チケット(3+) | ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

twitterで書いたことをまとめたりしていましたが、最近は直接ココに書き込んだりしています

 名前とは本来、別の何かと区別する以外の使用法を持たなくても良い称呼の事ではないだろうか。字面がどうであろうと、読み方や音がどうであろうと、他と区別できれば何だって、名前の役割を果たせると考えられる。強そうだとか弱そうだとか、男らしいとか女らしいとか、そういうものを纏わなくったって一向に構わない。
 しかし実際にはそうした区別のみではなく、言語という記号や音素の組み合わせによって名前が構成されるためどうしても、名付け親の言語に依存して「思い」が込められてしまう。新しい命に期待するからこそ「思い」が込められてしまう。そこには理想だったり希望だったりと様々な志向がある。そしてそれは表意であったり表音であったり単語の組み合わせであったりする。言語を逸脱して新しい綴りや音を名前とするなら、その人自身の成り立ちがやがて、その綴りや音の意味を纏う愉しさがあるのだけれど、それを期待して名付ける事はしない。存在しないような変な名前を綴ると変な人と思われがちなのでむしろ、避けられる。でもこれは区別するだけと考えるなら、本当はおかしな事かもしれない。どの人生も同じではない事を知っているなら、おかしな事かもしれない。
 とにかく名前は言葉であるがゆえ、そして言葉には経緯があるゆえ、時としてその言葉が呪いのように、運命のように、その名付けられた人を包んでしまう。それは意図通り纏われる事もあれば、全く意図しない形で縛る事もある。そしてそれは、結果として名付け親の期待に添う場合もあれば、期待に沿わない場合もあり、その程度が大きい場合もあれば、小さい場合もある。
 名前の期待に添えなかったり、意図しない形で影響を受けてしまった場合、それは名前負けと言われるらしいがそうなってしまった場合、その名で呼ばれる事に好い気はしないだろうし、名前を変えたくなるかもしれない。
 そう言えばかつて、年齢に応じて名前を変える習慣があった。一人前と認められた時、今までの経緯とこれからの希望を込めて新しい名前をつける。それは、人生の大きな転機に相応しい儀式だった。
 もしそうやって名前を変えれる機会があるなら、仮に名前に違和感があったとしても治めようがある。そして現代でも、手続きさえ踏めば改名できる。いざとなれば改名に挑めばいい。
 しかしそうして改名する機会が得られたとしても、「区別するだけ」という純化を図る事は無いだろう。新しい言葉や音を使って名付けられる、などいった事も起こらないだろう。名付け親がそうしたように、新たな意図を纏わせて「改名」が行われるに違いない。
 一方で、名付けられないという事態も世の中では起こる。生みの親が名付けずに子を捨ててしまい、誰にも拾われず死んでしまったら、無名の一生となる。
 こうしてみてくると、名前を授からず生きていく事は最早、運命への反逆ではないかと思えてくる。

 彼女の場合、自分が名前で呼ばれた感覚が記憶として残っている。だから名前があったと彼女は思っている。けれどもそれがどのような字面で音なのか、彼女が思い出そうとしても思い出す事ができない。役場に行って名前を参照すれば良いけれど、問題はそう、そもそも彼女の名前はおろか、戸籍などの彼女のありとあらゆる情報がどこにも残っていない事なのだ。正確に言うとそれはどこかにあるのだろう。けれどもその登記先が全くわからないのである。
 名前について言えば、彼女自身が思い出せないという事態はあり得る。例えば自分の名前を記憶している脳の部位のみが傷つけられたら、思い出せなくなる。もちろんそれは簡単には起きないだろうが、可能性としてはある。文字としての記憶も、音としての記憶も、それらは脳の「どこかにしかない」。特に彼女の場合、脳に機械を入れた患者でもある。その影響で彼女の脳から彼女の名前がごっそり失われてしまった可能性は、大いに考えられる。
 しかしながらそうして彼女の脳の中から彼女の名前を消えたとしても、公共機関のどこかにあるはずの名前までは消せやしないだろう。どこかに彼女の名前が登記されていて、それさえ見つければ直ちに、彼女の名前は明らかになる筈だ。我々は生まれるだけでどこかの組織に属し、属す限り名前がどこかに記録され、否応なく列挙されている。
 問題は、彼女の事前情報が少なすぎた事だろう。危篤状態で病院に運ばれた時から彼女はひとりで、所持品も簡易宇宙服以外の一切が無く、どこからどのように来たのかもまるで解らない存在だった。

 彼女の脳の回復施術を受けて目覚めたとき、彼女は名前を尋ねられた。けれども自分が女の子で、どこの国に住んでいて、月基地にいた事を説明できても、自分の名前を口にする事ができなかった。ただただ、「知らない」を繰り返した。だから一時、彼女は「不知火さん」と呼ばれたわけだが、彼女はその呼び方に耐えかね「不知火じゃないもん」と訴えると、改めて彼女の名前が訊ねられ、今度は「思い出せない」と答えた。
 脳の回復手術によって彼女の脳に高性能のデコーダを装填したのだから、当然医師たちはそれを試した。それを駆使して二十八名の候補を読み取った。けれども残念な事に彼女の名前はそこに無く、どれに対しても「違う」と、彼女は答えた。読み取られた名前は両親だったり、友達のだったり、アニメの登場人物だったりした。せっかく読み取ったのだからという事で、友達については彼女の住んでいたあたりの住民と照合させたものの、おかしな事に、それらの名前と合致する人物はその地域からひとりも見つからなかった。
 彼女の家族を割り出す試みもあった。両親について訊かれた彼女は「ママがジオロジストで、パパがあそこの飛行機の会社」と答えて月を指したので、つまり母が地質学者で、父が航空会社の月支社で働いていると分析された。デコーダもそのような記憶を抽出していたので期待が持たれた。そしてそれは珍しい家族構成だったので調査を始めて直ぐ、候補の両親が見つかった。しかし、そう、この場合もしかし、その家族に女の子が出生した事実はなく、子供は双子の男児であって調査当時も健在だった。その家族と面会が叶ったので確認したが「そのよな子は知らない。妄言だ」と突っぱねられた。彼女やその家族の遺伝子を採取して突き合わせたが、縄文時代以前と見積もられるほど遠い血縁だった。
 こうなってくると彼女の記憶はあてにはならなかった。彼女自身はそう信じているし、そうした記憶も刻まれているし、デコーダもその形跡を見つけてくるのだけれど、実際に調べてもその人物に辿り着けないのだから仕方ない。
 そうして彼女は、自分の名前を思い出す事ができず、自分がどこの誰なのかわからないまま病院でしばらく生活し、新たな名前を拒みつつ里親に引き取られ、脳の実験の見返りにいただく駄賃や航空会社の補償で独立し、今に至っている。

 何はともあれ、名無しがこの社会で受け入れられている現状は不可解な事かもしれない。確かに、多くの動物はその生活の中で名前で呼び合っているように「見えない」のだから、名を持たない組織がこの世界では多数派だろう。だがヒトの集団であれば名前がないと生活に支障をきたす。例えば、病院の待合室で呼ばれるとき、名前がなかったら呼び出せない。例えば、クレジットカードでサインを求められた際、綴るものがなければ物を買えない。
 それでも「名前がない」という意味において名前があるような状況をうまく作り、周りを適応させているのだから、彼女は凄いかもしれない。例えば「どうやって呼べばいい?」と聞かれたら「ねえ」とか「あの」とか「呼び止める言葉を使って呼んでほしい」と応え、どうしても困るようなら「名無しさんとでも読んでくれれば」と加えた。そういえば、名前を覚える事が苦手なヒトもいて、そんなヒトはあまり相手の名前を使わず、相手と会話をやってのけている。
 ともあれ、自分を特定する代替案を出せば、回答用紙に「名無し」と記入して試験を受けられたし、何かの窓口で書類を起こす時でも「無記入」とか家族名に「無姓」名前欄に「無名」と書いて事は済んだ。そもそも本当に彼女を特定したい場合、彼女を特定する識別子が全世界の人類を管理するシステムに登録されており、勿論それは彼女が四歳の時に病院で新たにつけられたのだけれど、その識別子によって実際は区別されているため、名前はすでに区別するという意味では誰にとっても役立たずであった。
 彼女の名無しがまかり通っているのも、こうした名前の希薄化というべき背景が手伝っての事だろう。

 それにしてもよく眠ってるわん。
 夕食まで一眠りと言って瞳を閉じて以来、主人は部屋の明かりが点いても目覚めず、そのまま本格的な睡眠に突入したらしく穏やかに寝息を立てている。お腹も空いていたというのに、大した睡眠欲だ。
「主人は起きてこないのか?」
 犬が茣蓙から腰を上げて呆れ顔で主人を眺めているとき、深梶原と名乗る女性、この大学にいるときのみ通用する「先生」が、様子を見にやってきた。
 そうである。先生という言葉は、場所が変わると別の人物を指すから不思議である。
 それはそうと、その先生は縁の細い老眼鏡をかけ、濃紺のスカートスーツ姿で上は、見事に引き伸ばされた白いワイシャツを羽織っている。いつもの格好で安心だ。緊急事態という事ではないのだから。
 先生は片手にタブレット端末を持っていた。主人のバイタルサインなどをその端末で見るのだろう。
「起きているなら一緒に夕食と思ったのだが、これは本格的に眠っているな」
 先生は手元のディスプレイを見て「夢を見てるかもね」と言い、そして主人の頭もとに置かれた台のメモ用紙に気づいて手に取った。それは確か、主人が昼食から帰ってきたときに書き込んだ何かだった。何を書いたか犬に話してくれなかったので内容は解らない。
「レポートに書くのかな」と先生は語る。
「えーっと意識の機能とは、数学的帰納法の直感理解なのかもしれない。それは合わせ鏡に映った向かい合う像の、瞬間的な構成に類する。オイラーの等式の理解にも、この直感が利用されていないか点検できないだろうか。ふむ。それからこっちは、ネットワークを流れる信号は速いものもあれば遅いものもある。それらの意識と記憶の関係について。むー」
 先生が何かを言って犬のほうを見た。
「相変わらずお前の主人は意識が好きだな。さて、お前はお腹が空いていないのかい。いつもなら少し前に夕食を食べに行ってるくらいだから空いているだろう」
 先生が何かに気づいてしゃがむ。
「おや?発声器の電池切れだね。お前の口が聞けないとどうしたもか。どうだい、一緒にカフェにご飯でも食べに行かないか。通じているなら首を縦に振っておくれ」と先生は口に何かを運ぶ身振りで、口をぐもぐさせた。
 犬には先生が言っている事が大体分かる。主人には悪いが犬も大概、腹ペコだ。ここは首を縦に振って「行きたい」とアピールしておくべきだろう。犬一匹が発声器無しに夕食にありつく事など、至難なのだから。
「では行こう。主人は遠隔モニタで見張っているから大丈夫だ」と先生は首から発声器を外し、充電用のコードを繋いで電気を蓄えてくれる。ありがたい。
 先生と犬との間では発声器無しに会話はできないけれど、おおよそ音無しの答え方がわかってきた。
 そういえばそれは、主人がどういう人物か思い浮かべるときに、主人そのものとしか言いようのないぼんやりとした塊が思い浮かぶ事に似ていた。
 主人がどうして名前を持ちたがらないのか、その理由が四歳のときからずっと変わらないのか、聞いた事はないけれど、これほどまで長く名前を使わずに暮らしてきたのだから今更、そのぼんやりとした塊に名前がついたところで使わないかもしれない。けれども主人が名前で呼んでほしいと言うなら、勿論、喜んで呼ぼうと思うし、その塊に名前をつけよう。
「ほら、何ぼんやりしてるの。主人が恋しいのかい」
 犬は主人に一礼して先生の元へと駆け寄る。先生は嬉しそうだ。