社会の安全、社会に対する信頼

これを支えるのは、社会を動かす一人一人の

仕事である。


言いかえれば、一人一人が良い仕事をすることが、良い社会を作り、そしてそれを支えるのである。


では、良い仕事はどこから生まれるのか。

それは、働く人それぞれの職業倫理より生まれる

ものである。

人々が高い職業倫理を持っていることが、社会に対する信頼を担保していると言っても過言ではない。


この職業倫理について考えるとき、昨今の働き方への意識の変化は、中長期的に社会の安全性、社会への信頼の低下を招くのではないかという懸念を感じ

ざるを得ない。


例えば長時間労働

もちろん、健康を害する程の長時間労働が定常化するような事態は避けられねばならないが勤務時間を制限することが主目的となり、勤務時間の制約により必要な仕事すら進められないような状況は本末転倒である。


時には残業を厭わず仕事をしてでも果たさなければ

ならない責任があることを思えば、一概にすべての

長時間労働を悪と捉える風潮は、社会的責任を担う

という側面から仕事を見た場合、将来的に社会の質的低下をもたらす恐れがあると思われる。


その他、厳しい指導を即パワハラと断じるような

風潮も同様である。

仕事に伴う責任を果たせるような社員に育てるために、時には厳しい指導をしなければならないときはあるだろう。

それが個人的な怒りの感情や、相手への思いやりを欠いた程度の低い感情によるものであれば、それは確かに問題であるが、厳しい指導=前時代的陋習のような認識は、本来必要な程度の指導でさえも困難にしてしまう恐れがある。


更に状況が悪化し、本来指導を受けるべき、社会人として未成熟な若者が、腫れ物のように或いはお客様のように扱われ、職業上必要な技能や倫理観を指導されないような職場が増えるようなことになれば、中長期的に我が国の社会の基盤・根幹が空洞化し、職業的未成熟に起因する様々な事故、不祥事、過失が頻発するような事態にもなりかねない。


社会の健全さを守るのは、各職場の健全さであり、

各職場の健全さを守るのは、そこで働く一人一人の

職業倫理の高さである。

これを維持するためには、時には厳しく仕事に向き合うことも避けては通れないのであり、必要以上にそれを排除することは、むしろ不健全なのではないか。


将来の社会的安全性や社会への信頼を守るためにも

職業倫理、職業上の技能といった、我々の社会活動を支える無形の価値・財産が、これからの世代にも確実に継承されていくことを真剣に考えて行かねばならないと思う。


修身斉家という言葉がある。


修身とは、自分自身の在り方を整えること

斉家とは、身近な他者との関係を整えること


そして、修身斉家の先には、

より広い範囲の組織を整え、更には共同体全体を

整える、乃ち治国平天下へとつながっていく。


これは、個人個人が道徳を身につけることで、

家庭や職場、共同体が治まっていく、

逆に言えば、国家社会が治まるには、個人の

道徳的成長が必要だということである。


やや観念的な言葉ではあるが、

これは実際的な道徳律として、我々の生活にも

十分に生かせるものである。

以下、少し具体的に、修行としての修身斉家を

考えてみたい。


▪️修身の修行

リーダーとして他者を律するには、

まずは自分自身を律しなければならない。

修身の修行で最適な行は、日々の仕事に

真剣に打ち込むこと。

他者を助ける意識を持ち、熱意を持って

前向きに仕事に向かい、社会に有益な

仕事ができるよう能力を高める。

その日々の仕事を全うする中で、自制心が

身につき、他者の心の動きを察する洞察力が

高まり、個人で仕事ができる段階から、組織

を導くような仕事ができる段階へと成長していく。


▪️斉家の修行

自己を律する修行の先には、自分以外の他者に

責任を持つという段階がある。

結婚して家庭を持てば、家族に対する責任

出世して部下を持てば、部下に対する責任

更に大きな組織を任されれば、更に多くの

他者に対する責任に加え、社会・共同体に

対しても責任を負う立場に至る。

人間的成長の物差しの一つは、より大きな

責任を担えるようになることであり、

大きな責任を担い、そしてその責任を全う

できる人物が多くなる程、社会全体もまた

よく治まるようになる。


修身斉家の修行とは、

個人的な出世や報酬のためというだけでなく、

自身の成長が社会全体の向上につながるという、

より高次の視点から個人の成長を捉えることに

つながる。


このような考え方が普及すれば、

個人の自己実現と社会貢献が一致した人物

を増やし、そのような人物が多くなることで

社会全体の発展につながっていくだろうと

考える。


皇位継承問題について、即ち女系による

皇位継承を認めるかという問題について、

この問題の本質は、建国以来続いてきた

皇位継承のルールを根本的に変えること

を許すか否かという点にある。


つまり、これは単なる政策的な是非を問う

程度の問題ではなく、日本の国家の在り方

を継続するのか、或いは革命的変更を許す

のかという、極めて重大な問題だという

認識が必要になる。


現状の議論では、皇位継承を安定させるため

という前提で女系容認が持ち出されているが、

そもそも女系の皇位継承は我が国の歴史上

存在せず、それ故、女系の容認は皇位継承の

安定化ではなく、皇位継承の権威を有名無実化し、

実質的な皇統断絶につながる可能性を拓くもの

となる(例外を一度でも認めてしまえば、それ以降

その例外が拠り所となって、皇位継承のルールが

「何でもあり」になってしまう)。


このような重大問題が、そもそも誤った前提を

基に議論されていることに深刻な危機感を感じる。


前提が間違っていることを知らないのであれば、

それは日本の為政者として完全に勉強不足で

あるし、

分かっていて敢えてそうしているのであれば、

これは国家の判断を故意に歪めようという

反逆行為だと言っても過言ではない。


我が国の皇統は、我が国が先祖代々受け継いで

きた、我が国の歴史・文化・伝統と不可分一体

のものであり、そのようにして守られてきた

皇統の権威があったからこそ、我が国は破滅的

な内乱や革命を免れてきたという側面もある。


このようなことに想いを馳せるのならば、

日本の歴史や国柄を尊重する意思が少しでも

あるのならば、

現代一世代の軽薄な理屈で、建国以来守り

続けてきた皇位継承の原則を軽々しく廃絶

しよう等とは思わないだろう。


先祖代々守り続けてきたものを、

我々もまた子々孫々に至るまで

受け継いでいく。

それはまた、我が国の国家秩序を

安定させ、我が国の一体性を守る

ための礎となるだろう。


皇位継承のルールは、軽々しくこれに手を触れる

べきものではなく、先祖代々守り継がれた大切な

遺産として、我々の世代もまたこれを守り抜いて

いくべきと考える。


目下、備蓄米を空にする勢いでの備蓄米放出が続いている。

そもそもの目的は米価格を下げることのはずだが、その目的に照らして、今のやり方は適切なのだろうか?


おそらく、適切とは言えないだろう。

短期的に結果は出るだろうが、中長期的に見ればその効果は長くは続かず、単なるその場凌ぎ以上のものにはならないように思われる。


短期的に成果が出たとしても、問題の根本が解消されていなければ、備蓄米の消費が一巡したらまた値上がりが起こるかもしれない。

一方、空になった備蓄米を再補充するには時間がかかり、その間は万一への備えを欠いた状態が続くこととなる。


つまり、一過性の成果のために、問題の根本解決を図ることなく、長期の備えを浪費したということになる。


もしまた値上がりしたら、もう備蓄米という魔法のカードはない。

もしそうなれば、今度はアメリカ辺りから大量に米を輸入でもするつもりなのだろうか?


そもそも、現与党は我が国の農業に対してどのような長期展望があるのだろうか。


このように考えてみると、今回の対応は責任ある与党としてあまりにお粗末に過ぎるのではないか。


また、このようなスタンドプレーが罷り通るというのは、政府のガバナンスに欠陥があるのではないか?

本来もう少し慎重かつ堅実な検討がなされた上で、対応方針を決めるべきではないのか?


このような近視眼的な、言い方を選ばなければ政治的パフォーマンスが、もし仮に世論から評価されてしまうのであれば、国民世論は再び大きな判断ミスを犯すのではないかと危惧している。


アクティビスト、いわゆるモノいう株主

による株主提案が増加している。


それが真に企業経営に資するものであれば、

それはむしろ経営への健全な抑止力として

歓迎すべきだろう。


しかし、実態としては、

株主の金銭的利得を増やすことを目的とした、

公的というよりは私的な要求がほとんどで

あるように思われる。


この問題の本質は、企業という公的な組織の

活動における、株主(投資リターンによる利得

を目的としている株主)による私的利得拡大の

要求という現象をどう解釈するべきか?

という点にあると考える。


言いかえれば、企業活動という公の領域において、

投資リターンのみを目的とした株主という「私」

の影響力が拡大していることをどう捉えるべき

なのか?ということである。


個人的な問題意識としては、公的活動に介入し、私的利得のために、経営上の重要問題にまで口出しを許すことが公然と罷り通り、尚且つそのような行動が企業統治上の正義であるような見解が優勢である状況は健全でないと考える。


本来企業統治とは、様々な利害関係者、従業員の生活・キャリア、顧客への提供価値等、極めて複雑で多岐にわたる範囲の責任を遂行することが求められるものである。


そんな中、キャッシュフローとしての企業価値や短気的投資リターンといった、言わば私的な金銭的利得を目的として企業経営に関わる株主の権限が拡大し続けることは、終局的には金銭的利得目的の株主による会社の私物化という状況に至るのではないか。


公と私

この二つの観点で見るならば、現代は「私」に

対する比重が非常に大きい時代である。

「公」の比重が高過ぎれば全体主義ということに

なりかねないが、「私」の比重が高過ぎれば、

公益意識の低下による社会機能不全につながる

懸念がある。


少なくとも、アクティビストの問題については、

「私」に偏重し過ぎているように思われるので、

公的利害との均衡を欠くことがないよう、必要

以上にこれを推奨するような思潮は改められる

べきだろう。


民主主義の本質は、為政者の志が民主的か否かという点にあると考える。

仕組みだけ見れば民主主義が徹底しているように見える現代社会において、見せかけだけの民主主義者の弊害は極めて大きい。

本質的に非民主的な為政者が、言いかえれば、党利党略や特定の利害関係者のために政治を私物化するような為政者が、外面だけ民主的に振る舞うことの害を理解する必要がある。


志が民主的とはどのような人物を指すのか?


例えば上杉鷹山

一  国家は先祖より子孫に伝え候国家にして、我、私すべきものには之無く候 

一  人民は、国家に属したる人民にして、我、私すべきものには之無く候 

一  国家、人民のために樹てたる君にて、君のために樹てたる国家、人民には之無く候


このような哲学を持つ者が為政者であれば、政治の仕組みがどうであろうが、その治世は民主的なものとなるだろう。


一方、頭の中は党利党略ばかりという者が為政者であれば、どれ程洗練された民主主義のシステムが敷かれていたとしても、その実態は偽善に満ちた政治の私物化となるだろう。


昨今特に目につくことは、

国家の歴史や伝統、過去からの継続性といったものを一切無視した独善的な変革を唱えたり、

それらしい実績作りを目的とした、対症療法的なその場凌ぎ、思慮の浅い行き当たりばったりの政策を立案したりするような、

いわば国家を私するような為政者が多いことである。


国家を私するような為政者であっても、その大義名分の根拠として国民の声という言葉を持ち出し、数値化された世論を以って自身の正当性を主張する。

表面的には民主主義を体現しているような振る舞いをしていても、私利私欲を覆い隠すために民主主義的な装いを悪用しているに過ぎないのであれば、それは本質的に詐欺師と変わらない。


そのような邪な為政者が、国家を私物化することにより国家の将来に深刻な害悪をもたらすことのないよう、

その為政者は本当に民主的なのか?

国家の歴史・文化・伝統を尊重する意識を持っているのか?

国民への仁愛精神を持っているのか?

といった本質を厳しく見極める目を、我々有権者は養わなければならないだろう。

こんな寓話がある。

レンガを積んでいる人に「あなたは何をしているのか?」と聞くと、

ある者は「レンガを積んでいる」と答え、

ある者は「教会を建てている」と答えた。


静かな退職者とは、自身の仕事や、属する組織のビジョン・理念に関心を失い、所得のためにただ作業をするだけになっている人、

先の寓話で言えば、自分の仕事はただレンガを積んでいるだけだと考える人なのだと思います。


自分は教会を建てるという価値ある事業に参画しているという意識を持っていれば、静かな退職という発想にはならない。

むしろ、より良い教会を建てるために、積極的な創意工夫をしようと考えるかもしれない。


静かな退職とは、仕事をすることや、組織の事業に参画することに対して、人々が意義や価値を感じられない社会になっていることを示唆しているのだと思います。


静かな退職ではなく、前向きに積極的に仕事に取り組むという意識になるには、例えば以下のような「自分がしていること」の解釈があってもよいかもしれません。


レンガ積みは儲かる。私は報酬の高い仕事をしている。

私はレンガ職人としての腕を磨いている

レンガ積みが好きだから、私は私の好きなことをしている。


例えば経営コンサルタントのように、高い報酬や自身の成長につながると認識されているような仕事であれば、静かな退職者ではなく、積極的な求職者が多く集まる。


自分のやりたいことで個人事業を立ち上げ、あらゆる苦労を乗り越えてでも好きなことを仕事にしている人もいる。


また、かつての高度成長期であれば、働いた分だけ生活が豊かになるという実感があり、それが仕事の意義や価値になっていたのかもしれない。


裏を返せば、現代のわが国における多くの事業者が、従業員に対してその事業や仕事の意義や価値を訴求できていないのではないか。


では、どうすれば人々が前向き、積極的に仕事に取り組める社会を取り戻せるのか。


最も分かりやすいのは、経済成長により所得水準向上を実感してもらうことだが、既に成熟社会にあるわが国において、このアプローチは筋が悪い。

少なくとも、高度成長期のような所得の大幅増加を夢見ることは現実的ではない。


個々の企業単位で見れば、高額報酬を得られる仕事はあるが、当然そのポジションを得られる人数は限られるので、金銭的報酬を仕事の価値として訴求してしまうと、いわゆる「勝ち組・負け組」という価値観がより強化され、社会の分断に拍車をかける恐れがある。


より具体的に見れば、自社の置かれた業界環境や社会情勢から判断して、今の仕事では高い報酬が望めないという諦めが、静かな退職や副業といった行動につながっているのではないか。


このことを前提に置くならば、金銭的報酬以外の形で、人々が仕事に前向き・積極的に取り組めるにはどうすればよいか?という問いに答えることが必要になるだろう(もちろん、国民一般の所得水準が、中流と呼べるレベルで維持されるべきという前提ではあるが)。


先の寓話にヒントを得るならば、

・理念に共感して働く人

・成長実感を持って働く人

・仕事が好きで働く人

を増やせばよいという示唆を得られる。


このように考えると、報酬軸以外による動機付けをすることは、結局のところは人々の心の持ち方の問題、精神的なレベルの問題に行き当たるように思う。


静かな退職とは言わば心が死んだ状態であり、

前向き・積極的に働く人は、心が生きた状態である。

人の心を活性化するという課題は、理屈でどうにかなる問題ではなく、従来的・西洋的な論理的アプローチで解決することは困難と思われるので、何か別のアプローチで解決を図ることが必要になるだろう。


それは例えば、

生き方や哲学といった個人の精神的軸を形作る学びであったり、仕事を人間的成長機会ないしは天から与えられた機会と捉えるような形而上的観念の修得のようなものなのかもしれない。


いずれにしても、これらを社会一般に対する全体的アプローチとして実装することは現実的でなく、各個人の意識・価値観の変化に頼らざるを得ない点に難所がある。

最もわかりやすいアプローチとしては、かつての修身のような人格教育、かつての四書五経のような人格陶冶の学問復興などが考えられるが、社会の価値観が根本的に変化した昨今の状況での実践は大きな困難が伴うだろう。


より身近で現実的なアプローチとして、個人レベルの域を出ないが、企業の経営者やマネージャーが、自身の預かる社員や部下に対して、仕事の意義を示して共感を得る、その成長に対してコミットするといった姿勢を本気で示すこと、そして、そのような姿勢を持つ経営者やマネージャーが一人でも増えれば、微力ながらも社会に活気を取り戻すための一助になるだろう。










最近、管理職は罰ゲームだという見解を目にすることがあります。


私見ではありますが、管理職は罰ゲームではなく、むしろやりがいのある名誉な仕事と考えます。


管理職の質は、その属する組織の強さに直結するという点で、社会的な視点から見ても重要な役割であると言えます。

優秀な管理職が増えることは、日本がより豊かな国になるために不可欠ではないか。

そんな想いを持ちつつ、管理職の意義とやりがいについて考えたみたいと思います。


▪️管理職には高い人間力が求められる

「徳ある者には地位を与えよ」という言葉があるように、管理職には高い人間力が求められます。

何故ならば、管理職として部下を預かるということは、自分以外の他者に責任を持つことでもあるからです。

言い換えれば、管理職の関わり方一つで、部下の人生を良くすることもできれば、反対に台無しにしてしまうことにもなりかねません。

他者に責任を持つ以上、自分本位を抑えて利他的な心を持つことが求められるという点で、管理職には人間的な成熟が求められます。


また、管理職のあり方は、自身が率いる組織の空気に直結します。

管理職に本気さがあれば、組織の空気は引き締まるし、管理職がいい加減であれば組織の空気は弛緩する。

そのため、管理職である以上、組織の空気・雰囲気を良い状態に保つべく、自制心ある行動や、メンバーへの目配り気配りが求められます。


このように、管理職の職責は大きく、気軽に引き受けられる役割ではありません。

しかし、だからこそ、管理職という役割を務めることは、職業人としての能力が高まると共に、己の器を広げて人間力を高めることのできる、素晴らしい成長の機会であると思います。


▪️管理職には高い思考力が求められる

管理職には、単にタスクを捌くだけではなく、より高度で正解のない仕事で成果を出すことが求められます。


何をすればよいかが既に決まっている作業ではなく、自ら課題を設定したり、対応方針の定まっていない課題を解決する力量が要求されるのです。

このような仕事は難易度も高く、プレッシャーも大きなものではありますが、その分自身の腕を存分に振るうことのできる、やりがいある仕事ともいえます。


正解のない仕事で成果を出すためには、

複雑な状況を構造化するクリティカルシンキング、情報を筋道立てて整理するロジカルシンキング、組織や関係者を動かすための勘所を見極める洞察力等、多岐にわたる高度な思考力が必要になります。


難度の高い仕事で成果を出すべく自身のスキルを高め、身につけたスキルを実務で駆使して目の前の課題をクリアしていく。

この過程をゲーム感覚として楽しむことができれば、責任やプレッシャーがあったとしても、単調で誰でもできる仕事ばかりの日々を送るよりは、エキサイティングで充実した時間を過ごすことができるでしょう。


▪️管理職になるには他者からの評価が必要

管理職というポジションは、資格のように自分の努力だけで得られるものではなく、他者から評価され、推薦されて初めて得られるものです。

ポジションが限られている以上、多くの優秀なメンバーの中でも限られた者にしか管理職のポジションは与えられない。

これは罰ゲームなどではなく、とても名誉なことであると思います。



金銭的報酬という面だけで考えると、責任の大きさに報酬が見合わず、管理職=罰ゲームと感じざるを得ないことも確かにあると思います。

しかし、人間的成長やより面白い仕事機会等、金銭以外の報酬もあり、その報酬を得ることに価値を見出せるのであれば、管理職は罰ゲームではなく、人生を好転させてくれる有難い機会だと言えます。


そして、一人でも多くの若者が管理職を務めることに意義を見出し、それぞれの持ち場で良い仕事をすることで、日本の職場がより働きやすく、より活気あるものになってほしいと思います。


いわゆる日本型雇用慣行については、古き悪しきものという文脈で語られることが多く、それを廃止する動きを見せる企業も少なくない。


しかし、日本型雇用慣行は決して悪しき陋習などではなく、拙速にこれを排除すべきではないと考える。


もちろん、時代にそぐわない部分については変えていく必要があるだろうが、だからと言っていきなり全て外国のやり方を真似るような方法は急進的に過ぎる。

まずは自国のやり方の良い部分・変えてはならない部分を見極め、それを残す形での改善を考えていくことが適切ではないかと思う。


この点、我が国の雇用慣行の良い点・変えるべきでない部分について考えてみたい。


◾️新卒一括採用

新卒者を一括で雇用するやり方は、貧困の固定化を防ぐという意義がある。

つまり、高度な職能や専門性がなくても職を得られ、会社生活を通じてそれらを身につける機会が与えられる。

この点、まだ職能の低い若者を採用し、企業が育成していくことが前提となる。


もし、企業の採用が、正社員は即戦力または一定以上の技能水準の者に限るとしたならば、それを身につけるための教育費用を負担できない者は、いつまで経っても、低い技能の低賃金労働から抜け出せなくなってしまう。


従い、新卒一括採用により企業が一定の教育機能を担うことは、誰もが相応の所得を得られるだけの職能を身につけることを保障するセーフティネットの役割を担うものと言える。


新卒社員の育成には時間も金もかかるが、それを利益を損なうコストと捉えるのか、企業の社会的責任を果たすための務めと捉えるのか、経営者の哲学が問われてくるポイントである。


◾️年功序列

通常、人は歳を重ねるほど生活にかかる費用が増える。家を買ったり、子育てをしたり、人生のライフステージに応じてより多くのお金が必要になってくる。


この点、年功序列には、ライフステージに応じた所得増加により、従業員の生活を支えるという意味で合理性がある。


ライフステージに応じた支出増加を考慮せず、成果のみで所得が決まるようなことが一般的になれば、結婚や出産のようなライフステージの大きな変化を敬遠する風潮が広がる懸念がある。


それは更なる少子化進行という形で国家の将来を損なうことにもつながりかねない。


年功序列をやめ、成果報酬が一般化すれば、企業は人件費への投資効率が高まり、純経済的な視点から見れば合理的である。


しかし、企業が従業員に所得と雇用を与えることを社会的責任と捉えるのであれば、年功による昇給の部分を維持し続けることで、従業員の生活を支え、本人及び家族の物心両面の幸福を実現することも重要な役割の一つと考えられるだろう。


競争環境が厳しさを増す中、時代に合わせて改めねばならない部分は確かにあるだろう。

しかし、物事には善悪両面があり、良い面だけを見て急進的に仕組みを改めることは、様々な反作用を生じる危険もある。


日本的雇用慣行を改めるのであれば、広い視野と時間軸を持ち、慎重で真摯な検討を求めたいと思う。


ビジネスにおける会議という場は、ビジネスパーソンとしての実力が浮き彫りになる、ある意味恐ろしい場であるといえます。


そんな会議の場で、空回りした、ピンボケした発言をする人がいます。


何故そのような発言をしてしまうのか。


その理由の一つとして考えられるのは、発言の動機が自己アピール目的になっている可能性が挙げられるかと思います。


具体的には、会議で発言する際の意識が、自分をよく見せたい、価値ある発言をしたいといったように、主語が自分目線で発言しようとする意識を持っているのではないでしょうか。


会議の場に限らず、主語が自分の状態で仕事をすると、仕事の関係者が何を求めているのかということに対する注意が疎かになってしまう可能性があります。


仕事の本質が、畢竟関係者の満足にあることを鑑みれば、本来主語とすべきは自分ではなく、仕事相手とするべきです。

つまり、自分をどう見せたいかではなく、相手に満足してもらうには、という意識が大切だということです。


主語を相手にして発言しようという意識があれば、必然的に会議の空気を読んで発言する意識になるので、的外れな発言をするリスクは相当程度軽減できるはずです。


仕事の際に主語が自分になっている人は、はたから見ると「自分が見えていない人」に映ります。

仕事の本質が人間関係にあることを鑑みれば、仕事における主語は自分ではなく相手であるという意識を持つことが、高いパフォーマンスを発揮する上での必須条件になるだろうと思います。