児童文学と聞いて何を

イメージするだろうか?

 

狭い意味では子供のために

書かれた文学のことである。

しかし児童文学の定義は

時代によっても異なってくる。

 

誰もが知る『ロビンソン・クルーソー』や

『ガリバー旅行記』は元々、大人のために

書かれた物語であるが、子供が読む本と

考える人も多いであろう。

 

反対に『ハリー・ポッター』のシリーズは

大人にも当然のように愛読されている。

 

児童文学は物語の語り手は

大人であることが多く、

子供を描いていても大人の視点を通過している。

 

子供が読むのにふさわしいであろう、

という大人の判断が必然的に伴っているのだ。

 

主題は、伝統的に性、暴力、排泄などを

回避する事が多い。

 

そして児童文学を研究する人は、

直接子供とかかわる事が多い女性が多い。

また児童文学の作者も女性が多い、

というのが特徴的であろう。

 

大人の関与が必然的な児童文学であるが、

将来は子供の作者による児童文学が

生まれてきてもいいのではないか?

 

文学ディレッタント  飯島 昭典

 

 

9月に入ってもまだまだ暑いですが、

暑さ寒さも彼岸までというので

もう少しの辛抱といったところでしょうか?

 

さて本日の文学の窓は

竹山 広の歌を鑑賞します。

 

 

 

先にきしジュースの缶の座りいるベンチに心の臓をいこはす

                      ー竹山 広

 

 

 

疲れているときにふと座るベンチ。

ほんの少しの間でも身体は休まるものだ。

 

暑い夏場には座る気にもなれないが、

春や秋、冬の陽だまりなどでは、

やはり座りたくなる。

 

「先にきしジュースの缶」とは

誰かが置き忘れた缶を擬人化した

表現であろう。

 

つまりゴミ箱に捨てるべき缶の事である。

 

この歌を読んでみて心臓を休める

という表現から高齢者の作者

という印象をうける。

 

若い人は心臓を休めるというよりは、

くたびれた脚を休めるために

座るベンチである。

 

あるいは、心臓に病気を抱えた

作者なのであろうか?

 

ゆっくりと歩いてきて

ベンチで休む光景が目に浮かぶ。

 

心臓には心が宿ると

度々言われる事だが、

心臓を休める事は精神を

休める事でもある。

 

ゆったりと公園のベンチで、

身体と心を休めている時の歌だろうか?

 

文学ディレッタント  飯島 昭典

 

 

昨日、24時間テレビが終わりました。

少しは見ましたが、

毎年エンディングで流れる「サライ」の歌には

心が揺さぶられます。

 

故郷を捨てて、夢を追うために

外の世界へ出ていく。

 

これが自分が東京の大学へ進学した事と重なります。

私は東京で一人暮らしをしていたわけではありません。

 

電車で通っていましたが、

当時は2時間ぐらいかかっていました。

 

今はつくばみらい市という名前ですが、

私が大学へ通っていた頃は

谷和原村という名前です。

 

村から来ているのはもちろん、

大学でほとんどいません。

 

いつか学会に所属して

働きながら研究生活を送りたい、

という夢を持っていた私。

 

その夢は実現していますが、

夢を追っていたあの頃、

故郷への反発と愛着、

これが「サライ」の歌にぴったり重なります。

 

私は同窓会には行かないし、

保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校の

アルバムや文集、その他の写真は大学進学と同時に

廃棄したし、後悔もありません。

 

それでも今でも変わらず故郷に

住み続けている私にはやっぱり故郷に

ひかれる部分があるのかもしれませんね。

 

文学ディレッタント  飯島 昭典

 

 

英語とは元々、イギリスで

アングロ人、サクソン人、ジュート人が

使っていたゲルマン語です。

 

そこへ8世紀から9世紀にかけてヴァイキングとの

戦いで、アルフレッド大王が勝利する途中で

ヴァイキングの使っていた古ノルド語が

ゲルマン語に混ざる事になります。

 

さらに1066年フランスのあたりを主力とする

征服王ウィリアム(フランス語ではギョーム)が

イギリスで初めてノルマン朝を開きます。

 

そこで今まで使っていたゲルマン語、

古ノルド語の混ざっていた英語に

大量のフランス語が流入する事になるわけです。

 

古英語とは大体450年から1100年、

中英語は1100年から1500年、

近代英語は1500年から現在を指しますが、

 

中英語の末期からルネサンス期(14世紀から16世紀)

にかけて大母音推移と言われるものが起こり、

発音が現在のものへ大きく近づく事になります。

 

よくドイツ語の方がフランス語より簡単などと

言われますが、英語と重なるのは

ゲルマン語時代の名残の1000語程度。

 

フランス語は英語の白色語彙(5000~6000語)

を超えるとほとんど重なっていきます。

 

どちらが難しい、簡単というのは

本当はないんですよ。

 

文学ディレッタント  飯島 昭典

 

よっぽど疲れていたんでしょうね。

7時間以上もぐっすり寝てしまいました。

こんなの何か月ぶりかなあ。

おかげで頭がすっきりしています。

 

そういうわけで、本日は眠りについての

短歌を鑑賞します。

 

 

睡りては癒えゆくひとつ疲労度のそのみなもとのつねに騒ぎつつ

                       ー小中 英之

 

眠る事は生命の維持に絶対必要な事だが、

そうじゃなくても疲労の回復には

欠かせない事である。

 

ぐっすりと眠った後はやはり体は軽くなる。

そして活動的になるもの

ではないだろうか?

 

身体だけでなく精神面にも

影響を及ぼすのが眠りである。

 

嫌な事、ストレスも眠れば意外と

すっきりしてしまう、

という事が、多いのではないか?

 

この作者は眠りによって解消した

精神面での疲労をうたっている

のではないだろうか?

 

でも疲労がなくなったというのは

裏を返せばそこに何らかの精神面での

辛さが存在し、だからこそ回復した

と言えるのである。

 

疲労の源が「つねに騒ぎつつ」と

述べているように眠りの静かさとは

対比の関係にある。

 

「つねに騒ぎつつ」ある動的な精神面での

辛さは眠りという静的なもので癒されるのだ。

 

誰もが関心を持てる眠りをテーマにした

作品ではないだろうか?

 

文学ディレッタント  飯島 昭典