彼らが見えなくなってからも、

俺はその場にじっと立っていた。


思ったよりずっと、

心は穏やかだった。

彼女はあの男を憎んではいない。

待っていただけだ。

愛していただけだ。


待ち過ぎて、

愛しすぎておかしな方向へいってしまったけれど、

彼女はただ単に、

あの男に会いたかったのだ。

彼女の、『タカフミさん』に。


俺には彼女の声が聞こえていた。

会いたい、

会いたいと叫ぶ、

彼女の声が。


アパートへ来た男たちに嫌がらせをしたのは、

きっとがっかりしたからだ。

やって来たのが彼女の待ち望む、

あの男ではなくて。


彼女は今、

泣いているのだろうか。


「帰ろう」

俺は、見えない彼女に言った。


俺たちのアパートに、

一緒に帰ろう。


体は自由になっていた。

さっきまで動けなかったのが嘘みたいだ。


俺は階段を降り、

もと来た道を歩き出した。

彼らは談笑しながら、

階段を上がってきた。


突っ立っている俺に、

夫婦が会釈する。


俺は返すことができない。

夫婦は少し、

いぶかしげな顔をした。


当然だろう。

妙な男が通り道を半分ふさいでいるのだ。

俺は動けず、

道を譲ることもできない。


彼らはどんどんこっちへ向かってくる。


そして、

とうとう男が俺の脇をすりぬけた。


そのとき、

俺の口が勝手に動いた。


「タカフミさん」


それは俺のものではない。

小さな、細い声だった。


男が驚いた顔をして、

こちらを振り返った。


男と目が合った。

それはとても短い間だったのだと思う。

けれどとても長く感じられた。

時間が止まったようだった。


男はしばらく呆然としていたが、

妻と娘に促され、

家の中へ入っていった。

彼らの住む家の中へ。


ぱたん、と

ドアが閉じた。

留守なのだろう。


がっかりしたような、

ほっとしたような

妙な気もちだった。


俺はチャイムを押さないまま、

アパートの階段のところまで戻った。


彼女のために何かできるなんて

思ったことが恥ずかしかった。


結局、何もできなかった。

チャイムを押すことさえ。

自分が情けない。

俺はうつむいた。

階段の下が目に入った。


階段の下に、

家族連れがいた。

夫婦と、子供が二人。

小学生くらいの女の子と、

もう一人は赤ん坊で、

妻らしい女性に抱かれていた。


夫らしい男と目が合った瞬間に、

俺は分かった。

あの男だ。

彼女がずっと待っていた、

あの男だ。


彼女の心が凍りつくのを感じた。

怒りも、

憎しみも、

感じられなかった。

胸が痛くて、

痛くて。

俺はその場で心臓を押さえた。


家族連れは買い物に出た

帰りなのだろう。

男は大きな買い物袋を抱え、

階段を上って来た。

後から、

赤ん坊を抱えた女性と、

女の子が続く。

女の子は猫のかたちの風船を持っている。

今日買ってもらったものなのだろう。


家族は楽しそうに話している。

男は妻や子を、

優しい目で見つめる。

子供がうれしそうにはしゃぐ。

風船が揺れる。


痛い。

痛い。

痛い。


俺は動くことができない。

目を閉じることもできない。