「孤高のジャズ・トランペッター」と呼ばれる五十嵐一生は2025年1月で「還暦」も迎える。
それと同時に、トランペット人生50年、音楽活動デビュー40周年。
この60周年、50周年、40周年にあたって、本人に聞いてみた。以下、それをまとめた文章である。

撮影:joe kitagawa
五十嵐一生:談
オレは正直いってこんな年齢まで生かされてきたことを、とてもとても不思議に思っている。
一般の社会では皆毎日コツコツと働き、給料をもらってたまにはボーナスがあるだろう?
音楽家にはなんの保証もない。かなりデンジャラスな生き方だなあと自分以外の人間も含めてそう思う。
生きてこられたと言うより、生かされてきたんだと実感していてそれは本当に感謝だ。振り返ると音楽人生
精一杯やってこられたんだからなあ・・。
オレはちょうど50年前にトランペットを手にした。まあ・・それ以前にピアノのレッスンに通ったり、楽器屋でドラムを叩きに行って色々教わってきたし、同時にレコードを聴かせてもらうようになった頃だったんだが、音楽室にトランペットが入ってきたんだ・・。先生は「まだ、誰も触っちゃあいかんぞ」と言われていたんだが、オレは放課後の誰もいない音楽室に忍び込んで勇気を出し、楽器が陳列されている棚から、そのトランペットに手を伸ばしオルガンの影に隠れるようにして初めて触れてみたんだ・・。
当然、持ち方も鳴らし方も知らなかったが、なんとなく知っていたのがマウスピースを楽器につけて唇をそこに当てて息を吹き込むということかな・・。なんと・・・! 偶然にも程があろうにも、そのラッパからは「パー!」という音が出てきた。しばらくの時間夢中になっていた小学5年のオレ。気がつくと目の前には担当の先生が仁王立ちしていて、「コラーーー!!!」ってな感じになってしまっていた。それが1975年のこと。
翌年の小学6年の1976年には、何も教わらずに少々メロディーが吹けるようになっていた。
毎日仕事に忙殺されて大変な時期を過ごしていたオレの親父は、息子に一番安いモデルではあるがちゃんとした新品のトランペットを買ってくれた。それはクリスマスのことだ。今でもはっきりと覚えているよ。
その頃から考えていたのは自分の人生だった。算数も国語も体育も得意ではなかった小学生のオレは、何か人より自分の方ができるモノとして「トランペット」を選んだ。図工や絵画も好きで得意だったが、音楽は人に聴いてもらえる。一方、絵を描くにも一人ぼっちだし、誰もみてくれないかもしれない・・そんなことを思って、音楽の道を歩くことになったんだとぼんやり記憶している。
中学に上がると、自動的と言えば良いか・・吹奏楽だった。音が出るということで、中学一年に上がったおれは新入生歓迎会で既に先輩方に混じって合奏をしていた。今思い起こすといろんな体験をしたなあ・・。
ハーモニーの美しさや強弱。そして自然と涙が出てくる楽曲に出会うことによってオレの「心」は形成されたんだと思うなあ。歩きながらの行進もその頃初めて体験した。体でビートを感じる第一歩だっただろう。
そのままその中学で卒業までラッパを吹くんだと思い込んでいたのだが、まさかの石川県への移住。これには参った・・。大好きだった北海道の北見。そこを去って知らない土地に行くなんて想像もしていなかった。
移住してからのオレは、まさに心はささくれだっていたんだけれど、どうしてグレることもなくここまでこられたのか?それは音楽の力だったと言わざるを得ない。音楽に齧り付き、ラジオから流れる曲を貪り、FM雑誌を隅々まで読み、有名なアーティストの写真を毎日のように眺めていた。そうすることによって心をなだめていたんだろうと・・・そう思っている。70年代後半の音楽はどれも圧倒的で強力なものばかりだったし、どんな番組も聴いたんだ。クラッシックの美しい世界もその頃から感じて意識するようになった。そこでオレは、自分自身に何が響いて何を知りたいか?をはっきりと区別するようになっていった。何が自分にとって良いと感じるかをね。
そうそう、1974年には初めて自分でゲルマラジオを作ったんだ。それはそれは煩雑な出来上がりで、音なんかは聞こえてこない状態だった・・。ある時、シーンとした自分の部屋から何やら「もじょもじょ・」と音が聴こえてくるもんだから、部屋中に聞き耳を立てて歩き回ったり・しゃがみ込んだり。原因は、失敗作だろうと思っていたゲルマニウムラジオのイヤホンからの音だった・・。あの時の感覚は素晴らしかったな。ちゃんと放送が聴こえていたんだから・・。小学生だったオレはそれから眠る時には必ず片耳にイヤホンをして放送を聴きながら眠った。夜中2時くらいにはうっすらと目が覚めて少し放送を聴いたが、また眠ってしまう・・・そんな事を繰り返す夜だった。聴こえてきた声の主「白石冬美」さんには、90年代に入って知り合うことができ、彼女が亡くなるまでまるで親友のように過ごすことができたんだ。これは奇跡だと思う。
中学に上がってからは、FMに移行してゆくんだが、片面一時間たんまりと収録できる120分のカセットテープを買ってもらった。お袋が買ってくれた理由はラジオの「基礎英語」をやるために必要ということだった。しかし、オレはジャズ番組や当時クロスオーヴァーと呼ばれる音楽を雑誌で当たりをつけてタイマーで録音し、気に入ったものや、素晴らしいと感じたものを繰り返し繰り返し聴いた・・・。年齢が上がるにつれてカセットテープの量も増えていった。親父もお袋もきっと諦めていたんだろうなあ。「またカセットテープかー?」って。
移住してしばらくすると、オレは生活も大変な時期にもかかわらず、親父にカタログを見せて「ステレオラジカセ」をせがんだ。ある日、それはオレの元にやってきて、ステレオの放送には赤いランプがついた。モノラルからステレオへ・・これも非常に感動的だった。寝返りができないほどデカいヘッドフォンだったが、それも今となってはステレオを意識するにあたっては、とても大事なものだったのだなあと感じている。
勉強の出来の良くないオレは音楽を教えてくれる科がある高校へ入れてもらったんだ。そこら辺からオレの人生は方角がハッキリとしてきた。基礎となる音楽理論、音大受験のためのソルフェージュや副科のピアノ・・。いろんな事を学んだ。運よくちゃんとした基礎を与えてもらえたのだった。それ以外に先輩のロックバンドにキーボードで参加したりしているうちに、自分のバンドでコンテストに出るようになった。いろんな世代が集まって競い合うそれは刺激的だった・・。しかし、本来の興味であるジャズにはまだ出会えていなかった・・。
ある時、野外のちっちゃな音楽フェスに出ていた時だ。ある男性がやってきた。舞台裏で札束をちらつかせて「話をしようよ!これでタクシー乗って喫茶店までおいで」って少々のお金をくれた。行った先の喫茶店で彼に言われたのは「ねえ、東京に出てさー、としちゃんのバックバンドやらない?」って事だった。スカウトかあ・・。オレははっきり覚えている。自分のその時の発言は「オレはちゃんと勉強して音大に入ってジャズをやりたいんだ。だからそんなのやってる暇はないし、やる気もない」と・・。
いやいや・・なんだか不思議だが、キッパリとそれを断る・揺らぎのない自分が存在していたという事だろうかな・・。キッパリしていなかったら、その時点でオレの人生はまるで違うものになっていただろう。
高校2年の時だっただろうか、北海道に単身旅行を許されて北見に数日間帰ることができるチャンスがあった。その時帰りの列車で退屈しないようにと、親戚のおばさんが「カセットボーイ」を買ってくれた。そうそう、録音もできるし、ヘッドホンもついていて、FMも聴くことが出来るやつだ。その頃からオレには乾電池も必要になった。しかも大量にね・・。帰りの列車の中で聴けるようにと、いとこの姉貴が「ウエザー・リポート」の「ナイトパッセージ」を録音したのをくれたんだ。「あんた好きでしょ?こういうの」ってね。あれはすごかった・・。北見から加賀までの帰りの列車・・青函連絡船も含めずーっとそれを聴き続けて帰路に着いたんだ。素晴らしい演奏だったがオレは訳もわからず・・分かるまで・体に染みるまで聴き続けた記憶。それ以降「カセットボーイ」と「トランペット」は肌身離さず、どこに行くにも持っていった。カバンの中にはカセットテープと単三乾電池がゴロゴロ・・歩くとガシャガシャ。そんな少年時代だった・・・・。
上京して音大の試験に合格するまで2年かかったから、3回受験したことになるな。できるやつと落ちるやつとどう・何が違うのか・・。深く考えさせられた時期だった。同時期には先輩にジャムセッションにもつれていってもらった。今思うとその演奏の場は自然と「自分の居場所」のように感じた。しかし、目的は音大に合格することだったから、ジャムセッションを我慢して・・オレはなんだか思い詰めて苦しい2年ほどを過ごしたということかな。
1983年に上京し、奨学金をもらって新聞配達をした。そしてまた翌年にも試験に落ちたが、運よく1985年に合格することができた。せっかく合格できたと言うのに、オレは学校にはろくすっぽ通わず、ジャズのあるところばかりに居た。学校では学食で飯を食い、中庭で練習する。そして学校のメンバーでビッグバンドやコンボをやった。授業に出たのはほんの一瞬で、ジャムセッションがまさにオレの大学だった。
地方から出てきたのに、仕送りをもらってなかったから、生活費はバイトで稼いだ金でしのいでいた。
そのうちに、方々からお声がかかり、色んなものに呼ばれて演奏した。ホーンセクションもやったし、歌の伴奏もやった。片一方がフリージャズ、もう片っ方でそのあくる日にビ・バップをやる・・。かなり極端だった。日本人オレ一人だけのファンクバンドもあったし、ブラジリアンのバンドにも参加した。これがオレの駆け出しと言って良いだろうな。そのうちオレは「自分の音楽」を頭の中に描くようになってゆく・・。何が自分なのだろうか・・とね。
そうそう、そのころは若いラッパといえば、オレしかいなかったんだ。その後ラッパ吹きが増えてきたのは数年してからだった。ある日、日野元彦に呼ばれ衝撃的なオーディションを受けた。オーディションだったことも知らなかったが、演奏後に言われたのは「リズムがなってない!ジャズのノーツがなってない!ストーリーがない!!!」とまあ、涙が出そうな言葉の数々。彼はまるで機関銃のようにオレに言葉を浴びせた。
その話は朝4時くらいまでにおよんだ。ああ、この人とは演奏させてもらえないんだなとしょんぼりしていたんだが、結果、彼のマネージャーから電話があっていつどこだから参加しろと・・。結局、オレは日野元彦という人の音楽人生に、まさに若手のラッパ吹きとして参加することとなった。「学校とジャズとどっちが大事なんだ!!!」って言われて、オレはもちろん学校へ行かなくなった・・。せっかく入学できたのにな。
その反面、新宿や六本木では色んなところで演奏し、強力な演奏家達から色んなものを学び、そこが大学。いや大学院のような感じだった。無償で教えてもらい、一緒に酒を飲み、ギャラまでもらっていたのだから・・。しかし、不思議なのはそこにトランペットをどう吹くか?というラッパ吹きの先輩は誰一人としていなかった。音楽・演奏の何かを教えてくれたのはドラマーだったり、ベーシストだったり、サックス吹きだったりしたんだ。言葉では言い尽くせないくらいの「大事なこと」を彼らから教わり学んだ。
1991年頃だっただろうか、マイルスがこの世を去り、とても悲しかった。オレが初めてマイルスのレコードを買ったのは1975年。小学5年生の時だった。音の強烈さ・・明るさ・暗さを感じとれた。擦り切れるほど聴き込んだそれは文字通りジャミジャミになって、のちに2枚買い足した。オレの中学時代に音楽をしていなかったマイルスをオレはもう死んでしまった人だと思い込んでいたんだ。
高校に通っていた福井の駅前の楽器屋のレコードコーナーで、「ねー、五十嵐くん、マイルスが出たよー」って、おおよそジャズの変化系なんか興味もなさそうな、そのレコードコーナーの担当の綺麗なおねーさんが言ったんだ。「えーー?マイルスって死んじゃったんじゃなかったのー?」って言ったら、これは間違いなく新譜で、「聴いてみたら結構面白かったよー!」って・・。
もちろんなけなしの金をポケットから出してウチまで持ち帰ったのがマイルスの復帰の作品だった。「あー!マイルスは生きていた!そしてラッパを吹いる!生きてる!!!」って・・本当に嬉しかった記憶。フツーのおねーさんが、面白かったって・・カシオペアとかスクエアならわかるけど、「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」を良い音楽だと受け止めるその綺麗なおねーさんに対してオレは、何か不思議で理解できない思いを抱いた。(どうしているんだろそのおねーさん)
「そーかー・・、音楽ってこうでもいいのかー・・」なんてぶつくさと自問自答していた。
レコードからフォノイコに繋いでラジカセで録音し、汽車通学の間、移動中はずっとそればかり聴いていた・・。内容は大きな謎だらけだった。わかりやすい音楽がいっぱい出てきて、そんなものも同時期に聴いていたから、オレはその謎めいた音楽の世界の存在に打ちのめされていた。
次第に、オレはもっと「自分の音楽」をするべきだと思い込み、サイドメンの仕事で雇われることを全て辞めてしまった。運よく1993年にはアルバムデビューすることができて、以来・自分の音楽に思い詰めるように立ち向かう事となった。
それ以降は言い尽くせないほど、色んなことが起こったし、色んな人と色んな音楽をした。
もちろん曲も書いたし、同じメンバーでのクインテットで色んなところで演奏した。
そして今日・今現在。
気が付けば音楽家として40年が経過した。あっという間の出来事だったと感じる。
50年も吹き続ければ、左肩は「もう嫌だ」と言い出し、トランペットを握る事を拒み始めた。
右手一本で吹きながら左腕・左肩を休めながらタイミングを見てまた両手で吹くような感じだろうか。
ジャズのトランペット奏者は短命が多くを占める。長生きしてもラッパは、吹くのがしんどくて大変だからな。
ブッカー・リトルが23歳、クリフォード・ブラウン26歳、ケニー・ドーハム48歳・・・・。
ジャズ界のトランペット吹きは意外にも短命だったから、オレもそんなに長く生きないだろうと思っていたんだが、人生あっという間だった。「還暦」かよ・・。
あと5年~10年頑張らないとな・・・。
スポーツ選手の引退、サラリーマンの定年退職・・・そういった形は音楽家に存在しない。
辞めようがないのだ。音楽はまとわりついてくる。きっと、この世を去るまで音楽の中にいることだろうね。
撮影:蓮井幹生