脳に心はないとな?! うつ病は薬でなおらないかもとな? | 心いい気分☆からだ楽々☆やる気わくわく☆EASER(イーザー)・心塾の楽屋裏話

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うれしいこと たのしいこと どこかであなたにとどきますように
へこんでいても、すぐにあなたに笑顔がもどりますように

最近、私がとても興味をいただいているブログの記事にチョプラ博士がうつ病に関して書かれていると紹介されていました


日ごろ仕事をしていて大変納得のいく内容でした



去年のセッションの一例ですが、うつ病と診断されてひきこもっている御相談者さんの


おうちに伺って一緒に食事を作ったり、できるところからお掃除したりお散歩したり


一緒にテレビを観て、私のくだらない話につられてお愛想笑いするうちに


さらに私のオバカ話に乗せられてガハガハ笑っているとその後のセッションで爆睡されたりするんですよね


ただぽちぽちと遠方の静岡までセッションに来ていただくよりも復活が早い!




突然お薬をやめてはいけないのがうつ病と診断された方のしんどいところなんです




減薬は本当にしんどいだろうと思います 飲んだことありませんが



試しに飲んだというドクターにもお会いしたことがあります


健康なときだってこんな状態になるんだって自ら経験して患者さまのお気持ちを図ろうとした


ドクターの責任感



伺っているだけで涙ぼろぼろでしたよ



というわけで、うつ病の治療はこうだ!ってアメリカから流れてきた治療法でも


やはり日本は10年以上も何千何万人とうつ病を機に亡くなる方もいらっしゃるわけで・・・私は本当にギモンだらけです



別の方向でのアプローチを積極的に行っても良いような気がします


もちろん責任あるプロセスと姿勢でね



きっと、香りや色やマッサージやら五感が嬉しがる方法で歩み寄るのもアリだと思いますし


栄養のバランスやある種類の栄養素を吸収しにくいその方の個性のリサーチも必要です



記憶のかなたに押し込めてある心の傷にばんそうこうやひどいときには輸血が必要だったりもします



民間の療法が確立しないのは臨床データとしてみんながきちんと残していくフォーマットがないせいもあるかもしれませんが

医療現場で行われるカンファレンスやケースワークの場や医療ネットワークのようなシステムがないことも一因でしょう



相談者さんをチームサポートするための情報交換・・・・


以前そういったホリスティックなNPOあったんですけどね・・・



最近ペタくださる方にセラピストさまカウンセラーさまが多いので ラブアリガトウ音符


ついついと・・・ 脱線しました すみませんショック!


ええと



うつ病に関する記事は抜粋してご紹介させていただきます(長いですぞ~)


(ちなみに私はチョプラ博士の著書は2~3冊をブックオフで立ち読みした程度です<img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/image/e/466.gif " class="emoji" style="border:none;" />)


タイトルは

ディーパック・チョプラ日本語ウェブサイト(www.chopra.jp )運営事務局が、月に1回ほど、チョプラ博士の活動や情報アップデート、チョプラ博士の最近のブログ記事からのピックアップ、およびチョプラセンターWebサイト“Ask Deepak”のQ&Aをお送りするものです

と書かれていました


まぐまぐからのメルマガはお休みしているようですね


~~以下転載~~

■BLOG:なぜ脳そのものより心(マインド)に重点を置くことが大切か
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今回、再び「心」について書くことにしました
特に私たちは脳みそに支配されているのではないことを強調しなければなりません。

私たちは、豊かで、活発で、絶えず変化している神秘的な「心」そのものです。

脳は心が求めているものを行動に移します。ただのたんぱく質と糖分、水
の集まりに過ぎない脳を、心と間違えるのはとんでもない思い違いです。
 
しかし、これは現代科学の選択の誤りでもあります。
ニューズウィークの最近のカバーストーリーは、この論争の「心」側を
支持するものですが、単刀直入に「抗うつ剤は効果がない」と公言しています。

この大胆な主張の論拠は、以前、科学雑誌に載った記事から来ています。
その記事によって、うつ状態を治療するために錠剤を与える理論的な根拠が
弱くなりました。

まず、軽度から中程度のうつ症状(長期にわたる慢性のひどいうつ病とは対照的に
最も患者数が多い)を訴えて医者の元にやってきた患者の約半数に対して、
標準的な抗うつ剤は改善をもたらしません。プラシーボ効果が期待され、
その結果、薬剤として症状の軽減が起こることを示した研究もあります。

この心と脳の論争では、他にも明らかになった研究があります。
うつ病の人の脳は、うつ病でない人の脳と違いはありませんでした。

長年、うつ病患者の脳は、二つの神経伝達物質、セロトニンとドーパミンが
不足していると思い込まれていました。そして抗うつ剤を飲むことは、
この不均衡を直すためだと考えられていました。

しかし、いくつかの研究が、神経伝達物質の分泌や調整にかかわる遺伝子は、
うつ病の人とうつ病でない人のものが同じであることを示しています。
これはあなたの脳もうつ状態になる可能性があることを意味します。

うつ病にかかるのは、脳内のある種の化学物質が不均衡になっているせいかも
しれません。しかし、脳にのみ焦点を当てることは、うつ病の主な原因である
「心」の部分を見落とすことになります。

一人の人間を、うつ状態にする可能性のある経験を考えてごらんなさい。
それは、その人が心を持っていることを意味しています。

◆外部のストレス ◆個人的な危機 ◆深い悲しみ ◆肉体的な病気

◆人生における突然の変化 ◆事故や予期せぬ挫折 ◆仕事や金銭を失うこと

◆個人的な不安 ◆失敗・破産 ◆問題のある子育て ◆低い自尊心

◆罪悪感や恥という感情に導く悲観的な宗教観

◆罪悪感や恥という感情に導く他の原因 ◆愛を拒絶されること

◆周りに、特に家族にうつ病の人がいること ◆それ以外のX因子

上記は長いリストです。例えもし、私たちが未発見の原因(X因子)を
割り引いて考えても、心が人生の複雑さに直面し、様々な経験が
うつ状態を発生させる可能性があります。

もし私があなたに「君を今すぐ解雇する」と言った場合、
あなたを落ち込ませるのはあなたの脳ではありません。
衝撃的な悪いニュースによる突然のショックです。
なぜある人は悪い経験をうつ状態に変え、他の人は変えないのか誰も知りません。

研究によれば、際立った特徴のない、さまざまな人々や状況の写真を見せた際
うつ病の人々はいつも決まって、その写真を期待はずれとか、悲しいとか
否定的に見て、肯定的な結果には導かない傾向にあることが分かっています。

このようにうつ状態は、反応と習慣という大きな循環要素で成り立っています。
ある人物が、当たり前の状態に対して、憂鬱な気持ちで反応することを学びます。
そして、一度そういった反応の仕方を学ぶと、この反応は
うつ的な感情を強化する習慣になって行きます。

こういったうつ状態の習慣は、アルコールや薬物中毒と同じように、
解決するのは難しいのです。そして両ケースとも心の中で
「どうしようもない、こうなるしか仕方がない、これが私なのだ」
という叫びを聞いています。

自分たちが病み、損傷を受けている脳の囚人であると誰かに話すことは、
ただこの思い込みやうつ状態の循環構造を強化するだけなのです。

脳に注目している人たちは、習慣的な反応が、同じうつ的反応を常に強化する
神経伝達経路を形成することを正しいと考えています。
これらの伝達経路は、荷馬車の車輪が自動的に落ちる、
道にできたわだちのようなものです。

しかし、脳の研究者は、心の存在を無視するという過ちを犯しています。
これはまるで、道自身がわだちを作ったと言っているようなものです。

私は今、唯物論者からは軽蔑され、うつ病患者には激怒されるに十分なことを言っています。
うつ病患者は、自分自身がその状態を引き起こしているのだと主張する私を非難します。

彼らから希望を奪っていると言われますが、私はそのようなことは何も言っていません。
重症のうつ病患者には、集中的な医療処置が必要です。
数百万もの人々が、抗うつ剤が彼らの苦しみを和らげたと証言しています。
誰も、こういった証言に反論しようとはしていません。
誰も、希望の代わりに失望を与えようとはしていません。

しかし、抗うつ剤の評価を下げた研究を、無かったことにするわけには行きません。
さまざまな方法で、脳は、治療社会に対して責任逃れをしてきました。

ある人物がうつ状態になった原因に到達しようとする、
時間もお金もかかる認知療法を勧める代わりに、処方箋を書く方がずっと容易なのです。

これは、トークセラピー(話し合い療法)が、軽度なものから一般的なうつ病の症例には
効果があるという事実を、ないがしろにしています。

しかし、10億ドルもする高価な抗うつ剤プロザックは、問題を一挙に解決したようです。

製薬会社による自社製品のあらゆる誇大宣伝や、数百万ドルもの宣伝費の後押しがある中で、
抗うつ剤だけで治療するのは、完全治癒からはほど遠いものでした。
副作用もありました。時が経てば、薬剤の効果が弱まる薬物耐性の問題もありました。
抗うつ剤だけが症状を和らげると考える硬直化した現実がありました。
症状は決して治癒しませんでした。ついに、抗うつ剤の有効性を疑問視した同様の研究で、
抗うつ剤を飲むことが、同時に使われた他の精神療法の助けにならないことを発見しました。

私は故意に暗いイメージを描いているのではありません。
薬を当てにすることは、最後には行き詰まります(もちろん実際に効果のあった人は別です)。

向精神薬の使用を調査し続けましょう。何よりもまず、
アメリカが物質主義に重きを置くことを放棄しつつあると信ずるのは早急でしょう。
しかし、あらゆることを常に脳のせいにする一方で、心を無視することは馬鹿げています。
それは平然と常識を無視しており、そのためにも次の目標に向かって研究を続けましょう。

私は先週、あらゆる事に対する答えとして、脳の代わりに心に注目する必要性について提案しました。
その一例としてうつ病を挙げました。抗うつ剤は効果がないとか、
うつ病患者の脳とそうでない人の脳との間に遺伝子的な違いが見られないという
新しい研究結果により、私たちは新しい見方で、心を観察する機会を得ています。

うつ病の事例は、巨大な氷山のほんの小さな警告です。

脳に焦点をあわせるという一時的な流行が、科学や社会を全体的に覆っています。
これは私たちの物質主義の信条体系に、完全に適合しています。

結果として科学は、心というものがあたかも作り話であり、幻であり、
魂と全く同じような迷信であるかのように振舞っています。
これは明らかな架空の議論にすぎないのです。

それというのも、あなたの人生がどのような結果になるかは、
あなたが魂の存在を信じるかどうかにほとんど依存しません。
あなたの人生は、あなたが心をどのように使うかに大きく依存します。

この議論が、一般の人にとっては、抽象的で高尚な議論に見えることを実感しています。
「脳」と「心」? 人々にとっては同じことです。
しかし、もう少し深く考えて下さい。
もし、内面を見つめることによってうつ病を扱うことが、最初から役立つことであり、
たくさんの抗うつ剤を常用することが、先々行き詰ることが分かっているのなら、
他にどんな争点があるというのでしょうか。

ここにいくつかの論争の的になっているテーマを挙げます。

神: 信仰心の遺伝子が存在するとか、
   宗教はわれわれ人類を守るための生命保存メカニズムであったとか、
   神は、私たちが洞窟に住んでいたとき、われわれに危険に対する
   用心深さを保たせるために、恐怖心を使った古代の脳反応からの遺物であるとか
   を示すために、研究者たちは空しい努力を続けてきました。
   このようにして、剣歯虎の恐怖は、罰を与える神への恐怖へと変化したのです。
   実際に神が存在するかも知れないというのは、科学の理解の範囲を超えています。
   そのため、科学者が神は存在しないと主張しても、反証を挙げることはできません。

愛: 愛の遺伝子とか、その欠乏、化学反応で愛を根付かせる脳反応などを仮定する
   絶え間ない動きがあります。
   愛は、高潔で、希望を与え、意味もあると考えられている一方で、
   愛は無意味な脳の分泌物によるものだとだまされ続けています。
   進化生物学者はまた、神についての議論と同じように、
   原始人類は生き残るために絆を結ぶことが必要であった、そのため
   私たちが愛と呼ぶものは、原始的な遺物に依存していると推測しています。

心理学:
   心理学の論拠は、セルフ(自己)が正常か異常か、健康か病んでいるかを判断することです。
   しかし、脳の研究者はそのようなセルフの所在を見つけられませんでした。
   彼らは脳がすべての答えを握っていると考えているので、
   セルフを全くの錯覚であると断言する人たちもいます。
   もしあなたが、自分にとって重要な経験をしたことがあると感じているなら、
   彼らによれば、あなたは理解できないほど複雑な脳内の化学反応の曇りによって
   惑わされているのだと言うのです。
   でもそれに対しあなたは、自分にはセルフがあるのだと思って、
   手軽に簡単に解決すればよいのです。
  (皮肉にも、仏教やヒンズー教も、個人的なセルフを否定しています。
   しかしそれは別の理由によります。
   ある人物が、エゴや個人的なセルフと自分を同一視することは、
   真実の存在であるハイヤーセルフへ私たちがアクセスするのをブロックするからです。)

これら3つの大きなテーマが存在しますが、脳はまた、
感情(化学的分泌物)、人間関係(進化の遺物)、徳性、美意識、哲学、一般的な精神性
(これらのすべての分野は、それを引き起こす脳の反応に比べると実体のないものです)
を含む多くの分野で、第一位の座を与えられています。

それはまるで、誰かがラジオを見つけて「しめた、音楽が何処から来ていたか分かった。
俺たちは、作曲家や天才なんていうナンセンスな存在とおさらばできるぞ」
と宣言するようなものです。

ちょうど音楽を伝える信号をラジオが受け取るように、
脳は心に毎日の真実を伝える役目を果たしています。
もしラジオが壊されれば、音楽は消えてしまいます。
もし脳が病んでいたり、欠陥があったり、損傷を受けていれば、
心の側面は消えてしまうでしょう。

しかし、脳の機能が心であるとか、心以上の現実である証拠として
この論証を使うのは、全く愚かな考えです。誰かが、第二次大戦は
脳に異常をきたしたドイツや日本によって引き起こされたと主張したら、
あなたはそれを信じたいですか。

もしあなたが深く愛し、信頼している配偶者があなたに興味を抱いているわけは、
ただ先史時代、人間が凍えないために火のそばに集まる必要があったなごりなのだ
と言われたら、あなたはそれを信じたいですか。

唯一の理由で、心を考えないことが、短期的には役に立ちます。
科学は、厄介で複雑な現実をとらえ、経験を洗練された数値や、
操作可能なデータに変えて表現します。とても効果的なことです。
データを考察することによって得られるたくさんの知識があります。

しかし、自分たちの言っていることが現実であるとか、普通の体験が錯覚だ
と主張するために、科学が数値をごまかしたときには、大変な誤りが起こります。

何故こういった誤りが、放置されているのでしょうか。
宗教をこのような状況に呼び戻せば、作為的な誤りは起こらないと思います。
私たちが必要としているのは、神の神秘ではありません。
すなわち、神の神秘を超えつつある科学を受け入れる理解力を必要としているのです。

ところで「超える(beyond)」は何を意味するのでしょうか。

それは、混乱した複雑な現実に戻ることであり、その現実をより深く理解すること
を意味しています。科学は常に一つの手段・ツールであり、
それ自身が究極的な目的ではありません。

技術が倫理に勝ると、私たちは原子爆弾のような恐怖を味わうことになります。
遺伝学から霊性を一掃すると、私たちは無益や空虚という感覚を持ちます。

科学は、人生に目的を与えることは出来ません。さらに現在、サモアで撮影された
ドキュメンタリー番組は、ただ海岸に行くことの代用にしかなりません。

結局、現在の脳への病的な執着は、もう止めなければ行き詰まることでしょう。

私たちは心に立ち戻り、そしてびっくりするような明白な何かが現れ、
それを受け入れるようになるでしょう。

意識は一次的なものであり、脳は二次的なものです。これはちょうど、
音楽が一次的なものであり、ラジオが二次的なものであるというようなものです。
一次的なものが何であろうと、最初に来て、命の本質(エッセンス)を握っています。

脳は意識によって創造されたというのが、私の個人的な確信です。
これ以外に現実味のある説明はありません。なぜなら、人類の脳はランダムに
突然変異によって進化したという現在の説明は、単純に理屈に合いません。
私たちの脳は、宇宙で、単一の最も複雑な構造をしています。

脳がランダムに創造されたという考えは、
タイプライターの前に座っている10匹の猿がシェイクスピアの全作品を作る
という考えより100万倍も信じられません。

しかしこれは、より深く考えるための一つのテーマです。
もし次世代の人々が「心」に関心を戻し、経験の豊かさを、
肉で出来たやわらかい機械である「脳」に起因するのだ
と考えることをやめれば、取り合えず十分でしょう。

San Francisco Chronicle に掲示


~~転載ここまで~~

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