if6500のヒストリーブログ

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毛利元就の時から幕末に至るまでの長州藩を概観して,明治維新の実現における長州人の活躍の理由と意義を,出来る限り根源的に明らかにしていきます.
これによってこそ,今の日本を真に動かす秘訣を,日本復活させる道を,見つけ出すことができます.

あの幕末で, しかも藩滅亡寸前の中を立ち上がって,日本の新しい未来を切り開く基台を作った先人たちに,とても感動しています.


これは,長州藩が,長州藩出発当時から,危機を乗り切るノウハウを培ってきたからだと思います.吉田松陰が,高杉晋作が,木戸孝允が,大村益次郎が,伊藤博文等の長州ファイブと言われる5人が,また,乃木希典将軍が,更に,二次大戦後においては,岸信介先生等が降って湧いたのでは,決してないと思います.


そこを,よくよく調査・研究していけば,今の内外さまざまな問題に直面している日本を再生・復活させて,更に,日本国民全員がより平等で,より平和な社会を築くための秘訣を,必ず見つけだせると確信しています.


できる範囲で,それを極めて,皆さんにお知らせできればと思っています.

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毛利元就の三男小早川隆景は,歴史的人物としては,さほど知られていません.毛利輝元のほうがはるかに知られているでしょう.しかし,元就亡き後の毛利家の実質的な統率者は,小早川隆景でした.

さて,秀吉が備中高松城を水攻めをする最中に,信長が本能寺で明智光秀にうたれれました.この時,秀吉が,あの有名な「中国大返し」を行うのですが,このとき,毛利勢は秀吉軍を追うことをしませんでした.

今のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では,隆景が,「毛利家を末代まで残せ」という元就の遺訓を守り抜くために,秀吉軍を追わないと黒田官兵衛に告げる場面がありました.

小早川隆景は,徹頭徹尾して毛利家を守り貫きます.

秀吉は,四国攻めで,伊予を落としこれを隆景に与えたのですが,一旦毛利家が貰い受けて,毛利家から拝領するという形をとります.

九州攻めの後,秀吉は隆景に,筑前など37万石以上を与えようとしますが,毛利の家臣としての立場を貫き,豊臣家から預かるという形をとります,隆景は,自分のものに絶対しなかったのですが,伊予とあわせて名目50万石以上を秀吉から受けた立場にありました.

秀吉は隆景をすごく信頼しており,東は家康,西は隆景に任せておけば安心だと言っていたようです.

更に,秀吉は,輝元に当時子供が居なかったので,正室北の政所の親戚筋の秀秋(関ヶ原の戦いの勝負を決める要因となったあの小早川秀秋です)を輝元の養子にさせようとします.

この時も,隆景は,輝元の養子には隆景の弟の子である秀元をあてて,秀吉が推した秀秋は自分の養子にして,毛利家を守ります.

このように,父親元就の遺言を,徹底して守り抜きます.これは,余人のまねのできる範疇を超えているのではないでしょうか?

黒田官兵衛は,隆景の死に際して,「日本に賢人絶えた」と述べ,秀吉と同様に大いに残念がります.

父親である元就も生前に,「(隆景が),仁を施し,民を愛し,国を保つことは,われ隆景に及ばず.常に治国のことは委任できる」と述べています[岡谷繁実,名将言行禄 第一篇,pp.306-3071925]

歴史的人物としては,目立たない隆景ですが,一人物であったことには間違いありません.

その隆景が,官兵衛の息子である黒田長政に,分別はどうしたら良いかと問われたときに,彼は次のように答えています.

「久しく思案して遅く決断するのが能く候.
そして,分別の肝要は仁愛なり,
万事を決断するにも,仁愛を本として分別すれば、
万一思慮が外れたとしても,そう大きくは間違わない.
仁愛無き分別は,才智巧なりとも,皆僻事(間違い,悪事)である」
と答えます[岡谷繁実,名将言行禄 第一篇,pp.301-3021925]

この内容は含蓄が深く,大いに我々も,先が能く見通せずに不安な中を,どうしても何か決断をせねばならぬ時に,参考になるのではと思います.






小学校から高校までの子供を持つ親御さんは,一般に,子供がより良い学校に行って,社会に出てから,生きがいを感じて,より安定した幸せな生活ができるようなることを望んでおられるのではないでしょうか.

中には,総理大臣・大学の教授・富を持つ企業家等の,より大きな成功者になってほしいと願う親御さんもいらっしゃると思いますが.

 

そのためには,やはり,如何に子供にあった教育を施すことが,勉強させることが,極めて重要な事柄となります.人類は,大昔から子供に教育を施すことを重要と思い,そうしてきました.

 

これは,人間は,努力をして自分を磨いていかねばならない宿命を持っているからでしょう.自動的に,何もしないで社会で有能な人材として,また,幸福な生活を送ることができるようになっていません.これは,絶対的です.

 

それでは,どのようにすれば,子供が,生きがいを感じて,社会に出て幸せな歩みを成していく教育を施すことができるでしょうか?

 

今回は,こういった問いに対する一つの回答が,吉田松陰先生の教育観にあるかもしれませんと考えて,簡単に述べます.

 

松陰先生の教育に説得力があるのは,何といっても,教育者として実績です.たった2年弱で約90人の塾生のうち,総理大臣2人,大臣3人他20人が政府高官となっています.その中には,塾の双璧と言われた久坂玄瑞や高杉晋作等維新前に亡くなった塾生は,当然入っていません.

 

松陰先生の教育は,

「一人一人の個性を見極めて,それを尊重して伸ばす」,

「ただ知識を詰め込むだけではなく,それを現実社会の問題解決に役立てるという実践的な教育を行う」,

ところに大きな特徴がありました.

 

これらの件に関して,私が感じるところを簡単に述べたいと思います.

 

松陰は,猛烈に勉強を行いました.兵学師範として,習得すべき武教全書などの山鹿流の兵学はもとより,大日本史,日本外史,日本政記などの国史,吉田物語などの毛利藩関連書の史書,中国古典の孟子等,農業全書,経済要録,算術,地理など非常に広範囲に渡って,それらの知識を習得していました.

 

だからこそ,松陰先生の塾に来た生徒の才能の方向を,極めて優れた眼力で見抜き,それを生かす教育を行うことができたのでしょう.

 

松陰先生のような眼力があれば良いのですが,一般の家庭に於いて,子供の才能の方向を的確につかむのは困難です.ただ,親には,子供の個性を知り,才能の方向を伸ばす手伝いをする責任があると思われます.

そのためには,実験すること,即ち,色々,子供にどういった才能があるかを色々行わせて見て試すことが,現実的でしょう.家庭に応じて,その実験方法も異なってくると思いますが.

 

うちの子は,出来が悪いと諦めがちな親御さんもおられるかもしれませんが,これは大間違いです.松陰は,米国密航の罪で入れられた野山獄で,囚人に接した経験として,下記のように述べています.

「人賢愚ありと言えども,各々一二の才能なきはなし.それをうまく引き出し教えて行けば必ず立派な人間になることができる」[山口教育会編,吉田松陰全集 第2巻,岩波書店,1940]

 

人間には,誰にでも,神様がその人にだけに与えた天賦の才能が必ず有ります.これは絶対です.本来一人一人は,天才です.

それを見出し,そこを教育し伸ばす責任が,親にも,また,子供自身にもあると思います.ほとんどの場合は,天が与えた才能を眠らせたまま,心無い人生を歩まねばならない人が多いのは極めて残念なことです.そう言っている本人もそうですが.

 

さて,才能の方向,即ち,熱中できる,感動できる方向を見つけ出すことができるか否かに,その人が人生で成功するか否かがかかっています.感動できる熱中できる対象にあうことのできる人は,より良い幸福な人生を送ることができると思います.

 

だから,そのためにも,徹底的に,子供に色々試させることが一つ重要だと思います.分からないときは,実験を徹底的に行うことです.

 

 

松陰先生は,先生と生徒という縦的な関係を好まず,共に一緒に学ぶという姿勢を常にとりました.先生が講義するための講義台はなく,授業中絶えず,塾生の間を動きまわり,教えていました.誰が先生か始めて来たものには分からなかったそうです.

 

更に,紹介されて塾に来た入門希望者に対して,自分は教授はできないが,君らと一緒に勉強しようと話した例は,松下村塾が取り上げられる毎に,良く話題にされる有名な逸話です.

 

これも,お母さんが子供に勉強を行なわせようとする時の姿勢として参考にできるのではないでしょうか?

 

また,松陰は,いつも塾生に,「学者になってはだめだ.人は実行が第一である.」と言っていたようです.即ち,現実社会の問題を,培ってきた知識を生かして,身をもって解決することを,最優先しました[山口教育会編,吉田松陰全集 第12巻 渡邊蒿蔵談話第一, 岩波書店,p202,1940


具体的には,松陰先生は,孟子など教科書に対する講義を行うときなども,日常の生活や時事問題と関連させて,論じました.そして,聴講生と質疑を行いあい,現代のセミナールに近い形態で行っていました.

これもあくまでも,読書をすることも,現実の実際問題を解決するという松陰の実学から来るものでしょう.また,松陰がテーマを決めて,レポートを書かせると言う事も良く行われました.

 

現実社会で,子供が感じる問題を文章に書かせて,本など参考にして色々調べさせて,それに対する回答を得させる訓練をすることも,子供が実社会で活躍できる基台を作ると言う点で,大いに参考になるのではと思います.

 

余談ですが,松陰が妹の千代に宛てた手紙(1859年4月13日)には,仏教信仰に関して述べた記述があります.そこでは,利他的な信仰は結構だが,自己の利益・長寿のために信仰することは無益だと,そして,「神に願うよりは身で行うがよろしく候」 [山口教育会編,吉田松陰全集 第8巻, 岩波書店,p315-327,1940と述べています.

これは,詳細な解説を要する深みのある内容と思われますが,松陰は,自己のための信仰や祈りをすることよりは,何より具体的な実行することが重要だと述べています.このことも参考になるのではないでしょうか?

以上,子供の教育へ松陰先生の教育が参考にできるのではと思い,簡単にですが,それに関して述べました.また,まとめることができれば,いつか,詳しくお話しできればとも思います.

 


徳川幕府の鎖国政策の中,しかも,長州藩が攘夷運動の中心藩であるにもかかわらず,国の未来を背負って英国に留学した「長州ファイブ」として知られる5人の長州藩士がいました.

彼らは,まさしく命がけでした.

鎖国の日本において,海外に密航することは,幕府の法律では重罪であり,しかも,攘夷運動の先頭に立っている長州藩において,長州藩士が海外に密航することは,熱烈な攘夷家にとっては,大変な裏切り行為であり,もし,知られれば,粛清されかねないことでした.

幕府が決定した攘夷開始日である1863年5月10日に,久坂玄瑞等によって,下関で外国船向けて砲弾攻撃を開始しました.なんと,その2日後の5月12日に横浜港を英国に向けて,上記5人の長州藩士は,出発しています.

その5人ですが,「内閣の父」と言われる初代総理大臣の伊藤博文,彼は4度総理大臣になっています.
日本の外交の先駆者で「外交の父」と言われる井上馨,彼は,徳川幕府が結んだ不平等な通商条約の改正に向けて多大の努力を行っています.

また,工業復興のために人材育成の重要性を鑑みて,工部省の設置を建議し,東京大学工学部の前身の工部大学校を開校して「工業の父」と言われる山尾庸三,彼は,後年,初代の法制局長官として,霞が関の官庁街を設計し作り上げました.聾唖者のために,学校の創立などの活動も行っています.

さらに,鉄道の普及に執念を燃やし,死ぬ寸前まで鉄道発展に尽くして「鉄道の父」と言われる井上勝,彼の墓は,すぐそばを東海道新幹線が走り,また,京浜東北線や東海道線も近くにあります.本当に鉄道一筋の人生を歩みました.
遠藤謹助は,大阪造幣局で,日本人として初めて貨幣を造成して「貨幣の父」と言われています.

このように,留学した彼ら全員が,担当した各方面で父と呼ばれて,「富国強兵」を国家スローガンとする新しい国家建設に,本質的に貢献しました.

この5人が,近代日本を作り上げる先頭に立ちました.

1863年5月12日の横浜での出発における5人の覚悟は,「生きる機械」となり国に貢献するという,まさしく命がけのものでした.

密航した一人残らず全員が国のために本当に尽くしたことは,今の日本を復活せしめる秘訣が,その背後に隠されていると思えてなりません.

また,次回も国のために尽くした長州人を概観していきます.

 

 

 

 

先日,NHKBS番組:英雄たちの選択で,「高杉晋作 革命戦士が夢見た独立国家構想」を放映していました.

 

NHKのこの番組の紹介の一部に

「元治元年(1864)、幕府の長州征討軍がせまる中、わずか80名で、決死のクーデターを挙行した。いわゆる下関挙兵である。この暴挙ともいうべき高杉の行動が、起死回生の結果を生み出す。長州藩の大ピンチの中で、高杉が取った選択とは?」とあります.

 

高杉晋作は,確かに,破天荒なこと,無謀なことをずっとやって来ました.

1.品川の英国公使館を焼き払う.

2.松陰の遺骸世田谷へ改葬のため,上野山の下の忍川にかかる三橋の真ん中のお止め橋を渡る(将軍が渡る橋で一般人は禁止).

3.京都賀茂神社へ天皇の行幸時に,供をしている将軍家茂に対して,「征夷大将軍」と叫ぶ.

などです.

 

しかしながら,横山健堂(父親が,松陰の松下村塾で晋作と共に学ぶ.晋作の2歳年下で,付き合いがあった)が,「高杉は,極めて徹底した人物である.維新の人物中彼の如く徹底した人物はいない」と述べています[横山健堂,高杉晋作,武侠世界社,pp.2-31916]

一般に,高杉は,乱暴者で無謀なことばかりをやると言った感がありますが,彼の行動を精査すると極めて綿密に計画・準備をして,いざ実際にやるとなれば,伊藤博文が,彼の顕彰碑に書いた有名な「動けば雷電の如く,発すれば風雨し,衆目駭然、敢て正視する者なし.これ我が東行高杉君に非ずや」の如くに,命がけで怒涛の如く徹底して行動するという性質があります.

 

高杉晋作は,その文章には詩情あふれるものを多いのですが,極めて簡潔であり科学的数学的な思考をできることを感じさせる文章もあります.これは,上海に行ったときに,数学書も購入していることからも,そう感じさせます.

第二次長州征伐で,彼は小倉口を担当しています.密偵を小倉に送り,徹底的に幕府軍の情勢を探ったり,下関から門司側までの距離の測量を行わせたり,そういうことからすると,その根底には,横山健堂が言っているように,極めて徹底した人物でると思われます.

私には,前にも言いましたが,科学的数学的な素質も備えていたように思います.それも奇跡を起こすことができるひとつの基台であったのだと思います.決して命がけの行動を行ったのみの人物ではありません.

 

これは,高杉晋作だけの実績のように捉えがちであります.しかし,松陰の影響が大きかったのは,明白であり,また,もっと言えば,長州藩の土壌と大きな相関があります.

関ヶ原の戦いで豊臣側の大将に毛利輝元は担がれて,徳川側の勝利により,毛利家存亡の危機に直面しました.

その時に,吉川広家,福原広俊,そして,益田元祥等の人物を中心として,一致団結して,壊滅寸前の長州藩を復活させました.また,外様大名であり,いつ取り潰されてもわからない,かつ,藩財政が極めて厳しい中を,長州藩は乗り切りました.しかも(藩士や長州の民衆には善作を十分には施していませんが),重就公が始めた撫育方による収入が特別会計として扱われ,幕末に活躍できる莫大な貯蓄を行いました.

そういった土壌があってこそ,あの下関挙兵である功山寺決起を晋作が起こし,奇跡的な大逆転劇を生んだと考えるのが,妥当だと思います.

下関挙兵当時と長州藩発足当時は,壊滅寸前であると言う点で同じであり,その時,命がけの団結をしたことが,その危機を乗り切る核心基台となりました.功山寺決起に石川小五郎・伊藤博文ら80数名の参加は,まさしく命を懸けての,晋作を中心としての一体化であり,これが天運を呼んだと思います.

これは,脈々と受け継がれた,毛利元就の三子教訓状(三本の矢の教えを説いている元就が3人の子供[隆元・元春・隆景]にあてた書状)の教えの上に立っていると思われます.

 

 

今回は長州出身の政治家に関して,特に総理大臣について話します.


明治維新以来,山口県から8人の総理大臣が誕生しています.その総在職期間の合計は36年(全期間の24%に相当します)を超えて,2位の東京都の8年を圧倒的に上回っています.


また,1位が桂太郎,2位が伊藤博文,3位が佐藤栄作,9位が岸信介,10位が山縣有朋です.


明治時代には,伊藤博文,山縣有朋,第1-2次桂太郎,大正時代には,第3次桂太郎,寺内正毅,昭和時代には,田中義一,岸信介,佐藤栄作,平成時代には,第1-2次安部晋三と全ての時代で総理大臣を輩出しています
[首相官邸ホームページ: 内閣総理大臣一覧,http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html ].


薩摩(鹿児島県)は,日本人なら誰もが知っている西郷隆盛や大久保利通の偉大なる英雄を生み出し,明治政府樹立に欠くべかざる大きな貢献をしました.しかし,明治と大正時代には,総理大臣を黒田清隆,松方正義,山本権兵衛の三人を輩出したものの,昭和時代以降には,一人も輩出していません.


更に,選挙区が東京であり,数に入りませんが,2010年の民主党政権当時の総理大臣菅直人も,山口県宇部市に生まれ,高校時代の半ばまで,そこで育ちました.


また,元防衛庁長官,つい先ほどまで農林大臣だった林芳正も下関市の出身です.彼は,幅広い政策通として知られ,1961年生まれの50代前半の若さもあり,未来の総理大臣の可能性を大いに秘めています.

外務大臣・法務大臣他を歴任して,現在,大与党自民党の高村正彦副総裁も,山口出身です.


さて,1987年の11月に,中曽根康弘総理大臣の退陣に伴い,次期総理大臣の候補が,自民党の総務会長の安倍晋太郎,幹事長の竹下登と宮沢喜一でした.中曽根が竹下登を次期総理大臣に指名しましたが,そのときに,安倍晋太郎が「国の為に命を懸ける」と語っていました彼は,安保改定の時の総理大臣岸信介の娘婿であり,現総理大臣安陪晋三の父親です.


山口県人の総理大臣になっての決意として語った「命を懸ける」とは,通常使われている一生懸命やるという外交辞令の意味では無く,国のためにまさしく命がけで尽くす決意を述べていると思われます.


そういった伝統が,長州人,山口県人にはあります.


故郷の先人が命懸けで国の未来を開いたという事実は,前民主党政権下の経済の悪化,日米関係の悪化,消費税問題,TTP,北朝鮮による拉致問題,集団的自衛権などの数々の難問に果敢に取り組み,徐々にその実をあげている,また,積極的平和外交で世界を駆け巡っている総理大臣安倍晋三にも,良く表れていると思われます.


無論,消費税アップなどで,現政権の経済政策の恩恵が,まだ,すべての国民層に行き渡ってない現状では,歴代の長州の総理大臣に肩を並べると言うのは,まだまだ早いと思われますが.


長州出身の総理大臣は,現実社会が困難な時に立つと言われています[山本博文監修: 山口県の歴史,洋泉社,pp.171, 2013]


幕末に於いて高杉晋作等長州人が,国の未来を開くために,まさしく命を懸けた(無論,幕末を迎えるまでに,藩の出発から,そういった基台が作り上げられて来た思われますが)というDNAが,脈々と受け継がれているのではないかと思われます.


また,長州から,政治家のみならず,他の分野でも,政治家と同様に,国の未来をそれぞれの道で切り開いて行った人物が,本当に沢山います.


不思議なぐらい本当に多いのです.何故でしょうか?本当に何故でしょうか?


この理由と意義を根源的に明らかにすることが,このブログのテーマです.


私は,ここを良く調査解析することにより,今の日本を救う道を見つけ出すものと確信しています.


さて,次回から数回に渡って,各分野で活躍した長州人を紹介していきます.








長州出身の,第二次世界大戦後の大政治家,岸信介元首相は,歴史に関して,回顧録の序文で,次のように述べています.


「ひとつの時代の出来事を正確に歴史に記すことは容易ではない.歴史は多くの場合,その時代の権力者の手によって書かれるために,今の時代のことでも,自分たちの都合の悪いことは人情として触れなかったり歪曲したりするからである.・・・・・


歴史とは,その時代に政治権力を握った人たちの願望・信念・情熱・見識・勇気などの総合的な軌跡である.人が何をしようとしたか,何をしたかの記録である.従って,人のすることであるから,成功することもあれば,誤りや見込み違いがあるのは当然である」
[岸信介: 岸信介回顧録, 廣済堂出版,pp3-41983

歴史的な事実として,伝え語られていることは,即ち,当時の人々が事実を忠実に綴った場合もあると思われますが,岸さんが述べているように,実際のところ,都合の悪いところは歪曲されたり,隠蔽されている場合も多い.歴史を研究するにおいて,一次史料として重要視される日記や手紙に至るものであっても,厳密には,そういう面もあるでしょう.


過去には歴史に関する事実として定着していたものが,その後の史料の発見などにより,その事実が覆されると言った例も,往々に存在します.即ち,「歴史は書き換えられる」と,また,書かれた歴史は主観的なものと言われる.歴史資料や歴史書は多いが,その正否や理解について,史料批判が行われるが,すべてにおいて,客観性を得ることは容易ではありません[林三雄: 長州藩の経営管理 文芸社,pp.18-23, 2001].

歴史を書く目的により,その内容が決定されるとも言われます.

民族教育を重要視する韓国の国定韓国高等学校歴史教科書[石渡延男他(): 韓国の歴史(新装版):国定韓国中等学校歴史教科書,明石書店,2001]には,歴史に関して,


「(1)歴史を勉強する目的は,過去の事実を正しく認識することは勿論,問題解決の能力を育てて,現在の生き方に効果的に対処しようとするところにあります.

()過去と現代の対話[EHCar: What is History?, Cambridge University Press, 1961]:歴史学習は先ず過去の事実としての歴史を正しく理解するところから出発するが,究極的には現在生きている我々の成長を期するものである.」
と述べてあります.


歴史は,限りなく科学的事実を突き止めて,それに基づき客観的に冷静に見つめ解かれ,評価されていかねばなりません.

現実的には非常に困難であるが,そこが基本であり,事実は事実として,その基台の上に,現実の問題を解決する手段方法の提示や未知の問題を解決する能力を身に着けると言ったことが,一次史料を主として歴史の事実の研究や不明な歴史の推測などを行う歴史学者を除いて,一般人の歴史を学ぶ意義ではないでしょうか.

更に,困難な現実の諸問題に対峙した時に,それに立ち向い克服する強い精神を養うことも重要ではないでしょうか.困難に屈しない情的な力を身につけるとも言うべきでしょうか?

良く知られた「天は自ら助けるものを助ける」,「求めさらば与えられん」,こういった聖書の聖句は,人間自身が困難であっても諦めずにやり抜く,その姿勢を説いているとも思われます.

そのためにも,国や広い世界のために命がけの行動を行った歴史的な事例でかつ,特に,その成功事例とそれが後世の人々へどのように受け継がれていたかを研究することも,歴史を学ぶ意義があるのではないでしょうか.

ところで,科学技術の開発には,その分野の専門技術に対する精通が重要であると思われやすですが,困難に屈せずに,やり遂げようとする湧き上がる衝動と言った情的な力という観点が,もっと本質的に重要であると日本の伝説の技術者が述べています(前記と若干意味合いは異なりますが)

1960年前後当時の世界のコンピュータ業界は,IBMの独壇場であったが,日本の弱小通信メーカであった富士通信機製造(現富士通)が,交換機・電話機のリレーの技術を応用して,コンピュータ開発に果敢に挑み,1974年には,LSI搭載のIBMの性能を凌ぐコンピュータを開発しました.


その開発の中心に立った「日本のコンピュータ産業の生みの親」と言われる池田敏雄は,「全ては,感動から始まる」.また,「感動ということは,心に何かダイナミックに生じた証拠だ.何かに感動したら,ひたすら没頭せよ」と語り続けましたNHKプロジェクトX制作班: Project X 挑戦者たち14,日本放送協会,pp.119-175, 2002]


技術的テクニックよりも,先ずは情的なもの,感動の必要性を説きました.こういった観点からは,意味あいが若干違うものの,歴史を通して学ぶことは,現実の問題解決の技術的なものを習得するよりも,困難に屈せずにやり遂げようとする湧き上がる衝動,情的な力を獲得するほうが,より本質的に重要であると思われます.

そういった観点からも,明治維新前後の長州人の活躍を調べることは,意義があると思われます.次回に,如何に長州人が活躍し,それが続いているかをご紹介します.


みなさんこんにちは!


今,私は明治維新の吉田松陰や高杉晋作のような長州人の活躍

の意義に関する本を書いています.


おいおい,皆さんに,お知らせします.


おたのしみに!