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icomiのブログ

また始めてみたブログ。以前のブログは最初の記事にURLがございます。
せっかくなので、徒然なるままに、日々の出来事や思いなどを書き残していきます。人様に見せるより、自分の忘備録です。

寄り添い損、ふとそんな言葉が頭をよぎった。

痛みに寄り添う、悲しみに寄り添う、患者に寄り添う、弱者に寄り添う。

人を癒すのは共感力であると感じる機会は多い。悲しみや痛みは直ぐに癒える事は無いものの、誰かに話したり聞いてもらったりする事で、ほんの少し心が軽くなったり、ひと時その辛さから解き放たれる事がある。

若い頃にはさして気にする事もなかったこの「共感」という心の動きを、近頃は人が生まれ持って備えている大切な能力だと感じるようになった。そして同時に、色々な場面で活用(という表現が相応しいかどうかは疑問だけれど)している。

共感は相手からも共感を引き出し、自分をも穏やかな心持ちにさせる事もあるのだ。


ところが、である。我が夫には共感力というものが備わっていないらしい。

共感の前提には想像というものが必要となる。想像できなければ共感もできない。

相手の気持ちを推し量る、それが難しければ相手の状況を自分に置き換えてみる、もし自分が同じ目に遭ったならどんな気持ちがするだろうか、一呼吸おいて考える。

心を持っている生き物ならさして難しい作業では無いだろう。


私はもちろんのこと、夫の両親も高齢である。健在ではあるものの、齢80を超えるご長寿さんであるので、日々何かと気にかかる事もある。

しかし夫の仕事も色々と複雑な展開を見せる場合がある。会社の置かれた状況を思えば想像に難く無い。夫も色々と大変なのだ。

私は日々、夫の言動や顔色などから心持ちを推しはかり、できるだけ穏やかに家庭生活が送れるよう配慮している。偉そうに聞こえたら本意ではないが、そうすることは苦ではないし、押し付けるつもりもなければ恩を売っているつもりでもない。縁があって家族になったもの同士、相手を思いやり労わりあうのは自然の事のはずである。内側から湧き出る何かによって自然とそうなるのだ。


しかし今日、それがバカバカしくなってしまった。

些細な事と言ってしまえばそれまでだが、人の気持ちと言うのは複雑なのである。

今日は待ちに待った夏旅行の初日である。夏旅行といってもそんじょそこらの夏休みとは訳が違う。現在の職場に奉職して4年、ようやく取り得た一週間の連続休暇なのだ。我ながらよく4年も辛抱したものだと思う。(この一行に込められた意味はとても深い)

行き先の選定から日程の調整、移動の手段などなど、数ヶ月もの長い時間をかけて調べ、手配をしてきた。旅行中の服装も、ああでもない、こうでもないと一週間分の組み合わせを考え荷物に詰め込んだ。待ちに待った旅行がやっと、始まったのだ。初日は当然、お気に入りの服を着て自宅を出発した。

そんな状況の中、目的地に向かう飛行機で、酔っ払って眠った夫は子供のように手足をばたつかせて寝返りをうった。およそ大人らしくないその動きは、呆れながらも日々許してきたそれである。私にも責任はあるかもしれない。

バタバタさせた夫の腕は、私が飲んでいたコーヒーカップを見事にひっくり返した。冷めていたので火傷はしなかったが、私が座っていたシートを濡らす結果になった。当然ながらシートに触れている私の衣服もコーヒー色になってしまった。

お気に入りの、イタリア製の、薄いピンク色のパンツと、この日のために新しく買ったシャツは、美味しい美味しいコーヒーをたっぷり吸ってしまった。

他人ならすぐ、お詫びの言葉があっただろうか。夫から発せられたのは「シミ?平気平気、大丈夫。」だった。

何が大丈夫なんだろう。私はこのまま、背中とお尻に茶色いシミをつけたままで到着地のホテルまで移動しなければならない。そして、飛行機の座席をコーヒーで汚してしまったのだから、航空会社さんのお掃除も必要だろう。コーヒーには少なからずミルクが入っていたので、その匂いもしている。


事件が起こったその時、頭の中には色々な考えが巡ったが、とりあえずクルーの方に謝り、タオルをもらってシートのコーヒーを拭き取った。

夫は小声で言い訳を呟いていたような気がする。あまり覚えていない。


さて、冒頭の共感力の登場である。

夫にはとりあえず寄り添って欲しかった。せっかくのお洋服なのに汚してゴメンと、その一言があれば、これから先も笑顔で過ごせただろう。

僕の不注意で、と、一緒にクルーの方に謝ってくれれば私の気もすんだだろう。

ほんの一瞬、私の気持ちを考える隙間を作ってくれたなら、状況は全く違うものになったのにと、残念に思う。思うだけ無駄だけれど。

同時に夫は日々の暮らしの中でも私が自然としているような相手の立場に立って思いやるという事を全くしていないという事に気付いてしまった。していない、しようとすらしない、だから、できないのは当たり前。(当たり前だから許されるわけではない、念の為。)

だからこそだ、時々「嫌だなぁ」と感じることは全て、想像と共感の欠落から発生していたのだ。夫の生活は自分の気持ちを優先することのみで進んでいるのだ。今まで気付かなかったとは、我ながら不覚だった。


寄り添い損。

損という単語にあさましさを感じる。あぁ嫌だ。しかし、ふと浮かんだこの言葉を心の中で咀嚼して文章に書いたことで、またひとつ自分を納得させる事ができた。夫との結婚生活は分析と理解の連続である。所詮は他人、生活を継続するには努力が必要ということだ。努力のし損にならない事を誰に願えばいいだろうか。まだまだ山は高そうだな。

期待は落胆のはじまりはじまり。おしまい。