気づいたら10月が終わる。

介護にどれだけの時間を費やしただろう。

できることには限りがあって、毎日新しい課題が発生する。


忙中忘ありどころではなく

忙殺という言葉をかみしめる。


自分の中が乾いていくのが分かる。

優しさ・慈しみという人間らしい潤いをなくす前に

湧き出ずる泉に身を浸さねば。

父の認知症が進行していく。

父の脳はまるで完成したジグソーパズルのピースがあちこち欠けていくように変化している。

どこかのピースが突然抜け落ちる。

どのピースがなくなったのかわからない。

ピースの欠けた絵を見て、全体を想像しなおしてもなんだかわからない。

何かがおかしいと思っても、何がおかしいのかが分からない。

分からなくなっていく自分が怖い。

分からなくなっていくことを思うと苦しい。


そんな父の姿が、痛い。



逆に。

発達障害の子どもの脳は未完成のジグソーパズルを埋めていくような感じだろうか。

なかなかぴったりのピースを探せなかったり、間違った場所に置いてしまったり。

ピースの欠けた絵を見ては、全体を想像して想像が膨らみすぎてしまったり。

何か違うと思っても、何が違うのかよく分からない。

みんなと違っているのが辛い。

みんなと違っているのが困る。

でも、自分だけの絵を作り上げてもいいかも?


そんな子供たちの姿は痛くもあるが、明るさもある。

ユニークなのだ。



途中の状態は一瞬似ていても。

失うと得るとではベクトルは違うのだ。

エネルギーは違うのだ。


そんなことを思った。

買い物帰りの夕焼け。


紅い。


夕焼け色と言われるような朱色ではなく、ひたすらな紅。

血の滴るような色。


こんなに赤い夕焼けを初めて見たような気がする。


しばし見惚れているうちに、あっという間に日は落ちる。

一刻の至福。

昨日に続いて、今日も月の話。


ふと目をやった先の月の形が何だかおかしい。

あれ?

雲に隠れているにしては、それも変。


そういえば!

今日は皆既月食だって聞いた気がする。

今は部分食が進んでいる状態なんだ、と納得。


スーパームーンの名残というか、まだまだ大きめに見える月が徐々に隠れていく。

光っている部分に対して、陰に入ってうっすらとだけ見える部分の輪郭の小ささ。

光るって、大きく見えることなんだとまた妙に納得。


雲に邪魔されたけど、時々顔を出す月の形が見るたびに違うのはとても面白かった。


さっきはそら豆みたいな月。


遠く遠くに思いを馳せる楽しい時間を、ありがとう。

また頑張ろう!

台風が過ぎ、十三夜の月の光が冴えわたる空。


太陽のように温度を感じないだけにその光の冴え冴えとした明るさが緊張感を醸し出す。

「透徹」という言葉が当てはまりそうなくらいに。


この光を受けた山紅葉はどれほど美しいだろう。


大好きな東山魁夷の絵が思い出された。


心が苦しい今だからこそ、見たいものがある。