9月4日に日付が変わってすぐ、母方の祖母が亡くなりました。
私にとって、小さい頃からかわいがってもらった唯一の祖母でした。
母方の祖父は私が生まれてすぐ亡くなり、父方の祖父母とはそんなに交流がなかったので。
もともといろいろ持病を持っていたし、心臓や腎臓、肝臓も強くなく、足が悪くて施設に入所していましたが、夏が来るまではとっても元気でした。
8月に入って暑さから夏バテ様になり、食事があまり取れなくなってからどんどん体力が落ちていきました。
もともと足が不自由なのに加え体力も落ちたことで、自分で立ったり歩いたりがだんだん難しくなっていきました。
みるみるうちに具合が悪くなっていったのに、施設に併設されているクリニックではなかなか入院先を紹介してはくれませんでした。
しかも介護施設だから看護師が常時いるわけでもなく、栄養サポートなども一切なく、食べれる分だけ食べ、介助が必要なことにだけ力を貸してもらうという状況。こんな状況では良くなるはずがない。一刻も早く入院させてほしかったけれど、連絡した病院の方で入院できる都合がついたら連絡がくるからと、連絡まちの状態で何日か過ごしていました。
8月29日、とうとう尿がほとんどでなくなり、見かねて私が母を連れて夜に施設を訪れ、救急病院に連れていきました。やはり検査の結果入院しないといけない状況であり、日付が変わってから入院となりました。
もはや腎不全は進行しており、透析が必要な状況でした。ただ、心機能も肝機能も悪く、透析をやるには人工呼吸器のサポートは必須だろうと言われました。しかし、それをしたからといって良くなって退院して元の生活に戻れる可能性はとても低いと。
治って元気になるのでなければ人工呼吸器はつけたくないという家族の希望もあり、悩んだ結果苦痛を取り除く緩和ケアを中心として利尿剤などを使用した治療を行いました。
しかしやはり透析なしでは腎機能の回復は難しく、どんどん四肢の浮腫は強くなり、胸水もたまっていきました。
9月3日の朝、機械のサポートなしではこれ以上の回復は望めない状態だと説明され、改めてDNRの同意書にサインをしました。
今後は苦痛をとるために持続で鎮静薬を使うと言われ、その後はほとんど寝たままの状況に。
もってあと1週間くらいと言われましたが、結局その日の夜には呼吸が止まりました。電話で呼び出されて病院に着いたときには、すでに心臓も止まっていました。家族が全員そろった9月4日0:04、死亡確認となりました。
呼吸や心拍が止まる瞬間を見れなかったせいか、苦しんだ形跡もなく今までと変わらず眠っているだけのように見えました。
だからなのでしょう。未だに実感がわかず、納棺された今もあまり涙がでません。
私は看護師なので、病院で最後に祖母の体を一緒に拭かせてもらいました。
昔はすごく太っていたのに、ここ2~3年でずいぶん痩せました。さらにこの半月ほとんど食べていないせいでもっと痩せてしまい、ずいぶん小さくなっていました。
そんなことを感じながらも、頭は冷静でした。
たった5日の入院中に仙骨部や踵部にできた褥創を見て、「栄養状態悪いし浮腫強いんだからもっと体位変換とか除圧してほしかったな」とか
その仙骨部の褥創にサランラップを張り付けてテープで固定したのをみて「ラップなの?もっと何かないの?」って思ったり
とにかく、自分の勤務先でやっていることと違うことが多すぎて、そのことばかりが気になってしまったり。
なんで自分はこんなに冷静でいられるんだろう。なぜ泣けないんだろう。
決して悲しくない訳じゃない。決して死に慣れているからでもない。自分ではそう思っているのに。
母が泣きながら話しかけているのをみたり、久しぶりに帰ってきた弟が泣いているのをみると、思わずもらい泣きしそうになることはあるけれど、自分で祖母の顔を見て涙が出そうになることはない。
実感がわかない。たぶんそれが一番の理由。
火葬になれば、いよいよお別れとなれば、涙は出るだろうか。
思い出は沢山ある。後悔も少しある。
そういうのを思い出して涙が流れるのは、もう少し先なのかもしれません。
入院した日は本当に苦しそうにしていて、全身の痛みをすごく訴えていたので、それを取り除くことができて苦しまずに亡くなっただけでも、良かったのだと思うようにしています。
もっと早く入院できていたら、他に方法があったのかな?と考えてしまうときりがないですし。
後悔してもどうにもならないですし。
心のこりはひ孫を見せてあげられなかったこと。もう少しで会えたのに。それが残念。
だけど、86年生きた。大往生です。長生きしました。
いろんな持病を持っていたのに86年も生きたなんてすごいと思う。最後まで認知症などにもならずしっかりしていたし。
黄泉の国では迷わずにおじいちゃんに会えたかな?
ゆっくり、安らかに過ごしてね。