ここまでの飼い主さんからの気づきを今日は書こうと思います。
私はこれまで23年間、犬を直したことは一度もない。狂暴犬でもです。
教えたことはあっても。教えたことで、犬も理解できてどうすればいいかわかっただけ。
叱らないで無視する方法って、本当に優しいと思いますか?
わからない、どうしたらいいの?と言ってる人を無視するのと同じ。
愛の反対は無関心。無視は無愛の行動。精神的に深く傷つけるのが無視すること。
叱られる事より、苦痛を与える。永遠にわからないまま無視するのですから。
なおりますか?・・いつから犬がおかしくなったのでしょう?壊れたのでしょう?
これはすごく自分勝手な言葉であり、もし自分にむけられたらどうでしょうか?
教えてもらっていないことでわからないのに、問題人扱いされたら傷つきませんか?
犬たちに足らないのは、教えてあげることです。安全に休める居場所を提供することです。
むしろ“なおりますか?”は私たちへの問いだと思うのです。犬は正常です。病気ではない。
〇〇さん、ここを改善できますか?それはちょっと無理です・・無理という答えなら、無理を有理にすることは私にはできません。皆さんが変わってくれてこその結果であり、教えたら犬もわかりますので。犬は変わろうと努力してくれます。人間はどうでしょうか?
「教え方を習う」のが皆さんのすべきことで、それが解決へと一歩です。
自分が出来ている前提で犬をみてしまいますが、犬よりも自分がまずできるようにならないといけません。犬は教えたらできますが、教える人ができないとしたくてもできない。
クレートで吠えるんです・・本当に犬がでしょうか?吠えたら出してあげる人がいるからです。そしてかわいそうと我慢できない人が、その行動を作っていて、かわいそうなのは犬ではなく、自分自身なのです。問題って意外とよく見直すと“天ツバ”です。
そこで安心して休めるようにしてあげることがかわいそうでないようにすることなので、かわいそうと言っている時点で、自分が頑張りたくないという心の表れで、「甘え心=かわいそう」なのです。
乗り越えられるように自分たちが努力するよ!これが大人であり、愛情であり、かわいそうでないようにしてあげる為の実践(行動)です。
よく振り返ってみると自分たちがそうなるように教えている行動が見当たりませんか?
最初の犬はなおりますか?の問いがおかしく感じてきましたか?
もう皆さんは幸せにする一歩を踏み出した証拠です。
「教えたいので指導して頂けますか?」