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そして最大の転機が訪れました。2000年を迎え、地元田川では「21世紀を迎えた契機に、何か大きな市民の力を結集できるイベントをやろう!」と、ある市民プロジェクトチームが立ち上がり、大学生の企画ボランティアスタッフとして声をかけられたのです。

 

プロジェクト全体の協議を進める中で、「田川と言えば、炭坑節。最近は小学校の運動会でも踊らなくなってきた。これをもう一度復活させるために、田川の人をたくさん集めて、大きな総踊りの企画をやらないか?」と言う意見が出されました。まだまだ若かった当時の私は、強気の意見として「そんな古臭い炭坑節だけで、ひとは集まりませんよ、もっと若者も興味がもてるようにアレンジしてみてはどうでしょう?」と返してしまいました。少々ムッとされながらも「アレンジとはどういう風にやるのか?」と聞かれ、その次の会議に、ある音源を持ち込みました。高校時代から続けているシンセサイザーで編曲した音源、その名も「パラパラ炭坑節」です。当時、流行っていたパラパラのユーロビートで仕上げた炭坑節のメロディー。ついでに、とパラパラの振り付けも考えて、踊ってみせることに。

 

これが発端となり、私はこの企画の責任者として、炭坑節のアレンジを競う「創作ダンスコンテスト」に

関わることになりました。パラパラを皮切りに、アレンジした炭坑節音源を3つ用意し、出場希望のチームに配布。それ以外のアレンジもOK、と門戸を広げ、新聞やテレビも巻き込んで、イベントのPR隊名目で、このアレンジ音源を使ってダンスパフォーマンスする大学生集団も編成。マスコミ効果は絶大で、瞬く間に「パラパラ炭坑節の大学生」は、時の人となり、そのお陰で、2001年9月に開催したイベント当日は主催者発表5,000人規模の集客が実現しました。

 

イベントで使う装飾品も、家具職人のおじさんに直談判し、毎夜毎夜工場に押しかけて自分たちの手で製作。会場周辺の草刈りも実施、「花火を上げる許可が下りない」荒地を草刈り機で丸裸にし、許可書をゲット!「バス通りだから封鎖できない」会場隣接の道路を、何度もしつこく警察署に出向き、警備計画や実施の詳細打合せを重ね、イベント目前までかかって許可書をゲット!今思えば、あれほど没頭したことがないと思えるくらい、若かった私たちは毎日毎日イベントの準備を重ねて、初めてのイベントを成功させたのでした。

 

今ではこのイベントが、形を変え、運営母体が市・住民でつくる実行委員会組織となって「TAGAWAコールマイン・フェスティバル~炭坑節まつり~」という、田川市を代表するイベントに昇華されました。

総踊りで出場する踊り手は実に1万人!勤め先の関係もあり、謀らずして今でもこのイベントに企画委員の一人として携わらせていただいています。

 

また、このイベントのPR隊を務めた大学生パフォーマンスチームは、2002年に「田川創作炭坑節CDR21」という名で、イベントとは独立した形のグループを結成しました。イベントのPRが目的ではなく、田川の炭坑から生まれた文化・炭坑節そのものを、もっと全国に発信していくことを目的としたグループ結成でした。結成式には、地元の方約200名が、お披露目パーティーのチケットを購入して参加してくださいました。平成28年12月現在で、約60名のメンバーが在籍・活動を行っています。大半は、私の母校の大学生たちですが、アラフォー目前の私も、今でも楽曲制作スタッフとして、ステージ上での歌のパフォーマーとして一緒に活動を続けています。

 

約16年ものステージ活動で気づいたこと。

ステージに向かってかかる声援、ステージを終えて駆け寄ってくださる方の感想はいつも「炭坑節、すごいね!」「炭坑節、かっこいいね!」「田川のことを広めてくれてありがとう!」「田川、頑張って!」

 

私個人の名前などはどこにもない活動。そこに満足感を感じて、また次頑張ろうと思えること。

16年間はおり続けているステージ衣装の、左右の旨に金色の刺繍で輝く2つの看板―「炭坑節」「田川」という大看板を、いつしか背負った立場と自覚してステージに向かう自分。

 

私は、「炭坑節」でありたい、そして私は「田川」でありたい。

大きな看板を、背負わせてもらえているという誇りと感謝が、そのまま、「炭坑節」と「田川」に対する憧れとなっていました。私が好きな「炭坑節」。私が好きな「田川」―。

どちらも、結果として私自身、そしてそれに関わる、頑張って汗をかいてくれている全ての人を一緒に含めて指す言葉。

 

だから、「田川」「炭坑節」と呼んで褒められることが、一番の喜びです。

 

埋もれている地域の文化を掘り起し、これを詳しく学び、これに手間暇かけて新たな価値を生み出す。

そうして磨き上げた地域の文化を、地域の看板を背負って、売り込みに出かける。

多くの賛同者からの笑顔、拍手、声援、これら全てを経験することで、地域の文化に対する理解と感謝、敬意に繋がり、そしてこれを育んでくれた地域そのものへの愛郷心が生まれる。

 

田川に生まれ、田川に育ち、そして田川で暮らし続ける中で田川にあるものが沢山見えるようになった。

「創造」「協働」「郷土愛」の楽しさ、大切さを育んでくれた私のふるさと・田川にこれからは「創造」「協働」「郷土愛」を駆使した最高の恩返しがしたい。それが私の偽りのない本望であり、生涯を通じて、この3つのサインが点灯する事象には、全力投球で向き合っていきたい、そう思う毎日です。