チケット(2) | ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

ihsotasathoのブログって言うほどでもないのですが

twitterで書いたことをまとめたりしていましたが、最近は直接ココに書き込んだりしています

チケット(2)

「基樹くん、見違えた」
 彼女はマグカップのコーヒーを手に少年、基樹の向かいに座る。基樹は無地で厚めの白いワイシャツに、デニムパンツ姿。中学生らしくない地味で小洒落た格好だった。暇つぶしに端末を開いて読書をしている姿が彼女には何故か空々しく映る。急速に大人になっていく少年に彼女が追いついていないという事なのだが、普段から会っていないと過ぎる時間も早いことに彼女自身の経験から気づいていいかもしれない。
 少年は何を読んでいたのだろう。文が横に組まれていたところからすると何かの参考書かもしれない。数式なども書かれていた。
「姉さんこそ。大人になってだんだん綺麗になっていくものだから驚きです。しかもお化粧とかあまりしていないのに」
 少年の飲み物はカフェラテらしい。こげ茶が白濁している。そういえば彼女も十代の時はブラックコーヒーなんてまずくて飲めなかったがいつの間にか美味しいと言って飲むようになった。一体全体何が変わってそうなってしまうのだろう。科学的根拠を知りたい。
「その歳で口車の乗せ方に長けているとか将来が不安で仕方ないな」
「おだてようとか騙そうとかなんて思っていません。それはそうと約束、ちゃんと覚えていたんですね。本当に着てくるなんてきちがいです。ああ、いい意味で。後で写真撮らせてください」
「朱色のピルボックスも被っていないし、朱色のヒールも履いてないから、実際とは違うのだけれど」
「けれどもスニーカー仕様。月上陸時の格好です。女性の場合ですけど、搭乗時はヒールで機内はスニーカーに履き替えるんです。だから地上でそのスニーカー姿というのは存在として稀有なわけで、ハイ、レヴェルです」
「詳しいな。私だって昨日まで知らなかったのに」
「月刊ムーンを読めば姉さんもそのくらいになります。それにしても約束は破らないとは思っていましたけれど、これほどまでの格好で来るなんて、やっぱりキチガイです。何度も言いますが、いい意味です」
「人目のつく場所では罰を受けている気分、と言うか、実際の乗務員さんに申し訳ない気分ではあるのだけれど」
『とかなんとか言って、本当は扮装が好きなのでは?』
 犬は会話に入れないのが悔しくて茶々を入れる。
「外野は黙っているように」
 彼女がテーブルの下を覗き込む。発声器を首輪に備えてもらえなかったので言葉が通じるのは主人のみ。犬は主人の足元で不貞寝を決め込んでいたがつい口が滑ってしまった。
「何か喋ってるんですか?犬、さんと」と基樹。
「そう、脳同士の専用回線を使って。余計な事を言うと周りを巻き込んで大変だろうから、発声器は外させてもらっている。こんなところで犬と漫才を始めたら、収拾がつかなくなって大変でしょ?前も犬と会話してたらみんなが面白がって人集りを作ってしまった」
『大袈裟な』
 と犬がぼやいたところで聞いているのは主人だけ。
「手作り、ではないですよね。生地とかしっかりしてますし」
「わかる?借りたんだ。図々しいかなとは思ったのだけれど航空会社に頼んで貸してもらった。訳あって会社とは仲がいいから。リクルーターってことで話がまとまって貸し出しオッケーになった」
「へー。そんなことできるんだ」
「興味を持って近づいてきた人に業務内容を紹介したパンフレットを渡す事になっている。こんな紙なんだけれど」
 彼女は蛇腹折りされた細長いパンフレットをポシェットから一枚取り出して基樹に渡す。
『ご機嫌取りで色々優遇されているなんて、言えないわんね』
「外野は黙っているように」と彼女はテーブルの下に向けて一言。
「あっ、それはあとでかずちゃんとゆっくり見てくれればいいかな」
「そうさせてもらいます」
 基樹は自分の持ってきた鞄へそれを仕舞う。彼女はそれを確認するとマグカップのコーヒーを口に含んだ。
「ところで、今年から中学だよね」
「明後日からです。ちょっと憂鬱」
「いよいよその可愛らしい顔ともお別れ、お父さんみたいにいかつい顔になっていくのか、お母さんみたいに凛々しい顔になっていくのかが決まる。楽しみだーね」
「そう見られるとなんだか残念な気分になります。大人になんてなりたくありません」
「大人になれば月にも行きやすくなる。早く夢を実現すればいいじゃない。で、その夢の第一歩となる試験準備はどうだろう」
「筆記の方は自信ありますが、実技は何とも」
「それなら結構。実技のポイントなんて大きな失敗がなければ下がりようがないわけで。で、そうなるとかずちゃんの方はどう。かずちゃんも試験を受けるって言ってたけれど」
「姉のことは知りません。最近仲が悪いんです。ずっと喧嘩してます」
「反抗期?」
「きっと僻んでいるんです。いつも自分の方が筆記の模擬試験の結果が良いので」
「そうなのかな。なんか前に聞いた話と食い違っているような。かずちゃんは基樹くんより成績が悪くて僻んでいるわけではないと思う」
「どうしてそう思うんです?」
「どちらかというと、あれ」
 彼女は言葉を遮って首をかしげる、というより首を回す。
「どうしたんです?」
「かずちゃんはお姉さんらしくしたくて、あっ」
「大丈夫ですか?」
「頭が」
 彼女は突然眉間にしわを寄せて頭を抱えてしまう。
「どうしたんです?」
「気持ち悪くなってきちゃった」
『ひょっとして』と犬は腰をあげる。
「シャットダウンかも」と主人。
『このタイミングで?まだ朝方わん。応急キットはこの鞄じゃ、持ってきたわんね』
「部屋に、置いて、薬も、あ、意識が遠くなる」
『大変わん』
「意識が遠のく。ちょっと、ごめん、支え」
 基樹は倒れていく彼女の腕を引いて脇に腕を通すも、人なんて久しく支えたことがなかった彼にとって思いの外重く、怯んでしまう。彼女の首はすっかり折れて脱力しきっていた。
 作業着姿の男性客がこのふたりの異常に気づき咄嗟に椅子を回してくれる。少年は「どうも」と言ってその椅子へ彼女をゆっくり下ろして転倒は免れた。その彼女は呑気なことに寝息を立てている。犬はそれを机の下から見て呆れた。
 ただ、のんびり呆れている訳にはいかない。経験からするとこうした安定は長く続かず、次期に不安定になる。
『犬にも発声器をつけておくべきだったわん。これでは助け方を誰にも説明できないわん』と言ったところで最早、彼女の意識には届いていまい。
 彼女の頬を舐めるも応答がない。仕方なくポシェットを口で引き落とし、床におっ広げる。携帯端末と財布とパンフレットが出てくるがやはり、他は入っていない。今までの経験からして午前中にこの症状にならなかったから油断したのだろう。
 犬は端末を咥え、少年に向かって差し出す。今思いつくのはひとまず彼女を病院へ運んでもらうこと。少年に救急車を呼んでもらうしかない。その意図のつもりだが、少年に伝わるだろうか。
「どうするんだい」
 端末を受け取る少年だがやはり通じない。はてどうしたものか。
「何やってるの。救急ビークル呼ぶんじゃない。特殊な機械を頭に入れているんでしょう。調子が悪くなったんじゃないの」
 聞き覚えのある声に少年は目を丸くして振り向く。
「姉貴どうしてここに」
 姉は大きなクリーム色のキャスケットを冠って髪の毛を丸めてそれに隠し、白いワンピースを羽織っている。普段ズボン姿ばかりの姉だけに、一目で姉と悟るのは難しい。
「話は後。犬は救急を呼んでほしいんじゃないかな。あなたは救急車を呼んで。私はこの犬をなんとかしゃべらせるために機械探してくる。自転車屋の友達のお父さんがそんな機械持ってたから使えるかもしれない」
 そう言って彼女はカフェを出て行こうとする。
「ちょっと待って、僕は救急車なんて呼んだ事ない」
「私が掛けよう」
 椅子を回してくれた作業着姿の男性が胸ポケットから自分の端末を取り出して電話をかける。犬としてはこれで第一段階を突破と言えそうだ。彼女がシャットダウンを起こすと最悪の場合心肺停止になる。その場合病院で対処してもらうほうが生存率は高い。病院には心肺機能を人工的に継続させる機器が揃っていて延命が効くからだ。
 次の段階は回復装置と薬の配達。部屋から取り出して、主人が搬送された病院へ運ばねばならない。けれどもこれは発話無くして伝える事はさすがに難しい。今はかずきが持ってくるであろう発声器に期待するしかない。
 数分して救急用の搬送ビークルが店の前にやってきて、次いで別のビークルで救急隊員が現れた。白衣姿の彼らの腕には「救急」の赤字と赤十字が印刷された白い腕章がある。
「宇宙局の乗務員さんか」と二人の隊員は呟き、急患輸送用のビークルから切り離した担架を床に置き、レバーを強く引いて変形させ、起立させる。小さい車輪が四角についた台車に変わった。彼らはそれを彼女の近くに寄せて机を退かせ、二人がかりで彼女を担架に乗せて店の外へと運んでいく。そして救急輸送用のビークルに担架の足を畳みながら載せると早速機器をつなげてバイタルを確認する。
「やや血圧が低め。脈拍は今のところ異常なし」
 ビークルは自動的にスキャンを始めてモニターに心拍と血圧の状態を表示。まだ安定しているようだ。
「連絡先を教えてくれるかい。後で搬送先を連絡するので」と隊員の一人が少年に訊く。
「はい」
 隊員は少年から聞き出した連絡先を自分の端末に記録させると、スモークのかかった大きな蓋で彼女を覆い、搬送用のビークルとともに店を後にした。
 入れ違いでかずきが白い物体を手にしてカフェの中に戻ってきた。
「どこの病院に搬送されたの?」
「わかったら自分の端末に連絡してくれるって」
「そう。じゃ今度は犬ね。これは使えるかしら」
『使えるかもしれないが、波長を合わせられるだろうか』と犬が言ったところで誰にも伝わらない。かずきはどうやって接続させようとしているのだろう。犬は一瞬不安になったがそれも杞憂だった。かずきは勘が良いらしい。
「通信相手を探してキーコードを入れないといけないのだろうけれど、この中のどれがそれなのか。あなた自分の番号わかる?」
 そう言って彼女はダイヤルを回して一つひとつ接続先を変えていく。しばらくしてその番号になったので犬は軽く吠えてみた。思いの外大きくなってしまい恐縮である。興奮気味なので仕方ない。
「これなのね。接続用のコードは何かわかるかな。あー、アルファベットと数値よね、きっと」
 彼女は店員に頼んで紙とマジックを用意すると、白紙にアルファベットと数値を並べて犬の前に置き、犬に鼻で示すよう促した。素晴らしい。マニュアルキーボード。犬は必要となる五文字の数字と三つのアルファベットを順番に鼻で抑えてコードを伝えた。彼女はそれを一文字ずつ紙に書き留めてキーワードを書き上げる。
「あなたやっぱりただの犬じゃないわ」
『あなたこそ』と犬が言ったところでかずきには通じていまい。
 彼女は早速その機械に数値を入れて接続を試みる。
「つながった。じゃ、喋ってみて」
『ありがとうわん。聞こえてるわんね』
「やった」とかずき。
『善処頂き感謝するわん。今は急ぎなので挨拶は後にして、まず主人について、主人があの症状になると、調子が悪くなってふたつの作業が必要になるわん。ひとつは脳の端末に特別な信号を一定期間送り込んで基幹機能の安定化を促すわん。もうひとつは安定剤わん。心肺機能が安定したら薬を投与するわん。いずれもキットが宿泊先に置いてあるから取ってきて病院に運ぶわん。普通の病院にキットは存在しないわん。どうしても取りに行って届ける必要があるわん』
「あの人そんな状態なのね。でも困ったな。宿泊先がわからない。あなたはわかる?」
『宿のほうは犬が案内するわん。誰かついてきてほしいわん』
「それなら私が行こう」
 別の客がその話に割り込んできた。黒髪のベリーショートで、大きな青いひし形のイヤリングが特徴の女性だった。
「私は飛行用のビークルを使える」
 水色の鮮やかなシャツと白いパンツを履いていた。彼女は警察の関係者らしい。それを聞いた周りの人が皆「それは、借りた方がいい」と口々に言うものだから、犬は頼むことにした。
『それならば是非お願いしたいわん』
「わかった。じゃ、ついてきて。それから、少年。救急隊員に連絡先を教えていたね。もし病院から連絡が来たら私にも連絡してほしい」

 犬を乗せた少し大きめのビークルが水上を滑空していく。大量の空気を下方に向けて噴き出しているからだろう。その軌道の後ろで弾かれた湖の水が高く起立してけたたましく飛沫を上げていた。
「犬、名前はあるのか」
『ないわん』
「名前がない?あの急患の女性の名前は」
『ないわん』
「ない?そんなわけないだろう」
 モーター音やら空気の圧搾音やら水しぶきの音がうるさくて大声でないと伝わらない。幸いなことに発声器には有能なボリュームバランサーがついているので自動的に大きな声になる。犬が普段使っているものよりも性能が良くてイライラしない。あの機転の利く少女は実に素晴らしいものを見つけてくれた。この機種を今度先生方にねだらねばなるまい。
「ではなんと呼べばいい?」
『犬と呼べばひとまず通じるわん』
「そうか。それじゃ犬。宿泊先の部屋は何号室かわかる?」
『零一二号室わん』
「左のほうだな」
 舵を切ると内臓が飛び出そうになり、次いで上昇が始まって下へ引っ張られる。
『内臓がおかしくなりそうわん』
「ジェットコースターよりは柔いはずだが」
『ジェットコースターは規格外で乗れないわん』
「そりゃそうか」
 あっという間に部屋の前のテラス。今朝ここを出るとき、まさか湖の方から飛び上がってこの場所に降りるなど想像できただろうか。彼女は背中の鞄に押し込んでいた犬を下ろし、部屋の扉の前に立つ。犬は足をもたつかせながら彼女の横へ続いた。
「そんなに辛かった?でもそんなんでもたついている場合ではないのでしょう。早くこれを開錠しないと。でも鍵穴はないわね。この手の鍵は端末のコードを一時的に記憶して使うやつよね」
 そう言って朱色のポシェットから主人の端末を取り出し、扉のノブ下にかざしてみるが、思惑通り開錠されない。そういえば主人は端末を鍵代わりに登録するなどしていなかった。この扉は別の方法で施錠されている。何が鍵の役割を果たしているのだろう。思い返しても何が鍵かを悟らせるような登録作業を一切していない。だとすれば「声」くらいだろうか。でもそれならば録音された声で開いてしまうのでセキュリティ上問題になりそうなものだ。
「犬、開錠の仕方わかる?」
『ひょっとしたら音声照合かもしれないわん。えっと今帰ったわん。開錠お願いわん』
「ご宿泊のお客様とは異なっております。お部屋番号をお間違いでないかご確認いただけますか」
「まーそうなるだろうね。あんた喋ってないでしょう」
『主人の声を真似ないといけないわん。やってみるわん』
「そんなことできるのか」と言って、彼女は期待を込めて犬をみるのだが、
『開錠をお願い』
 声を真似ようとしても当然、発声器に質を変える能力など備わっていないので、先の野太い声のままだった。
「まーそうなるだろうね」
「お困りですかお客様」
 扉から聞こえる声色が変わった。どうやら自動応対から人手の応対に切り替わったらしい。扉の黒い部分に女性の胸像が映し出される。
「ここに宿泊されている方が先ほど倒れて病院に運ばれたのだが、この部屋にしか特効薬や対処器具が置いていないらしい。急いでここを開けて病院へ持ってきたい」
「お連れになっている犬はお客様がお連れになっていた犬と同じようなのですが、似た犬に過ぎないという疑いは晴れません。何か身分を明かすものなどお持ちではありませんか」
「私は県警の吾妻というものだ。身分証と識別コードがここにある。照合してもらって構わない。何ならここのお客の身分証明書もあるかもしれない。犬、彼女はパスポートとか持っていないのか?」
『ないわん。彼女は頭の中に入れている機会が身分証の役割を果たしているわん』
「なにそれ。と、いうことらしいから、今は私の身分証で照合するしかないかも」
「わかりました。扉脇のカメラにお顔と一緒に身分証明書を映していただけませんか」
 ベリーショートの警察官は前髪を証明写真と合うように整え、外していた伊達眼鏡をかけ、カメラがありそうな場所を覗き込んで証明証をその横にかざした。
「見えてるか?」
「ええ、はい、ありがとうございます。複写しました」
『照合にはどれだけ時間がかかるわん』
「三十分ほどです。承認も必要となりますので、開錠には少しかかってしまうかもしれません」
『もっと急ぎたいわん』
「合法的にはこれが限界です」
 犬が会話している横で警察の彼女が電話を受け取る。主人の運び込まれた病院が判明したので少年が掛けてきたらしい。
「キットを手に入れたら病院に向かう。そっちは先に九九市民病院へ向かって頂戴」
 電話を切った警官は犬に向かって告げる。
「不整脈がひどいらしい」
『急ぎたいわん』
「なんとかならないのか。扉の方は」
「そうは言われましても。病院に運ばれたのであればまずは一安心なのでは?」
「どうなんだい犬」
『応急処置は出来ても回復が難しいわん。早くキットを持って行かないと記憶喪失が始まって最悪は長期間意識不明か絶命わん』
「そうなんだ。なんとかならないのか。人命に関わるみたいだぞ」
『あずまさん。もうひとつ試したいことがあるわん。主人の携帯電話を首輪の端子に繋げてほしいわん。うまくいくかどうかわからないけれど犬専用緊急連絡先に連絡して助けを求めてみるわん』
「これを外したら会話できなくなるのでは」
『一時的わん。よろしく頼むわん』
「わかった」

「一体どんな権限があったらそんなことができるんだい。犬」
 開錠して応急キットを探し出し、部屋を飛び出してビークルに乗った。高台から湖に落ちるときなど、あまりに自由に落ちたのでそのまま湖の底まで御同行かと肝を冷やしたが、水面直前で圧が掛かり寸止め。肝を打ち付けて涙目ながらに犬は安堵した。
『本当に、本当に、危ない時はそこに電話するように、言われたわん。いままで一度も、使ったことがないので、使えるかどうか分からなかったけれど、通じてよかった、わん』
 主人の携帯端末を首輪につなぐと犬から電話できるようになる。このとき主人を危険を知らせたいと強く想うと緊急事態が通知されて、どこかに繋がる。そう聞かされていたものの実際に繋げたのは今回が初めて。だから本当に繋がるかどうかは賭けだった。
 電話に出た相手は知らない男性。彼はこちらの事情には詳しいと見え、犬からの電話だと確かめて「すごい、本当に犬が電話してきた」と感動していた。のんびりしている場合ではなかったのでそのまま話を切り込んで目の前の扉を開錠したいと伝えると男は、会話が終わるか否かし無いうちに「オーケー、そんなに焦らない。依頼したのでしばらく待ってほしい。あとはちゃんとご主人様の元へキットを届けてくれよ。犬さん」と言って電話を切った。するとその直後、扉の画面に映っていた女性が何かを横から受け取る。そして彼女は大きく首を振り「信じられ無いけど開錠の許可が降りたから開けるわ」と連絡して扉の鍵を開けた。
 これは一体どういう事か。それは犬にも説明でき無い。ただ確かな事は、今すでに彼女の胸元に救急キットの入ったカバンが抱えられていて、犬は背後のカバンの中に収まっており、ビークルは再び湖を元来た方角へ飛んでいるという事だ。贅沢を言えば鞄の中は勘弁してもらいたいところだけれど、このビークルは荷物を載せるスペースに空中走行用の装置が押し込まれていて空きがなく、荷物はドライバーが背負ったり抱えたりする以外に運びようがないので、仕方ない。
「ねえ、私もその電話番号使えるの?」
『番号がわからないわん。気持ちで電話をかけるわん』
「変な話ね。きっとあんたやあんたんところのお嬢さんは相当アレなのよね。すごい人の何かだったりするわけよね」
『それは無いわん。ときどき知り合いの小父さん、小母さん、お姉さんたちに厄介になっているけれど、自分も彼女も身寄りがなくて単独田舎暮らしわん』
 彼女の知りたいことを言っていない自覚が、犬にはある。彼女のためにも説明するわけにはいかない。
「そうなの。それは不思議な話ね。実に、不思議な」
 そう言っている間に対岸へと辿り着く。彼女は状態を起こして体を大げさに倒し、「ちょっとどいてー」と言いながら機体を橋道の上へ寄せた。慣性による機体の振れを先読みして均衡を保とうと体をしなやかに動かす様は、あまりに自然すぎて難しさがわからない。道に降りると彼女はそのまま他のビークルよろしく、病院へ向かって走らせた。
 後で知ったことだが、飛行するビークルの乗り手は稀らしい。やはり主人はただならぬ強運の持ち主と言えよう。そんな人物とあのカフェで同席していたのだから。

「お姉さんと話できなくて残念ね」
 病院の待ち合い室。姉のかずきと弟の基樹が肩を並べて座っている。地下にある病院なので窓はないけれど、高明細のディスプレイと自然光に近い多偏向の光がそのディスプレイから照射されてあたかも、この建物が地上にあるかのように錯覚する。病院が暗いと心身に障る。これを避けるための仕掛けだ。
「かもね」
 基樹の素っ気無い反応に眉をひそめるかずき。
「ちょっと離れてしまった感あったな」と基樹は続けた。
 あのカフェで彼女に会うまでは会いたいと思っていた。けれども実際に会ってみると「変わってしまった」と気づいた。ボードゲームやカードゲームしながら甘えたいなんて衝動は起こらなかったし、一緒に買い物に回りたい気も起きなかった。それよりも居心地の悪い気さえしていた。なんとなく目を合わせずらかった。それはあの大人びた顔つきが、あの気高い服装が、そう思わせたのかもしれない。
 彼女は瀕死を三度克服し、小さい時から月で生活して、今では地上で犬の面倒を見ながら?見てもらいながらかもしれないけれど、独立して暮らしている。おまけに中央の学院生で、気むづかしい先生たちとやりあっているとか。それは少年からしてみたら身震いするほど崇高な存在に思えた。
 それこそ憧れの光を放っていた彼女の筈なのに、自分もそうなりたいと思って手を伸ばした筈なのに、今となっては月よりも遠い恒星として映り、それこそ目を細めて見えるかどうか疑わしい程の遠さだ。
 この錯覚はなんだろう。彼女の存在を冷静に見られるようになったという事だろうか。
 そしてこの感覚こそ、ずっと前から姉貴が抱いていた感覚ではなかったか。彼女に向けた盲目的な羨望が、嫌が応なく姉貴にプレッシャーを与えただろう。
「姉貴は、お姉さんに嫉妬してたんだ。それは僕が本当の姉さんより姉さんって言って親しげに言ったからじゃないかな」
「それは」と言って暫く間を置き「あの人から聞いたの?」
 あの人とは倒れた姉さんの事だ。
「違う。そう思っただけ」
 基樹は、彼女が気を失う間際に呟いた言葉の意味をここ数時間考えていた。それは姉貴の不機嫌が成績ではなく「別せいだ」と言っていた彼女の言葉だった。
 確かに会話の数で言えば、自分より姉の方がよほど「お姉さん」と会話をしていただろう。姉貴は「お姉さん」と月一くらいでメールをしていると言っていた事もあった。そうだとするとその会話の中で、「姉とは」という話に及んだ事があったかもしれない。本当の姉を差し置いて、別の人を「お姉さん」と呼ぶ自分を姉は、気持ちよく受け止めなかっただろう。
 昨日姉は、屋上に上がってきて何も言わなかった。多分何も言えなかった。それは「言ってもしょうがない」と思っていたのかもしれない。
「今度からあっちの姉さんのことは月の人って呼ぶことにしたから」と基樹は言った。
「はい?」
「だからお姉さんって言わないで、月の人って呼ぶ事にした」
「余計な気を利かしてくれちゃって」
 基樹はかずきの言葉を聞いてそれを確信した。やっぱりそうだったのかと。
「姉貴は本当、素直じゃない」
「あんたが鈍感だったから話がこじれただけだし」
「そうかもしれないけれど、鈍感のほうがいいよ。疲れないし」
 基樹の切り返しにかずきはぽかんとして「それは、確かに、否定しない」と言った。
「そういえば」と基樹がザックのチャックを開ける。
 月の人から受け取った乗務員募集のパンフレットを思い出した。
「姉貴が乗務員になりたいという話を覚えていたらしく、このパンフレットを貰った」
「気の早い話で」
 かずきがパンフレット受け取って広げると、そこには白い便箋が挟まっている。
「何かなこれ」
 開けると短い手紙と二つのチケット。その手紙にはこう書いてある。
『ふたりが合格したらすぐにでも月へ行きたくなるでしょう。月では国際交流するためのプログラムが幾つか組まれています。良い経験になるかもしれません。その時に使ってください。健闘をお祈りします』
 チケットは月への往復でふたり分。大人でさえほいほいと買える値段のものではない。
「これはやりすぎ」と姉。
「確かに」と弟。
 ひょっとしたらもう長くないって思っているのかもとかずきは言いそうになったが、止めた。真実になってほしくないという願いからだ。
「一緒に写真、撮りたかったな」
 基樹はぽつりと呟いた。

 それから二日ほど経ったある病院での話、あれ以来ずっと眠っていた主人が目を開けた。
「ここは」
 彼女はその雰囲気からすぐ、いつも運び込まれる研究室の一室だと気づく。南に窓があって今日も、部屋いっぱいに光が広がっている。壁もベッドのシーツも、間仕切りのカーテンも、どれも鬱陶しいくらい白くて眩しい。よくもこんな騒がしい場所で寝ていたものだと、自分のことながら感心する。
『ようやくお目覚めわん。一泊の予定から二泊追加でご宿泊頂き、誠にありがとうございますわん』
 大人になると長時間眠る事ができなくなるらしいが、二日間まるまる寝込んでしまうのも如何なものか。
 先生の話によるとシャットダウンから睡眠に至る流れは脳に異物を入れた副作用らしい。しかしながら犬がこの症状になった事がないので、その説明を疑いたくもなる。主人だけ何か問題があるのではないかと考えてしまう。
「今はいつ?」
『春休みも終わり、新しい学期が始まって二日目わん』
「ここまではどうやって」
『九九市の病院からヘリコプターで空港まで送ってもらい、そこからまたヘリコプターに乗せられて。犬は断られそうになって焦ったわん』
「お金かけたね。そういえば、応急キット。キットはどう運んだの。キットがあったから助かったと思うんだけど」
『あのカフェに空中を走るビークルの使い手がいたわん。その人に頼んで宿に飛び帰ったわん』
「そのビークルにあなたが乗ったってこと?羨ましいな、犬」
 しまった。意図せず自慢話を。主人はこれに乗れなかった事を先々まで悔やむに違いない。「犬が乗ったのに私は乗ってないけれど」と言いながら。黙っておくべきだった。
「そういえば発声器は渡してなかったけれど、どうして会話が」
 カフェから九九市の病院へ至るまでの事情を説明すると彼女は「そうか、あのふたりが。いつつつー」と言って嬉し痛々しい。
『メールが何通か届いているみたいわん。見てみたらどうわん』
「そうね。でも後にする。まずはお手洗い」
 彼女はベッドから上半身を起こして立ち上がろうとするが「つ」と言って頭を抱えた。
「頭の中が痛いなんてありえない。脳には痛覚がないんじゃなくて」
「それを犬に言ってもね」
 そう言いながら白髮に染まった短髪の女性がノックもなしに入ってくる。薄い水色のワイシャツにダークグレーのパンツスーツ姿。これでも主人の専属医師である。格好はともかく、その手に診察道具の一切がないという事はつまり、現時点で主人に大した問題はないという事を意味していた。犬は安心した。
「今回も私が寝ている間に事件は万事解決って、そういう展開だったわけでしょ?先生。つつつつー」
 主人は布団を退けてベッドの脇に腰掛け、水色パジャマの乱れを整えると、スリッパを足に引っ掛け立ち上がろうとする。頭が相当痛いらしくすぐに立ち上がれない。座り直してため息をついている。
「対処が遅れていたら何かしら記憶をなくしていたかもしれない」
 医師はそう言いつつ主人の前に出る。眉間に皺が寄っている。明らかに怒っている顔だ。
「記憶がなくなったとして、私がそれに気付かなかったらたいした問題じゃないのかもしれないけれど」
「それは困る。いずれにせよあれだけ応急キットを、も、ち、あ、る、く、よ、う、にと言ったのに。わかっているとは思うけれどあなたの記憶は」
「私だけのものではない。わかっています。私のチケットを入れるにはポシェットが小さすぎたんです」
「地獄へのチケットは持っていたようだけれど」と壮年の女医は薄く笑いながら言う。
「ああ、そうきましたか」
「ともかくよくできた偶然に感謝すべきだろうね。何より、無事だったのだから」
『まったくわん』
「そう、ですねー」
 主人はボサボサの髪をほぐしながら弱々しく笑った。