『月と六ペンス』サマセット・モーム作/中野好夫訳
昨夜、読み終わりました。
なかなか涼しくならない9月ですが、読書の秋にしようと思い立って、まずは1作品目。
この本、小学校六年生の時に読んだことがあります。
でも、当時は、全く意味が分からず…。
いつ、月と6ペンスが出てくるんだろう、と思いながら読んだ記憶があります。
大人になって改めて読んで、小学生の私には、理解しづらかっただろうなと思いました。
ただ、もし、この本を読書感想画の題材にしたとしたら、描いていただろう情景があって…。
この本の印象というと、すっと思い浮かぶ南国のとある情景。
それが、まさに物語後半に出てきて、「あっ、これだ。」と驚きました。
たぶん、小学生の私にとっては、その部分が一番印象的だったんだと思います。
逆に、全く記憶に残っていなかった物語の流れもあります。
それはどういった部分か…
その前に、この物語について…
この物語は、作者がゴーギャンの伝記に発想を得て、天才画家の一生を第三者視点で綴ったものです。
(以下、少し内容に触れます。)
月と六ペンスというのは、訳者によると、象徴的な意味を持つものとされます。
つまり、月とは、人間をある意味での狂気に導く芸術的創造情熱を指し、
六ペンスとは、天才画家がかなぐり捨てたくだらない世俗的因襲、絆を指す。
このことにも分かるように、この本の主軸は、平凡な一般家庭の大黒柱だった男性が、その生活を捨て、家族も捨て、財産も捨て、ただただ画を描くことに残りの人生を捧げたその顛末、にあると思われます。
結局、生前には才能を認められることのなかった、天才画家。
その天才画家が、いかにして、通常の人間ならば気にせざるを得ないような、社会のしがらみや絆を、意にも介さず壊し、周りの人間に蔑み非難されながら、彼らを巻き込み、あるときは傷つけ、それでも芸術に身を捧げるかのごとく、美に魅入られるがまま、情熱に駆られるがまま、我が道を歩んだのか。
私にとって印象強い言葉を、作者は、主人公(第三者)が出会った船長に言わせています。
「(略)
あのストリックランド(←天才画家のこと)を捉えていた情熱は、いわば美の創造という情熱だった。
(中略)
世の中には、真理を求める激しさのあまり、目的を達することが、かえって彼らの拠って立つ世界を、その根底から覆してしまうような結果になる、そういった人間がいるものだ。
(略)
私は彼に対して、ただ深い深い憐みを感じるだけだ。」
まさに、この物語に出てくる画家は、そういった人間で、たがしかし、そういう衝動のような情熱は、人間だれしもどこかに持っているのではないか、と思わされる、そんな言葉でした。
夢をどこまで追い求めるか。
現実の生活や人間関係を壊さなければ、夢を追いかけることができないとき、人はどうするのか。
現実と夢。
人は何のために生きているのか。
何をもって、人は幸せといえるのか。
なんだか、そんなことを考えさせられる物語。
そして、芸術、美、そういったものに、人間が本能的に感じる不思議な感動。
天才と言われる画家達が描く画の中に、人間の、社会の、自然の、何が描かれているのか。
そんなこを考えさせられた物語。
なんですが。
この本にサブタイトルを付けるとすると、私なら、「ストリックランドとその女たち」にします。
上記のようなことではなく。
この物語は、ただ「天才」とか「才能」とかいったところに焦点をあてる以上に、「男女の本質」をえぐりだすような視点から、芸術を追求する天才画家の姿を、描いているように感じるからです。
天才画家には、3人の女がその前を通り過ぎます。
一人目は、17年連れ添ったにも関わらず、子供2人とともに、財産すら残さず捨て去られた妻。
二人目は、画家の窮地を救った男性の妻であったにも関わらず、画家と関係を持ち、最後には画家に捨てられ自殺した同棲相手。
三人目は、画家が追い求めていた場所である南の島で出会い、最期まで連れ添った若い妻。
はっきり言って、印象としては、どんな天才も、年老いて不治の病に罹り、自分の最期を悟ったとき、それまで尽くしてくれた若い妻には足を止めるんだな、という感じです。
なんだか、感動もなにも、って感じなんですが。
画家の人生を本にしようとする主人公は、画家はずっと変わらなかった、画家を理解することのなかったロンドン・パリの社会と違い、タヒチという南の色彩あふれた景色とそこに住む人々が彼を受け入れたのだ、
そんな風なことを考えていますが、女の私から見れば、男としてのストリックランドも変わった、と思いました。
そして、結局、どんな男性も、年老いたときの若い女性、には弱いんだな、と。
いや、そんなうがった見方をする話では、決してないんですけど…。
ストリックランドは、その平凡な人生を捨てたときですら、それまでと自分の中で何かが変わったということはない。
ただ画を描くためにそうしただけで。
その後も、本質的な部分、画を描く情熱に関しては、何人たりとも、彼に影響を及ぼすことはなかった。
それは確かだと思います。
ただ、男女の本質って、そこだけじゃ語りつくせないというか。
感情とか、そういった人間に本来備わっているはずのものと切り離された天才だったと、そう言えなくもないですが。
ストーリーを追っていると、そうとだけは思えなかったというか。
この時代や昔の本は、往々にして「男とは」「女とは」という書き方をして、最終的に女には理解できないのだ、と言いつつ、男は女に振り回されるとか、男女とは~~といったものなのだ、という断定的な描き方をするものですが、
それは時代背景もあるし、実際男女の本質を鋭く突いた見方だと思うので、それなりに納得もします。
でも、この本の書き方は、ちょっとだけ鼻に付きました。
だから、納得しづらいんですね。
そして、小学6年生のときの記憶の中で、すっぽり抜けていたのが、まさにこの3人の女性のことだった、というのが自分の中で衝撃でもありました。
きっと、11・12才の頃の私は、まだ完全なる女性じゃなかったのかもしれません。
モームの書き方に難癖をつけたくなるような、モームが「女とは」こういったものだと書いている、正にそういう女性に、まだなっていなかったのかもしれません。
そして、今は、そういう「女」としての本質が、自分の中に備わっているんだろうと思います。
それを、この本を読んで悟りました…
この本、男性と女性では、読んだ感想がかなり違うんではないかな、と思わされます。
中途半端な感想ですが、また読んだら書きたいと思います。
(え、何が書きたかったの?という感じですが…汗)
次は、またモームの作品をもう一冊読むか、別の作者のを読むか、迷うところです。
京極夏彦さんのは、順調に読み進めています。
こちらは持ち歩き出来ない分厚さの本ばかりなので、家読み用で。













←






























」
」











なら、ニノはその友達のあのピンクいの
(ピグレット?)に見えちゃったよ