戸塚ヨットスクールとは
スパルタ教育の最前線であり、反リベラル主義のヨットスクールであり、
「体罰は善」を掲げました。
そして、多くの人々が彼の意見に賛同している。そんなヨットスクールです。
しかしながら、なぜ、一度体罰というものは糾弾されたのでしょうか。それほど素晴らしい理論であれば、糾弾されない筈なのです。
今回は「体罰は正義か?」について話していこうと思います。
目次
- 前提
- 体罰教育の金字塔にメスを入れる。
- 体罰がなぜ悪なのか
- 奴隷根性
- 強い正義の押し付けは科学的に危険
- まとめ
- 個人的な感想
前提
言葉の定義と、考え方をここで述べておきます。
問題のある体罰とない体罰
ない体罰
1 正当防衛
子供が手に負えず、人を傷つけようとしている場合、子供を鎮圧するためのもの。
これは、自他の安全を確保するものであり、過剰防衛にならない程度であれば良い。
2 子供の安全が脅かされる場合
子供が信号を無視した、子供が崖から落ちそうだなどであれば、一時的に子供を落ち着かせるための体罰は良いでしょう。
ある体罰
上2つ以外の体罰は悪であり、忌諱されるべき存在である。
善悪
善 この場では、公共の福祉、それから人権を前提とした、公の精神のことを指すものとする。
悪 そのまま、善と真反対のもの。善を蔑ろにすること。
躾と虐待の定義
躾 子供の将来を第一に考え、子供の考え方を変えるのではなく、アップグレードさせること。
虐待 大人の善を第一に考え、子供を自分と同じ考え方にするために暴力や暴言を扱うこと。
叱ると怒鳴る
叱る 暴言や暴力を一切に含まず、落ち着いて、子供を教育すること。
怒鳴る 暴言や暴力を一切に含まず、絶対悪について、子供が聞くをことをせず、興奮状態にある子どもを鎮圧するために、子供を必死に説得すること。
奴隷 ニーチェの奴隷がベースだが、意味合いとして、
疑いをかけること、問題を乗り越えることがワンパターンになった人。受け身な人。
的な意味合い。
リベラル
自由と平等の上に自己責任があり、全員が社会に活躍する「機会」と「義務」を与えること。
誤解されているリベラル
社会主義と放任教育が足されたようなもの。
体罰教育の金字塔にメスを入れる
体罰の金字塔は戸塚ヨットスクールですね。
戸塚校長の考え方、体罰が善である理由は写真に載っている通りです
彼の考え方をまとめます。
まず、ベースとなるのが、ベンサムの功利主義。
確実にこれは存在します。
そして、彼は人権、そして平等否定。
教育とは、不快の方向にいく子供を矯正すること。
彼が考えるリベラル像とは、誤解されているリベラルです。多分。
(彼はリベラルに対して具体性しか帯びておらず、一般化されていないので、さほど理解されているとは思いません。)
まず、戸塚校長が、なぜ体罰が善なのかについて、
「不快を乗り越えること」と言っていました。
例を出しましょう。
不快を乗り越えさせるため、海に行かせる。
この目的自体は悪ではありません。(後述)
問題は手段です。
叩いて行かせること、これがまさに悪なのです。(後述)
例えば、手を引っ張る、そもそも大人なのだから口を利かせろよとは思います。
叩いて行かせる(①)ことと、手を引っ張る(②)ことを全く持って意味合いが変わってきます。
私はヨットをさせる分には悪ではないといいました。
その理由は、
1 人ではなく自然を相手にしていること。
2 問題(不快)を利用したり、乗り越える体験ができるということ。
3 不快な体験が普遍的でないこと。
4スポーツであること。
①叩いて行かせることは、
他律的な、叩くことと行かせることが直接的な目的とはなりません。
叩く意味はなんでしょう。おそらく叩いて、自主的に活かせることを成長といいたのでしょうが、やってることはパブロフの犬、条件反射であり、成長には程遠いです。
叩くという行為の成長にはバリエーションがありません。つまり、叩かれた時点で、行動の正解が一つしかないということです。
つまり、何も考えずに服従するという奴隷根性につながります。
それに対して
②手を引っ張っていかせることは
そのまま、海に行かせるという自律的なものてす。
ヨットをすることは素晴らしいことです。
まず、海、自然の脅威とは多種多様であり、また乗り越え方も自由です。
つまり、問題に対して「受け身」にならず、能動的に解決策を模索することができます。
体罰がいけない理由は、問題の乗り越え方、またその不快のパターンを一つであるためにあるのです。
奴隷根性
体罰が悪である論拠として、奴隷根性と条件反射を話しました。
条件反射は分かっていただけると思います。一般化できないその分野でした役に立たないからです。(スポーツにおいては役に立っても、日常生活で使わないですよね。)
では、奴隷根性がなぜ悪いのでしょうか。
端的にいうと、
「疑うことを忘れるからです。」
私達は資本主義社会に生きています。
資本主義は、市場原理においては最も最適な主義であり、経済を回す上で、自由経済であることは国を豊かにするためにも必須です。
(政治と経済は別物で考えた方がいいです。政治は性善説的に、経済は性悪説的に考えましょう。)
それと同時に、「搾取されない生き方」を選ぶ必要があります。
その時、ブラック企業に就職したとします。従業員を安月給で働かせて、殴る蹴る。その行動を「不快を乗り越える」などといって、疑わず、ずっとそこで働く。それはいいことでしょうか?違いますよね。
この時は転職するべきなのです。
人権と平等が重要である理由はまさにここにあります。
強い上下関係に繋がれると、スキルアップなどの「機会」を失い、無駄な期間を過ごすことになります。正解が一つしか固まっておらず、それも意味のない行動ですから、やる必要がない。そのような答えを出せない恐れがあります。
残念ながら、性善説の戸塚校長には耳が痛い話かもしれませんが、資本主義社会とは正義で語るのではなく、公正と競争であり、目の前の企業を叩き潰す感覚じゃないとダメなんです。
強い正義の押し付けは科学的にも危険
リベラルが特に科学的にも優れているのは、多様化を行えることです。
もちろん、害悪をなくすことは必須ですが、思想の一点張りにならないことは非常に優れています。
科学的にも、100人の凡人で考えた理論の方が、1人の天才よりも優れていると立証されています。これは、余人を持って代え難い天才でも、思想が一辺倒だと危険ということなのです。
また、生物的にも、離れている遺伝子と繋がることは、種の多様性に繋がり、存続しやすいです。逆に、近親相姦など、近い遺伝子でつながると、種として弱まることが知られています。
このように、思想の多様化を推し進めることは非常に重要であり、人類の進化のために必要なのです。
まとめ
戸塚さんの考え方が全て間違っているわけではありません。一理あるでしょう。
しかし、体罰という手段は間違っています。体罰をすることは、スポーツなどのスパルタとは訳が違います。思想が凝り固まる原因にもなり危険です。
個人的な感想
反リベラルである、戸塚さんの理論を聞いてみて、これはただの憶測なのですが、思ったものがあります。
彼はただ、戸塚ヨットスクール事件を正当化したいだけではないですかね。
悪いことは悪いことであり、改善するべき点なのです。彼は、その事件を持ち出す度に、
「極端だ」というのです。
しかし、哲学や科学においては、「極端だ」という言葉はただの逃げです。
なぜなら、そこには普遍的な法則がないからです。いわば、都合が良い。
本当に優れた教育者であるなら、そのための対策を事前に考える筈なのです。それを
「生徒が弱い」 「ミスをした」
で済まされるでしょうか?人が死んでいるのに。
私はそこに非常に大きな違和感を抱きました。
ただの、言い訳に聞こえたのは、私だけでしょうか。
