3月22日付けのNHKニュース7を出先で見たのですが、なかなかぶったまげました。飯舘村のため池を根本復興大臣が視察したニュースなのですが、ため池や農業用ダムの底の泥から国の基準値を越える値が多くの場所で検出されたと繰り返すばかりで、厚労省は水自体は基準値以下と言っていますとフォローは入りますが、肝心の検出された数字が出てきません。思わずテレビに向かって「数値を教えろよ!」と叫んでしまいました。
 4月1日の消費税アップニュースでは、更に「子供が駄菓子の価格が上がって戸惑ってる。年寄りは更に生活費を切り詰めなければならない。庶民が大変だ大変だ!」
 これって報道と言えるんですかね…。年金の財源確保や、将来世代への債務を減らす為という文言が出てきた覚えがありません…(もちろんこれも一面的な見方であり正しくはありませんが)
 4月21日のは、また香ばしく、政治的中立を訴える立場から自治体が市民活動の一部に対する後援を打ち切っているという内容。後援とは「催し物の主催者に対しチラシに自治体名を記したり、公共施設に置くことを認める」と前置きしていて、出てくる団体が9条の会やらばかりで、どう見ても「自分達の仲間の活動を制約しようとしてる、許せない!後援くらいケチんなよ」と主張しているようです。冷静に見ると特定の政治思想に肩入れしないという自治体の対応は、それなりに納得できるものなのですが、専門家と称する謎の御用学者が出てきて「色んな意見があってしかるべきだぁ!議論を沸騰させよう(自分の好きな方向にもって行きたいの意味)」と綺麗事を並べ立てます(へぇ、暴〇団の主張とかも自治体が後援しろってか…)。そして、そうでない自治体もあるとして、市民団体にホールを貸している例を紹介し(もちろん御多分にもれず9条の会に貸した例)、自治体担当者が「貸してと言われたら(法律上)断れないので」と話す場面。え?!後援とホール貸しで話違うじゃん!と…

 まぁNHKなんて、そういったやり口の常習犯であり、冷静な数字を折り込まない「危険だ危険だ」と繰り返すばかりの科学的“風”原発報道や、被災者を出汁にした感情論に任せた福島は危険だ報道(冷静な数字や統計データを示してそこまで危険じゃないよと教えるのがNHKの役割じゃないのか?)、市民団体の訳の分からない抗議運動を一生懸命報道したり、専門家の意見と称した謎の団体の代表の話を放送するので、何も驚く必要はないのかもしれませんが…日中友好を促すニュースではお題目のように、「日本政府が尖閣諸島の国有化を進めて以降冷え込んでいる日中関係。」という文言で始まり、「中国側からは友好を呼び掛けている」「関係改善が望まれます」という内容の焼き直しループ。へぇ~、尖閣の国有化は中国の暴走とは何も関係なく勝手に日本政府がやったと。それ以前は日中関係は良好であったと。よくもまぁウソをぬけぬけと…
 先日のNHKスペシャルも福島第一原発の事故処理の現状の合間合間に子供が感情論を語る場面を挿入して、何をしたいんだか分からない頭の悪い長めのサブリミナル映像みたいなものを流していました。
 一方、二月近く前ですがBBCで「放射能は本当の殺人者なのか」的なニュースを流していました。内容としては、原発事故から3年を迎えた福島からの報告で、(私は語学が苦手な上に、当該動画を見てから少し時間が経っていますから、解釈や内容に間違いがあるかも知れませんが、お許し下さい)初めは小児の健康の調査をしている福島の施設からの取材で「チェルノブイリを見ていると不安で…」と話す母親に対して、ナレーションが福島の事故はチェルノブイリと比べるべくもない程度のレベルであると断じ、その後、お墓参りをする女性や福祉施設での「無理に避難した事で亡くなられたお年寄り」の体験談を挙げ、“放射能は本当の殺人者なのか”と。
 別にBBCが何もかも正しいと言う気はありません。特に尖閣の報道に関しては「日中が争っていて、今こういう状況にある」という報道が中心で、日本の立場と断りを付けてから日本の領土であるという説明は付くものの、尖閣は日本のものであると断言はしませんし、中国の主張のおかしさと無謀さにはさほど言及しているようには残念ながら思えません。ただ、日本のメディアの頭のおかしさや軽薄さと比べて、少しはまともだなぁと羨ましく思ってしまうものです。

 さて毎度ながら、左巻きの人々が福島の人の為と称し「福島は危険だ」と叫べば叫ぶほど、福島の方たちの首を絞めている事に、ただただやり場のない怒りばかりが沸くのです(あたかも自然界には放射能は存在しないかのように装い、感情論で基準値を出来るだけ引き下げさせようとし、出来た基準に対して訳もなく信頼出来ないといい、その低い基準に照らし合わせて、基準より高いからとにかく危険だ!という扇動…)。
 もちろん、危険なものは危険であると言わなければならないのは当然です。しかし、放射能や放射線の人体に対する影響に関する科学的な知見は決して少ない訳でなく(十分ともいいませんが)、放射線量や放射線率の違いなど平気で無視し、金と思惑と視野の狭い勝手な思い込みで動く彼らに嫌気ばかりを感じるのです。

 世論調査も同様に、「原発再稼働に賛成ですか反対ですか」という問いに対して結果は必ず反対が多いわけですが、そりゃ私も無闇に原発を賛成はしたくありませんから反対と言いたい気持ちはあります。しかし、
・中東情勢次第でホルムズ海峡が封鎖された場合はどうするか?
・途上国の経済発展に伴って激化する化石燃料の争奪戦にはどう備えるか?
・地球温暖化の対応策はどうするのか?更に、再生可能エネルギーを始めとする代替エネルギーは果たして現実的なのか?(反原発派のカードとして核のゴミの問題がありますが、火力発電のゴミである二酸化炭素と比べてどの程度の問題なのか問われているのでしょうか?)
・貿易赤字への影響と対応策は?
・資源を更に他の国々から買うことによって、政治的問題はさらに増えたりしないか?供給が途絶えた時の対応策は?(ロシアからガスを買おうとしても、今のウクライナ情勢とそれにたいするヨーロッパ諸国の対応とかを見て何も思わないの?)
・アメリカの工業が最近盛り返してきた一因として自国でシェールガスが安く供給できるようになった事があるわけですが、つまり産業にとってエネルギー価格が競争力に大きな影響を与えるわけで、原発を止める事に対しての経済影響はどうするの?
 そういう問題の複雑さと根深さを引っくるめて、原発を選ぶのかが問題な訳です。もちろんこれら全てが原発再稼動により単純に解決する訳ではありませんし、原発には違う問題があるのは事実ですからもちろん単純ではありません。
 世論調査でそれを一部でも調査対象に伝えたのでしょうか?
 更に、問いを狭い範囲のAかBかに限定してそれしか答えさせない(場合によってAとBは実際には対立しない不可思議な設定だったり…)、あからさまな誘導をする、恣意的に結果を取り纏める…
 私が「今回の原発事故の大きな要因に、GEから導入したばかりで日本の環境に適応出来ていない設計の古さに問題がある。故に、今回の教訓を生かした新しい設計の原発に順次入れ替えるのがよいと思う。」と考えていたらどう答えればよいでしょう。
そういえば、以前に毎日新聞の電話世論調査を受けたのですが、それは少なからず違和感を覚えるものでした。
 まず、
「以前に毎日新聞を購読した方にお電話をおかけしました」
「年長者の方はご在宅ですか?その方にお答えいただきます」という制約。

 更に、質問に対して毎日的模範回答をすると電話口の方のトーンが少し上がり、逆の回答をすると機嫌が明らかに悪くなるという不思議さ。

私を誘導しようとしているのか、それとも既にシナリオが用意されていて、その数に合うようなノルマを電話口の人に課せられているのか。なんなのか

 その時期単に様々な新聞をとっていたに過ぎず、あれ以来電話がかかってくる事はありませんが、あの時どの質問にも毎日的模範回答をしていたのなら、それ以降頻繁に電話がかかってきたりするのでしょうか?
 覚えている限りでは、あからさまな誘導こそなかったものの、そのデータがどう集計され記事にされているかも疑念は消えないですし、何とも後味の悪い電話でした。


 さて、左巻きの人々の狡猾さとして無垢な子供を出汁にして、子供がこんな苦しんでるとか、高校生辺りに一生懸命スピーチさせてる姿が印象的です。実際には自分達の言わせたい事を平気で洗脳させてる訳ですが、そんなのはお構いなしのようでして…
 この手法は議題を問わずに行われ、特に防衛関連・原発関連・人権関連で顕著に感じます。
作家や教師などが左に偏るのはある意味で当然の事かも知れません。立場上、現実的な社会の問題に正面から対応する必要はさほど高くなく、綺麗事を言っていた方が単純に人間関係が楽な上に、教師については子供に対して「みんな仲良く」といった原則を教える事は確かに重要であるからと言えます。
 しかし子供の頃教師が「日本が戦争を起こさなければ、戦争は起きません。日本が全て悪いのです」と言ったその口で「どの国の人もみんな平等で同じような事を考えているものです」といった発言、「いろんな立場の人の話を聞きましょう」と言いながら意見を教師の望む方向にまとめさせて生徒に反対させないような下地を作った上で結局多数決でものを決めたり、私は子供ながらに言いようのない矛盾を感じたものです。
 先に言いますが、私は極右は更に好きではありません。左側の人以上に綺麗事に固執しているように感じるからです。
 一方で、右側は正しい事を言っているのは事実だとは思いますが、少しあせり過ぎだと考えています
 残念ながら今の日本は左巻き的な思想を土台にして成り立っているのですから、ちゃぶ台返しの如く全てを入れ替えなどは不可能であり、無理にやっても大きな問題を生むばかりです。少しずつ一歩一歩、進むより仕方ありません。

 さて、左の人がよく繰り出す無知で無垢な人とされる人(実際にそんな人は存在しえるのか?)。無知というのは果たして免罪符になるのでしょうか?
 人がものを考える時、陥り易い傾向というのはあまた存在すると思いますが、その特質の悪い部分を幾つか挙げると「自分の立場にとって都合よく解釈しがち」であり「複雑な現象の積み重ねである現実を正確に観察する事など不可能で、主観によって見たいものをより分けて見ようとする」、「イメージでものを考え、知らないものは存在しないのと同様であり、それをあたかも知っているかのように振る舞ってしまう」、「理想的条件下における関係性ばかり想像し、複雑な関係性を無視しがちである(物事の本質や問題というのは大抵、境界である際(きわ)で起きたり認識される事が多いものです。)」等々…
 その一方で数々の経験に裏打ちされた“勘”というのは素晴らしい洞察を備えている場合も多くある訳ですから、勘という言葉の重みをもう少し考えてほしいものです。
 往々にして、左の人々は今までそのテーマについてさほど考え抜いたり、知識を蓄えてきたわけでもないのに、ひとたび関心が集まるようなテーマが現れると、今までさも考えていたかのような態度で綺麗事で固められた薄っぺらな中身を堂々と語る姿が印象的ですが、これはつまり、「後から批判する行為は単純な作業である事に気付かず、その思考の過程を顧みる事はない」という条件によって生まれやすい態度と言えると考えています。これにより自らの万能感と自らが正義であるという錯覚が生まれやすいからです。この環境はマスコミ全般にも言える事で、現在の多くのマスコミの問題点の根源になっているものと考えられます。

私の以前の記事にも「議論したい」という言葉を軽々しく使った覚えがありますので、反省しなければならないかもしれませんが、
「議論したい」と文末に付く時、本当に議論をしたいと素直に思っていない場合、“とにかく自分の思うような方向性へ導きたい”或いは“意見を言い合うのは良いことです”という綺麗事のどちらかを意味する事が多いようです。
前者は棄て台詞のように自分の主張を押し通す事しか考えていません
後者は人々の意見の多様性について焦点をあてていますが、どう意見を集約していくのかについては不明確です。
 とにかく意見を表明する事が大事だという風潮がありますが、知らない事を知らないとはっきり言える事も大切だと私は考えますし、
99%の冷静な議論と1%の感情論、99%の現実論と1%の理想論、このあたりが現実社会をスムーズに回していく為の落としどころと言えると考えます。
 議論というのは、対立する二者がここにいた時、まず議題の確認、共通認識の確認、言葉の定義の確認、意見の食い違う点の確認、そして妥協点をどこに見いだせるかと進み、議論をまとめていくわけですが、
 私は現実の外交が現代においても、軍事力を土台として経済力がその上に、政治力がその上に成り立っていて、それらのパワーのバランスによって世界が動いていると考えていますが、この事に対する認識とあまりに意見の隔たりの大きな人とは私はまともな議論を行う事は多分に困難に思えます。実りある議論をするというのは、それほど難しい行為であるという事を改めて認識しなければなりません

 最後に私は今の安倍内閣はかなりバランスを見ながらも日本を正しい報告へと導こうとする姿勢は概ね評価できると考えています。
ただ、経済財政諮問会議や産業競争力会議において、人を安く使う事にしか能がない、デフレ型の経営に特化した経営者ばかりが重用されているのは甚だ疑問です。
ものを生み出すのではなく、物や人を右から左へ仲介する人が中心に集まり、移民容認を中心に労働者を安く買い叩く事で儲けて、数十年に何が起きようと知らぬ存ぜぬ…しかも、それを行った欧米の惨状を無視して。
 これを倫理感も矜持もない金の亡者の戯言と断じて何がいけないのかが分かりません。
  物事とは基本的にトレードオフであり、一つを得ると知らないうちに一つを失っている事もよくあるものです。しかし、文化がそこに善悪の価値基準を与え、イメージという先入観によって、均衡する位置を収束させうる。時代は変化し躍動するが、根本は何も変化していないのではないかと。
 人とはどのようにモノを考え捉えるのかを調べ考えると、それは意外なほど、単純化であり理想化の上に成り立っているのかを思い知り、愕然とするものです。そして、個人としての人は、物事を見たいようにしか見る事が出来ず、似た考え方の人間同士で結び付き、世界の認識は矮小化して行きます。
 世の中は多次元の複雑怪奇な空間であり、それが互いに相関していると捉えた時、人々はそのうちの1次元、頑張っても2次元程度の相関しか選び出さずに(上記の「トレードオフ」も2次元ですがね)、論ずる。1次元とはつまり、「これがイイ!」「あれが悪い!」または「AはBに比して数値がより高い」という数直線的な空間での議論、2次元とは1次元よりは実態に近いが平板なボードに書かれた、まさに薄っぺらな表面的な相関を取り出し論ずる議論を指す、しかも大抵は2次元であろうと1次関数的な単純な相関関係しか見出だせない。そして、我々には多次元空間を直接見通すような能力はなかなか持ち得る事は難しいのでしょう。
 例えばそれは、お金の多寡によって世の中を評価し理論化して行く事などですが、「目の前にあるペン先を研いでもらった3万円の万年筆」、「東京から大阪への旅行代金の3万」、「吉原での3万」、「設計から製作まで自分の手で行った総制作費3万円の謎の物体」を金額という同じ価値基準で語る事が、少なくとも私の足りない頭では、どんなに考えようとも不可能なのですよね。一般に経済の基本的な原則として、いかなるものでも需要と供給のバランスなどに応じて価格が決まるというものがありますが、大筋は無論否定しないものの、その論理が成立する前提条件の範囲は驚くほど狭いのではないか?つまり、少しでも異常な事態になれば、所詮なんの役にも立たぬ理論と成りうる…かなと。
 私は、東京には“都会としての東京”と“地方(田舎)としての東京”の側面が存在すると考えており(行政区で分割して都会部分と地方部分に分けるなんて浅はかな話ではなく、表裏二面性という話です)、もちろんその2つは単純に分かつ事が出来る訳ではありませんが、東京の場合マスコミなどで恐ろしいくらい“都会としての東京”ばかりがクローズアップされる現状に恐怖の念を抱くのが現状です。東京生まれ東京育ちの私から言わせれば、「過剰に東京をオシャレに飾り立てて取り上げるのも、東京のやり方を他の地方に無理に押し付けたり、東京でのモノの見方で他を評価するのもいい加減にして欲しい」のです。東京を過剰に正当化したいのは、大抵余所から移り住んできて、元居た街から来た事を無理に正当化し、商業主義的な価値基準でしか世を見ぬ、哀しき人達の戯言だと私は勝手に思ってますよ。私は自分の街に誇りを持ちながら、悪い部分を素直に認める事をよしとしたいのです。
 「ステキなあの街」の裏にだってステキじゃない部分が山のようにあり、更にその“ステキ”の定義が人により大きく異なる上に、冷静にその街を観察すると、目立ち易いステキな部分と陰に隠れたステキじゃない部分の両方があってこそ、その街が成り立っている事は容易に想像出来るはずですが…もちろん、私が大阪に住む事を考えた場合、憧れの阪急沿線に住みたいと考えるでしょうし(実は私は阪急大好きでたまらん人間なのですが)、奈良・京都に異常なまでの文化性を求めたりしている自分を思うと、結局「東京の田舎者」から見たらその程度にしか他所を観察出来ぬのだなと落ち込むものです。
 「東京DEEP案内」「大阪DEEP案内」「日本DEEP案内」、各所の裏の部分、ドヤ街の実体など、面白いので参考にどうぞ。私の暮らす街もこてんぱんに言われていますが、事実ですから何も思いません(笑)。
 私は東京の新下町2地域・新興住宅地域他に暮らした経験があり、それが故にインテリやらプチブルやら、正反対の所謂DQNやらおバカな人々と触れ合う環境に居ましたが、結局新興住宅地域の清潔一辺倒さには息苦しい思いをさせられ、ホームレスのオッサンと交流していたり、逆に下町地域の濃密な係わり合いはそれはそれで息苦しく、ただ人々の欲望を飾らずに受け入れるその姿勢が非常に気に入っています。まぁ私なぞはみ出しものに違いないのですから、別にどーでもいいのですが、こういう経験のない人は結局自分の生き方の中からしか他人の生活は観察できないという事実にも気付きにくいのでしょうね。尾籠な例えですけど、人だって動物ですからウンコくらいしますし、だからこそ生きている。ただ、臭く汚いのも事実。ノーブルを称する人々はウンコを無臭やいいの香りにしたり、いかに清潔なウンコを出すかに精を出し、その努力をしない人間を下品といって蔑む。一般人はウンコが汚く臭い事を受け入れながら後始末に終始する。主義を振りかざすヒステリックな人々は「人がウンコをするという事実」を受け入れず、歪みを生む。どうしようもない人はウンコが汚い臭い事を利用して、他人を巻き込みながら生活をする。一部にはウンコの臭いを好む猛者もいる…世の中、こんな感じかな?
 結局相手の生き方なんて理解出来ないし、理解しようともしない、更には馬鹿にする。みんな素直になれないものかなと…ウンコは汚く臭いけど、だからこそ生きているという事実に立ち返りたいなと。

 さて、「今」という時間は我々にとって確かに特別な存在で、今という時代にあぐらをかく事で自らに自信を与えています。しかし、「今」というのはそれ程“エライ”のでしょうか?逆に今が“エライ”とするならば、いつの時代の「今」もエライのです。その積み重ねである過去は顧みるべき対象であり、我々のアイデンティティーは過去なくしては語れないはずですが、現代の風潮として特に“科学的価値観”とも言うべき不思議なモノが跋扈しています。科学とは価値観を捨て去ったが故に客観性が高く、だからこそ現代社会の中で大きな支持を得てきました。しかし、いつの間にやら“科学的”という価値観が何処かより現れ、なぜかその知見の多さ深さが価値尺度となり、より未来が正しいという概念が定着しました。しかし、そんな保証はどこにもなく、科学は比較的客観的と思われる事実を着々と提供はするが(この客観性の評価はそんな単純なものではないでしょうけど)、それだけなのでしょう。私も理系人間の端くれとして、科学の将来性には非常に期待をしていますし、科学という大いなる眼鏡により論理的に客観的にモノを捉える事に価値を感じますが、それ自体に哲学はないと考えています。だからこそそれを扱う人間には、単なる感情や論理を越えた支配が必要になると思うのです。
 結局均衡点や視座の変化により、過去より優位に居ると感じているだけであり、それに気付かず、過去より未来が正しいと単に信じているなら、我々もまた未来人に嘲笑われるだけなのでしょう。
 人はなぜか「その考え方は古い」などと、この複雑な多次元空間の世の中から今の時代に合った(少なくともその本人にとって合っている)1次元・2次元空間を取り出し論ずるものです。そして多次元の存在を忘れる、または忘れたふりをするものです。
 人々は1次元や2次元空間の中で罵りあい、思考停止し、ついにはある1次元の指標を元に判断を行い、世の中は歪み、また環境変化が襲い均衡点が変化する。そして新たな1次元の指標を求めてさ迷い、新たな価値観を標榜し、「時代は変わった」と高らかに叫ぶ。時間ともにその指標が絶対となり歪み、繰り返す。
 時々、「昔の人なのに凄い…!」という言い方を耳にする事がある。馬鹿野郎、昔の人だから凄いのですよ。例えば、雨は多くの現代人にとって単なる“雨”でしかなく、降水量という基準が基本となり、うっとうしい存在と捉える人も多い事を感じます(私はシトシトと雨の降る日はウキウキするのですが、どうやらかなり異端のようです)。しかし、古に於いて雨は季節によって分けられ、そこに情緒を感じ、農作業の時期の参考などにしたらしいわけで。現代人と古代人の眼には同じ雨が全く異なる次元の価値観で語られ、低次元の価値基準からは高次元のモノの見方を推し量る事は不可能である事を思えば、如何に現代人が今にあぐらをかいているのかと…

 先頃まで、震災と戦災を重ね合わせて論じる動きがありました、それはもちろん戦災により多くを失った日本が奇跡的とも呼べる回復をし、経済大国となった事実をまた再びという気持ちはわかります。しかし、少し立ち止まって考えて欲しいのは、戦後我々が歩んだ道は本当に正しかったのか?それを本来的に問わなければ、震災後のこれからの日本を考える上で正しくないのではないかと思うわけです。
 もちろん、労働人口そして人口自体が本格的に減少すると予想される今後の日本において、目の前に立ちはだかる諸問題の多くを現実的に解決に導くのは安定的な経済成長だと考えられ、それ自体は是非とも達成しなければ方策の一つなのだと私も考えています。
 しかしながら、戦後日本人は、戦前を全否定したかのように振る舞い(または戦争によって連続的な時間の流れを単純にぶち切る)、生きる事そのものを最善の価値として疑わず、金に捕われ、時間という価値への過度の偏重、計算出来ない失われた価値を無視し…さらに日本という国家に対する卑屈を是とした思想を蔓延らせたのであると考えたならば、なぜ我々の戦後の価値を無批判に礼賛されようかと。
 誤解されないように、補足しますが、生きる事とは主張であり、死ぬ事も一つの主張である。しかしながら生きるという行為は意外なほど簡単に絶たれる場合がある。つまり、他人が人の命を奪うのは許されぬが、主張の為には場合によっては自身を死に至らしめる行為は可能であり、またその死の願望のいかんに関わらずとも、死者の思想を我々は総体として真摯に受け止めなければならない、という考えが私にはあるからです。つまり、生きるという事は必ずしも最善の価値ではなく、場合によっては大儀が優先される。勘違いしないで頂きたいのは私は自殺を礼賛するつもりはなく、あくまで「生きていれば何をしても許される」というような生の前提に対しての問いだと言う事です。
 もちろん過去を忘れないというのは大きな問題を孕む場合があり(失われたものに対してマイナスの価値評価を行う事でそれを取り替えそうという動きにより)、それが戦争などを生む思想へと転嫁する事があるわけで、逆に言えば戦後日本は建前として戦争を忘れた(もちろん本質的には忘れていない事は安保闘争という形で表現されているかとも言えますが、戦時の熱狂が形を変えただけかもしれませんがね…当時の生々しい感覚が私のような若僧にはわかりません)事で復興と経済成長を成し遂げたという視座も成り立つのも事実だと思いますけど。つまり、前提としての戦争体験があり、その上での平和の主張は当然かもしれませんが(といいつつ、戦争体験と行っても一様ではなく、戦地へ赴いた方と国内にいた方では戦争に対する意見がまるで異なる事もよくあるものなのですが、我々世代の受けた「平和教育なるもの」はこの辺を一緒くたにし、ある利害関係者が望むべく結果へと誘導するような形へと仕向けられていた気はしてますよ。当時の現実的な脅威を知らずに、知ろうとせずに、子供がしたり顔で「戦争はよくありません!」なんて言っているのを見る度に、何なんだろう…と考え込んでしまうのですがね…)、前提を無視した、理想化された形での理解は、嫌悪も美化も正しくないと考えています。気持ちは分からないでもないですが、原発と原爆を一緒くたに語る事は明らかにミスリードだと思いますし、震災後にしか焦点を当てられぬメディアは如何に不思議な存在であり、例えば「命を大切にという言葉の乱用」によって失われた命、避難誘導をし亡くなられた方々の価値感を踏みにじっているようにも見えてしまうのはなんとも…

 いつの時代も世界は混乱を内包しているものですが、昨今でも各所でのデモや暴動、自然災害、民主化運動、紛争、貧困、金融戦争、国威発揚による軍拡、サイバー攻撃…
 現代日本人の多くは何故か「国連」の存在を絶対視し、その権力の中立性に過剰に期待する向きがあるようですが、国連とはつまり「United Nations」、連合国に端を発するが故の歪みが今も内在し、近年の行動に於いても偏向的なイデオロギーを過分に含む事は明らかで、さらに今後も理想とは裏腹に(本来的に理想の在り方自体の齟齬、理想の実現に於ける方法の問題等)、如何に自国に有利なように誘導するか、国同士の威信がぶつかり合うわけです。これがいつの時代も変わりないのは過去を見れば自明であり、将来に於いても引き継がれるのは当然で、今後一層混沌とする可能性も捨てきれません。残念であるけれどこれが現実であり、その中で我が日本はいかに行動すべきか、これを考えるより仕方がありません。また、多く国は善意には善意を持って対応して頂けるのは間違いないと思うのですが、善意を仇で返し相手の資源を全て吸い尽くそうと考えたり、他国を貶めれば自国が相対的に浮揚するという思考を持つ国は少なからず存在し、その対応にも迫らています。

 さて、今回の震災における数々の問題点の考察において文明論、科学技術指向主義の限界を露呈したと考えるのもよいのですが、文明は科学技術の発展による近代化によってより高度となり、その科学技術の発展の為に推し進めた安易な資本主義のそもそもの問題、さらに資本主義と親和性の高い民主主義に愚はないのか?と考える必要性を感じます。いや、例え民主主義自体が高尚なシステムであるとしても(参照;アローの不可能性定理)、民主主義も腐敗するという事実(国民・マスコミ・政治家…の堕落)を受け止めなければなにも始まらないと思うのですよ。また歴史を見れば民主主義とはあくまでベターな選択に過ぎず、「民主主義さえ実現すれば世の中が良くなる」という思想が如何に危険かという事にも目を向けて欲しい。逆に今の日本は世論調査が頻繁に行われ、庶民の思いを繁栄せよという動きと、政治家をまるで信用せず当の政治家は衆愚の音頭取りに終始する現実は、“行きすぎた民主主義の弊害”に他ならないという視点は世の中になぜか少ないのが実態です。何かある度に「民主主義の危機」などと煽る皆様、あなたは民衆の一握りに過ぎず皆が同じ事を考えている訳ではない事に気付いて下さい、そしてあなたの市民感覚なるものが正しいとは限らぬことを。まじめに、「行きすぎた市民団体の行動を抑制する市民団体」でも立ち上げようか?なんて思うくらいです。世論を正当化するひとつの根拠として、「やってみてダメなら元に戻せばいいじゃないか」という主張がありますが、世の中一度失われると二度と復活出来ない存在なんてごまんとある事を本当に知らないのか?と問いたくなるものです。その責任感が政治家・国民共に本当にあるのかな・・・?
 物を作り、機能させる時、世の中を支配する物理法則に逆らう設計を行っても上手く行く事はないでしょう。そこで、その物理法則をよくよく理解し、経験を重ねて、無理なく設計製造し、常にメンテナンスを欠かさずに行わなければなりません。
 主義主張の中身には「目的」と「手段」、そしてフィードバックという関係性により「目的と手段」の両方を持ち得る存在があると私は考えています。しかも人々は思考停止と共に次第に目的と手段がごっちゃになり、また言葉の上では同一でも中身が次第に変質していくものです。
 「グローバル化・開国=善」「平等=善」「民主主義=善」「規制緩和=善」「マーケットの判断=善」、…冷静に考えれば、これらはそれなりの条件の下で初めて成り立つ、或いは善という一言では語れぬものであり、いずれも手段が目的として扱われ思考怠惰の現象そのものにも関わらず、至上のものとして扱われるのははっきり言って胸糞が悪く、私には唾棄したい欲求に駆られるものです。
 例えば、平等という概念は確かに素晴らしい。しかし、どんな世の中になろうと本来的に平等になる事はないし、無理に実現しようとすると悪平等になり、また平等というかなり曖昧な定義の差異を利用し、それを食い物にする人間が現れる。平等の概念はいつの間にやら、シンプルな価値基準のものに変質し、多数にとって理不尽な状態となる。
 上記したように、人は自分のテリトリーからしか世の中を見る事は基本的には出来ないが故に、大抵弱者やマイノリティーは放置されやすい。しかしその弱者やマイノリティーが世間に認知されるようになり、平等が叫ばれるようになると既得権が発生し始める。あくまで少数派だったはずの人間の意見が大きな力を持ち、元々の多数派が不利益を被ったり、その既得権を利用する人間が現れる。
 私は、あくまでも多数派は少数派の苦悩を知り寄り添う必要性があると思うし、多数である事が正当性を主張する根拠にはならず、少数派つまり細部にこそ真実があると考えています。しかしながら、少数派が世間に認知された時、少数派が少数派である事を忘れ平等の名の下に、大きな力を握る事に対する危険性についても目を背けてはならないと改めて思うのです。つまり、皆素直になれと…。更に言えば、その認められた少数派が他の少数派の偏見に拍車をかける場合があると言う事を。ある反原発集会で「たかが電気の為に子供達を危険な目に遭わすな」と主張した人がいたらしいですが、豊かな電気によってどれだけの命が救われ、危険が回避されてきたのか全く理解出来ない所が、他の種類の少数派に配慮出来ない、多数派気取りの少数派らしい主張だなと感じました。
 また、グローバル化が叫ばれる昨今ですが、冷静に考えればわかるように、机上で考えるのとは異なって世界は均質な空間や人々がいる訳もなく、ゼロサムゲームとなるのは明らかで(「グローバル化は世界の人々を豊かにするという説」の元々の論文は人や資本は移動せずモノだけが移動するという前提だという話を聞いた事があるのですが、それが誰の何の話なのか、知っている方教えて下さいまし。)、市場原理が完璧な形で実現する事もなく、資本のやり取りの制約はほとんどないのに金融政策は各国に任されるのですから、結局国家間のパワーがぶつかり合い帝国主義的な様相を帯び始めるのは火を見るより明らかだと思うのですが(つまり例えば国防にも力を入れなければならない)。巨大な世界経済の中の各企業の経営者なんてちっぽけですから単純には批判なんてできませんが、既に国内においても国際競争力の維持やアウトソーシングの名目の下、派遣労働などの奴隷労働の内政化は顕著である事を考えると、日本の現実的なパワー(軍事力も含む)に裏付けされた交渉力の低さに余計に唖然と・・・グローバル化なんて言うのなら、国防やサイバー戦争への対応を始め、したたかで狡さを兼ね備えた戦術を如何に用いるかについて語る必要性を思うのですが、なんといいますか「グローバル化はみんなが幸せになれそうでいいね!!」レベルの報道ばかりは寒気が・・・無知をこれ以上さらすのも嫌なので、詳しい方お教えねがいます。

 最後に。最近テレビ取材なるものに2件出くわしたのですが、映像を素材と表現する理由がよ~くわかりましたよ。恣意的な質問と編集、どんなに被取材者がよい材料を提供しようとも(自分で言うか?(笑))、その素材の良し悪しに関わらず彼らが料理するという事をね。カレーに合う人参だって言ってんのに、生で食ってマズイって言ってるようなもんだよ…
 改めてとなりますが、この度の東日本大震災により亡くなられた方々にお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げ、一日も早い復興をなされます事を願っております。
 また、自分の意見を表明する私の行為は普段にも増して言葉を大切にしなければ、被災者の心を傷つけかねないわけですが、言論という行為そのもの、更にマクロな動態を批判しようとすればするほどその危険性を孕むわけですから、以下の文章はあくまで個人的な一考察であり、東京周辺に住むある無知な人間が一般論として書いた事であって、被災された方の心証を害する意図はないという事を改めて認識された上でお読み頂きたく存じます。


 5月下旬、被災地の親族に会って参りました。
 物見遊山にならない程度に、その親族に周囲を案内してもらいましたが、目の前に広がる光景と異臭に恐れおののくと同時に、テレビ画面を通して見た光景がこれほど近くで起きていた事と被災地域においても被害の状況が様々である事を再認識した一方で、私自身に馴染みのない地域を通過した際には「ここで起きた事実」という頭の認識と「瓦礫の山、または瓦礫の片付けられた地域においても、震災前を知らぬが故のゴミの散乱する地域にしか見えぬ」という実感のなさの乖離にも襲われました。

 さて、復興に関して様々なプランが議論されていますが、個人的にはこれらの計画は基本的に地元の人間が計画し、国や自治体は意見の集約と財源の確保にのみ奔走するのが、今後の発展を考えれば得策だと思うのですが(押し付けられたプランはなかなか根付かないと思うので)、ただ今回の震災は大規模かつ広範囲、津波による壊滅的な被害が甚大なだけに、再びの被害の防止を考えるならば、ある程度国が主導せねばならい為、被災地から離れた場所でばかり議論し遅滞しているのは何か歯痒いばかりです。かなり穿った見方かも知れませんが、東北という地のイメージは一般的になぜか「どこか暗く、前近代的であり、辺境の地」として語られる事が多く、今回の政治やメディアの対応もどこかそのような蔑視が見られるように感じるのですよね…いや、民主党の設計主義に凝り固まった思想故の「震災でいくらでも改造できる土地が余ってるのだから、歴史とか人間性とか関係なしに、俺達のやりたい復興プランぶち上げちゃえ」的なものを抜いて見たとしても…
 私は赤坂憲雄氏の東北学に関する知見を指示する人間ですあり、東北というのは奈良・京都・江戸(東京)などの大和民族側・仏教的な思想・稲作文化から見ると辺境に見えてしまうのは仕方ないのかもしれませんし、幕末に幕府側についた影響により明治以後新政府による開発が滞ったという話もあるわけで、そこに豊かな文化・思想があろうと勝てば官軍故の勝者の眼鏡を通したイメージが未だに根付いている事を思うと、なかなか難しいものです。
 いや、誤解して欲しくないのは、私は北東北に由来を持つ人間であり現在東京周辺に暮らしている故、東北について特別思い入れは有るものの必ずしも詳しい訳でもなく、しかしながら当然嫡々の東京っ子ではない訳ですが、しかし東北は当然小さい頃から親しんで来ましたし、また江戸から連綿と続く東京の下町文化圏にそれなりに愛着を持っています。(東京の文化が「都市としての東京」と「地方としての東京」に大別されるにもかかわらず(もちろん解りやすくこの二つを分断出来るわけではない)、大抵の場合、特に他地域から見た場合に「都市としての東京」ばかりがクローズアップされ「地方としての東京」は無視されがちです(個人的には「地方としての東京」は興味深く観察したいと思うのですが、「都市としての東京」の存在は国家としてのマクロな動態把握・経済戦略を描く為には欠かせないものの、文化としてはあまり興味が湧きません(もちろん私も都市としての便益を享受しています)。つまり、巷の短期的な薄っぺらい流行は個人的にはどーでもいいです(まぁこういう流行が蓄積して、やがて文化に昇華するのでしょうけどね)。)
 歴史があり、人がいる、そして交流がある、そこに文化がある。その文化の独自性はその土地の人間が受け継ぎ次第に変化する。そこに誇りを持つ。自身の所属する文化からの偏見は必ずしも正しくはない。
 東北が復興し再び豊かな文化を作り上げる為に、皆が被災の現場に素直な気持ちで目を向け、地元の人・文化を生かした街作りを行う事を基本に考えて欲しいと私は思っております。そして、再び強く歩みを進めて欲しい。
 もちろん、高齢化や地域経済の衰退を始めとした震災前からの課題を含めた数多くの問題は、一筋縄には解決できず、今回の震災によりさらに多くの歪みを生むのかも知れません。
 きっと私の言葉は空虚なのだと思いますが、しがない私が言えるのは、「みんなで支え合おうよ」くらいしか言えません。すみません。
 「私の好きな表情豊かなあの東北にまた出会いたい」。一人の東北由来の人間として、そんな事を考え、その日が来る事を祈るばかりです。


 さて話は代わりまして…
 福島第一原発事故を受け、エネルギー政策に関する議論が活発化しております。しかしながら、その議論には冷静さ・短期的または長期的な時間設定・エネルギー安全保障の問題・電力は経済の大いなる活力である事などの視点が欠如している場合が多々あり、ひどい時にはレストランでメニューを選ぶような感覚で語られる場合さえあり、さらに、擬似科学と思われる永久機関的な発明を歓喜して報道するメディアや、エネルギー源とエネルギー貯蔵媒体をごちゃまぜにするものさえあり(一応私も理系人間の端くれなので、多少科学リテラシーを持ち合わせているつもりでして…擬似科学を手放しで喜んでいるのを見るとさすがにクラクラとめまいが…)、暗算でもわかりそうな無理な自然エネルギー代替論まで飛び出し、唖然とするばかりだったりします。
 まず「脱原発」と“単純に”連呼する方々に言いたいのは、潤沢で安定な電力を享受し、原子力の危険から目を背け、ひとたびトラブルが起きると騙されただの何だの騒ぎ立てて自らの責任を放棄するのは、逆に今回の福島の被害者達に対しても不誠実な態度のように私には映るのですけれど…つまり、自分の身に同じような事がただ起きて欲しくないという利己的な主張にしか見えないのは悲しいかな、主張自体は間違ってはいないのですがね…
 例えば、飛行機事故が起きた場合、「航空業界自体を廃し、飛行機を二度と飛ばすな」という人間がはたしているでしょうか?もちろん「二度と利用したくない」という人間はいるでしょうが、原子力発電所という営業運転に供せるある程度完成領域にある技術(という私の中での認識)であるにも関わらず、その大仰さの割に“電力しか”生み出せないという特質が便益への意識が低くさせ、更にドイツ・イタリアが脱原発の意思を示したのも先の大戦の敗戦国としての意識が垣間見えるのは決して間違ってはいないと考えています。

 さて、論点を整理します。
 今回の事故原因と被害の拡大は原子力というシステムに依存するものなのか、原子力村を始めとする組織の閉鎖的な体質に依存するのか、予測不能な大災害ゆえなのか。これを如何に考えるかによって主張が大きく異なる訳ですが、冷静に考えてみれば、多分どれも正しいのだと思います。
 つまり、残念ながら「脱原発」や「原発推進」で語れる程、物事が単純ではないという事実です。

 さて、フランスやアメリカの原発推進にせよドイツやイタリアの脱原発にせよ、ある程度議論を積み重ねた結果、国策としてのそれなりの覚悟と、電力を融通し合えるシステムなどそれなりの裏付けの上になりたっているのは間違いありません。EU域内であっても電力政策が別である理由はエネルギー安全保障の問題が一つにはあるわけで、何故日本がFBRの開発に力を入れ、J-powerの株買い増し騒動でヤキモキしたのか、そして1941年に我々はどのような行動を取ったのかを今一度真剣に考えて欲しい訳です。
 つまり、極端な言い方をするならば、日本の高度なロケット技術・原発技術は諸外国からみれば明らかに「準核保有国」とも言うべき位置付けである訳で、安全保障の一翼を担ってきた(担っている)のは間違いない事を意識すべきですし、それらのインフラが大きな外交カードの意味合いを持つのは間違いありません(色々規制はありますが)。
 また、再生可能エネルギーは自給率100%であると主張されますが、材料資源や生産技術と生産設備の国内保有がある程度保障されなければ、全世界が自然エネルギーへと傾倒した場合、エネルギーの直接的生産ではなく間接的な設備生産により安全保障が語られる可能性も考えられるなど、出来うる限り抜け目なく考える必要があると思うのです。
 さらに、再生可能エネルギーを拡充するならば、蓄電や送電網強化のコストを折り込む必要性が議論なされないのは不自然であり、「太陽光パネルの拡充でOK、コストなんてそのうち安くなる」なんて理論は、「FBRが大成功して超安全な原発作りゃ問題なし」と言ってるのと同じくらい無責任なんだと思うんですが… 代替可能かどうかを熟慮せず、脱原発を主張するのは責任の放棄と同じであり、原発の反省(この場合事故の反省ではなく原発導入時の反省のなさ)を生かしていないのであり、また再び再生可能エネルギーなどをきっかけとする大きなトラブルを起こす可能性があるという事を肝に命じる必要があると考えています。

 ここまで、あえて脱原発に反論する言説を並べてきましたが、もちろん、科学は使うこそあれ、使われてはならないし、技術は道具に過ぎない存在であると私は考えています。つまり無理に原発技術に固執するのも間違いでしょうし、放射性廃棄物の問題や原発コスト試算の問題などを隠すべきではないでしょう。そして、今回の事故による原発事故の異常さは強く認識せねばなりません。実際、原発被害の凄さは目に余りその影響力の甚大さはむごいばかりです。二度とこのような事故は起こしてはならない。
 そのためには今回の事故を多角化的に検証し、素直に反省をする事が如何にも重要であり、検討違いの反省や批判で歪みを生じさせる事が一番虚しいと思います。
 六本木ヒルズの回転ドア事故の際に、回転ドアの設計思想を知らずに回転ドアを設計したり、その安全管理をできなかった事が大きな問題なのに「回転ドア自体が悪い」というイメージで、全国の回転ドアが無くなっていったのは何処か間抜けに映るのですけど…いや、再度の事故の危険や訴訟リスク、回転ドア設置による利便の小ささを考えれば当たり前でしょうし、一般的に利用者は回転ドアじゃなくても特にそれほど困らないので別に良いのでしょうけど…。

 という事で、個人的には天然ガスや液化した石炭により、より効率よく燃焼し、二酸化炭素を回収する火力発電なんか有望だと思うんですけどね…出来ればメタンハイドレートやら国内産出資源で賄えれば最高ですが、さすがにコスト掛かりすぎかなそりゃ。
まぁ、次世代火力ってあんまりメディアで注目されませんね、なんでしょう…?原発か再生可能エネルギーの二者択一とか頭おかしいんじゃないかな…と。とりあえず20~30年程度はそのような高機能な火力の強化でいいんじゃないかと個人的には考えています。つまり、その間に安全性の劣る古い原発は廃しつつ電力会社などの体質を改め、より採算に載りやすい再生可能エネルギー開発と共にそれらを着実に普及させる事や、さらなる節エネ型社会の構築、次世代のかなり安全な原発や核燃料サイクルやら小型炉・高温ガス炉とかを開発したらいいと勝手に思ってますけど…そういうのじゃダメですかね?
まぁ石炭火力も、石炭の掘削で大きな犠牲を払ってきた事を忘れてはいけませんし、火力は全般的に資源価格に振り回されがちですから、そう単純ではないのもわかっておりますが…

最後に
 正直、私自身、これらの二つの主張の中で大いなる矛盾・不整合がふくまれているのは承知しております。私の中でも未だ思案中、いや永遠と答えは見つからずにさ迷うのかも知れません。公共の福祉と個人の権利との線引きは常に我々に問いを迫ります。しかも、大抵の場合に弱者にしわ寄せがきてしまうのは皮肉なものです。
 震災前・震災後で語られるほどの大きな変化は我々の生活スタイルを本質的に変えてしまいます。マズローの欲求段階説のように、その変化は一時的なもので終わってしまうのかもしれませんが、本質はなかなか変化する事なく人々の中に生き続けることでしょう。今回の震災を通して人々が感じ学びとったことに改めて素直に向き合えるように、そして心身に傷を負った方がその事実と向き合いながら、新たな一歩を踏み出せるように、亡くなられた方の思いを忘れずに皆で考えて行きたいものです。