Allegro ma non troppo -留学日記-





無事卒業証書もらいました。学校のラボの鍵を返したらデポジットの$25が返金されたので、久々に外でランチしました♪


とりあえずカリフォルニア大学アーバイン校での学業は修了。


大学院のミシガン大学への引越しのために少しずつ荷物の整理を始めています。

アナーバーは文化の町、けど冬は平均マイナス10度。がらっと生活がかわりそうです。

最近、心の内に大好きって気持ちが溢れている。

周りに大好きな人がたくさんいるからだ。

こうして周りを見わたすとこんな私にすごくよくしてくれる人たちがたくさんいる。

たくさんの人が私に笑顔を向けてくれること。

毎日生きていけること、笑顔を周りに見せることができること。

それは本当に私の周りを取り囲んでくれる人達のおかげ。

その人たちに大好きっていいたい。

でもそれって年をとるたびにむずかしくなってくる。

子供が○○だーいすき!ということは本当に無邪気でかわいい。私も好きだよって素直にいえる。
その言葉に裏表はないからだ。

しかし、24の私が食べ物や趣味ではなく人に対して、○○だーいすき!なんて無邪気に言っても同じようにはとってもらえない・・・と思う。

むしろその言葉には色々な意味が含まれているように感じるし、私の同世代だともう結婚している人もいるから、

下手にそんな発言をすると問題になりかねないw好き=付き合ってくださいみたいに聞こえてしまう。

でも仕事場や、友達づきあいの仲で憧れたり感謝したり純粋に一緒にいるのが楽しかったり

そんな人達にただ一緒にいてくれてありがとう。というのはなんとなく物足りない。

たとえばすごく良いアドバイスをくれたり聞き上手な先輩がいて、すごく好き。

尊敬して、感謝してるし、憧れててあんなふうになりたいといつも思う。

それは恋じゃない。でも好きということはかわらないから好きっていいたいけれど

その言葉をいったらたぶん僕は結婚してるから・・・とか返されそうだな。

大人になると好きと言う言葉に色々な意味が含まれてしまう。

相手に好意を持っていることをストレートに伝えることがだんだんできなくなってしまう。

それでも大好きって皆に言いたい。恋は今はしていない。

でも好きっていうのは正直な気持ちだし、

大好きな人を思うと心に喜びが溢れてくる。

好きって言葉がどうして大人になると重荷になってしまうんだろう。
今日は25日です。

今年はいつもになく静かなクリスマスです。

いままで研究で忙しかったからか、クリスマスのことは全く考えずやっとクリスマスになって
朝からコーヒーを飲んでホッとしています。
アメリカはクリスマスは恋人同士ですごすというより家族で過ごすという伝統があり、
皆早々にクリスマス休暇で実家に帰っていきました。25日は90%のお店が閉まっていて、本当に家で過ごすのが当たり前なんだなーなんて納得します。

今年は11時からの教会のキャンドルサービスに行ってクリスマスを祝いました。
こうやって一人でいるのもすごく寂しいクリスマスになるかな・・・と思っていたのですが、
今までの怒涛の忙しさに自分を見失っているふちがあったので、こうやって一人にずっとなりたかったのかも。
案外寂しいというよりはほっこりした幸せ感を感じています。
そもそもクリスマスはひとりだといけないなんてことは全くなく好きにすごしていいものだったのです。

一人でぼーっとして研究のことを考えずに散歩したり読みたかった本を読み終えたり、洗濯をしたり
まったり出来ました。

私は答えを求めよう、求めようと走り続けてきたことに気づきました。
こうやって一人でぼーっとすることすらもったいないように感じられたのです。
常に何か新しい情報に触れていないといけないような・・・そんな錯覚に陥って、でもそれが本当だと信じこんでいました。それは自分でも気づかずにすごく負担になっていたようです。

人はどこかで必ずネジを緩めないといけない。
そんな当たり前の事にようやく気がつきました。

それはどんなプレゼントよりもかけがえのない大切な気づきに思えて。
そんな機会を与えられたことがなによりのクリスマスギフトだと感じられたのでした。
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