自分の欲望が中心になるから、子供が邪魔になる、可愛くなくなる。そこで、うるさいガキだ、ということで殺しなんてことも出てくるのであります。
そして自分を産み育ててくれた親に対してもそのような気持ちが起きてくる。自分本位になれば親殺しというのもあるのですね。それからいじめというものもこれも三毒のなせるわざですよ。とにかく最近になっていじめが益々急増ですね。昨年の暮れに文部科学省によって発表されました。2012年度に於ける小中高のいじめの件数、昨年の暮れに発表した、それによると前年に比べて2.8倍も増えた。大変なことでしょう。件数にして198,000何百、といいまして、約20万件。このいじめがある。このような大多数のいじめによって知られざる自殺の生徒が大勢出てくる。誠に痛ましいことであります。
このいじめというのは三悪道のうちの畜生界でしょう。誰かが弱い者を標的としていじめる。そして大勢の者と一緒になってやる。そのリーダーの号令に従って弱い者をいじめないと自分が仲間はずれにされる、よってみんなで以っていじめる。この卑怯な心は畜生界だということであります。
このように幼児の虐待だとか、親殺しだとか、そしていじめだとか、社会を見れば殺人、強盗、詐欺、放火、こんなことが毎日々々起きておりまするが、こういう事を無くすにはどうしたら良いのか。中には、道徳教育以外にない(と言う人もいる)。そんなことで救えるのが末法の衆生ではないですよ。生命そのものが濁っているのだから。濁った生命の上にいくら道徳を教えたってせせら笑うのです。そこに三毒の生命を変えなければいけないのです。三悪道の生命そのものを変えなければいけない。
そこに大聖人様仰せの
濁水心無けれども月を得て自ら清めり。
何ともこの仰せが重くなってくるのです。生命そのものを変えていくのです。濁った生命に道徳教育は全く無効である。生命そのものを変えなければいけない。三毒の心を変える。三毒の生命を変えていく。それにはお題目を唱える以外にないのです。どんなに濁った心であっても御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉れば仏様が宿ってくる。濁った水に月が浮かぶようなものです。そして一瞬にして心法が変わってくるのです。ですから僅かなことでもすご怒り出す、すぐカッとなる、そして周りに迷惑を与えていた者が、一度信心をしてくるといつの間にか自然と慈悲の心が出てくる。相手を思いやる気持ちが出てくる。自利利他の境界に変わってくるのです。
よく体験発表でありますね。これも宿習の至りですが、自分の親のやることを見て何とも親が憎い。親を殺してやりたい。中には体験発表でこの間、包丁まで買って用意した、なんて物騒なことがありました。それがお題目を唱えてくるうちに親を救いたい、こういう気持ちになった。殺したいが救いたいに一変する。これは信心の力でしょう。そういうふうに教育の力で直るものではない。或いは幾ら刑罰を重くして刑務所に入れて直るものではない。ここに大聖人様が生命そのものを変えていくという信心口唱を教えて下さったわけであります。
いじめにしてもそうですよ。もしいじめる者が信心を起こしてくれば誰がそのような人、弱い者をいじめましょうか。またいじめられる側もそうです。心に仏様が宿ればその人は諸天善神が必ず守護する。また生命力が強くなる。いじめられるなんてことは断じてなくなるのであります。
いいですか。御本尊を信じ恋慕渇仰して南無妙法蓮華経と唱え奉れば我が心に必ず仏様が宿る。日蓮大聖人様が宿って下さればその人は御本仏の分身なのです。大聖人様の分身なのです。やがてその人は一生成仏をする人である。このように全ての人が日蓮大聖人の分身となって仏になる。これが大聖人様の大願であられる。そのことを 日蓮は日本の人の魂 とこう仰せになっておられる。これが大聖人様の大願であられる。
更に国家に約しては 日蓮は日本国の柱なり(下種本仏成道御書) と仰せになっておられる。この柱を立てるということがすなわち国立戒壇の建立であります。この時、国土から三災は消滅する。そして他国から侵略されるというような恐れが全くなくなる。これが大聖人様の究極の大願であられる。この日蓮大聖人の重大な御化導を今御手伝いさせて頂いているのが御遺命を守り奉った顕正会であります。