2人が活躍した半世紀前には人口1万人を超えていた蘭越町。それでも田舎町であったのは変わりありません。リフト設置のスキー場はなく、数百メートルのスロープをひたすら脚で登っては滑るを繰り返し、高校の通学には1時間を要した二人のスキー環境は果たして恵まれていたのでしょうか?


 リフトが無く脚で登って滑ることが当たり前であった時代、二人の幼少期には自宅のごく至近にスロープがあったといいます。そして熱心な指導者の存在。高校時代には毎日練習ができる環境と良きライバルがいました。当時の時代背景を考慮し、他の地域の選手と比較してみると、案外恵まれた環境だったのかもしれません。


 1度ならず2度ものをオリンピック出場を果たした二人。その理由を考えてみました。まず幼少期にジャンプなどを交えたスキー遊びでバランス感覚を養い、そしてショートコースで徹底的な基本練習を繰り返し、他人よりも早く登ることによる豊富な練習量が天性の運動センスに磨きをかけていったと予想できます。


 そして忘れてはならないのは、当時の二人の周りに充満していたスキー熱の上昇気運。全日本や全道大会で活躍する先輩、仲間が身近にごろごろしていた環境が、頑張れば全日本に手が届くと言う確信を与え、そしてさらにその先にある輝かしいものへと夢を膨らますことを可能にさせたのでしょう。この気運の上昇こそが負けず嫌いな二人の大きな原動力になったと想像できます。



あとがき


 二人が活躍した時代から半世紀が過ぎた現在。景気後退と少子化によってスキー環境も一変しました。地方の小規模スキー場は姿を消し、スキー競技人口も減少の一途です。


 アルペン競技を継続するには多額の費用がかかります。道具、合宿、レース出場にかかる経費は膨大です。世界を目指そうとするのなら、国際スキー連盟(FIS)のポイント獲得が必要不可欠であり、多くのFISレースに出なければなりません。移動、宿泊、大会エントリーにかかる費用だけでも少なくありません。


 またゲレンデを独占してしまうポール練習は、利益優先のスキー場経営者の理解を得られないケースが多く、以前はゲレンデのあちこちに見られたポール練習風景は減少の一途です。レーサーの端くれだった私の中学・高校時代には、全道各地に選手がいてその数も膨大でした。少子化やスポーツ・遊びの多様化でスキー離れが顕著な今、特定の強豪校に選手が集まる一極集中の傾向は強まるばかりです。


 さらにアルペンスキーを敬遠する理由のひとつにテクニック習得の難しさがあります。ワールドカップのピステはアイススケートリンクと遜色ない硬さだといいます。そこにエッジをグリップさせターンを繰り返すわけですから、そのテクニック、体力たるや生半可なものでは歯が立ちません。


 しかしながら、お金がかかるから、難しいからと諦めてしまうのではなく、何とかこの競技の衰退に歯止めをかけたいものです。以前、気田を支えた町ぐるみで応援するような体制の再構築に、そのヒントが隠されているような気がします。


 二人が残した偉大なる足跡。半世紀前の蘭越に、誰よりも熱くスキーに情熱を傾け、偉業を達成した大先輩がいたと言う事実は、この地でスキーをする者をワクワクさせてくれたり、何か誇らしい気分にさせてくれたりします。


 町で唯一のチセヌプリススキー場は7シーズン前より休止しています。アルペン少年団も部員減少で解散したといいます。外国人で賑わうニセコ、倶知安の隆盛に比べれば凋落が否めない蘭越のスキー状況でありますが、蘭越からスキーの人が消えないように、また二人の偉業を風化させないように末永くスキーを続けていきたいものです。


最後に現役時の福原のエピソードを記してこの追想記の幕を閉じたいと思います。



福原の強気


福原はアマチュア現役時代に30回の海外遠征を経験したという。福原が初めての海外遠征であったシャモニー世界選手権、ビラールユニバーシアード大会の帰国後に、メダルを逃したことに大変悔しがるコメントを残している。初めての国際大会、しかもアルペンの本場ヨーロッパに乗り込んでの状況で、福原はすでに世界と伍して勝利を意識していたのである。本場ヨーロッパからはるかに離れた極東の島国に生まれ育ち、本場のスキーを見たこともなかった選手が、である。この時、福原はスタートリストに連なる選手の名前は誰1人知らなかったという。まったくのアウェイ、言葉が通じる日本人と言えば一緒に選ばれた日本代表選手とコーチのみ。硬い雪質と圧倒的なスピードの違いに度肝を抜かれたという。並の心臓では意気消沈必至の状況であるのに、この強気の自信はどうだろうか。その理由として私は、数年前まで世界と互角に戦った猪谷千春の存在が大きいのではと想像をする。同じ日本人として勝算なきにしもあらずと強気に臨んだに違いない。