3月22日付けのNHKニュース7を出先で見たのですが、なかなかぶったまげました。飯舘村のため池を根本復興大臣が視察したニュースなのですが、ため池や農業用ダムの底の泥から国の基準値を越える値が多くの場所で検出されたと繰り返すばかりで、厚労省は水自体は基準値以下と言っていますとフォローは入りますが、肝心の検出された数字が出てきません。思わずテレビに向かって「数値を教えろよ!」と叫んでしまいました。
4月1日の消費税アップニュースでは、更に「子供が駄菓子の価格が上がって戸惑ってる。年寄りは更に生活費を切り詰めなければならない。庶民が大変だ大変だ!」
これって報道と言えるんですかね…。年金の財源確保や、将来世代への債務を減らす為という文言が出てきた覚えがありません…(もちろんこれも一面的な見方であり正しくはありませんが)
4月21日のは、また香ばしく、政治的中立を訴える立場から自治体が市民活動の一部に対する後援を打ち切っているという内容。後援とは「催し物の主催者に対しチラシに自治体名を記したり、公共施設に置くことを認める」と前置きしていて、出てくる団体が9条の会やらばかりで、どう見ても「自分達の仲間の活動を制約しようとしてる、許せない!後援くらいケチんなよ」と主張しているようです。冷静に見ると特定の政治思想に肩入れしないという自治体の対応は、それなりに納得できるものなのですが、専門家と称する謎の御用学者が出てきて「色んな意見があってしかるべきだぁ!議論を沸騰させよう(自分の好きな方向にもって行きたいの意味)」と綺麗事を並べ立てます(へぇ、暴〇団の主張とかも自治体が後援しろってか…)。そして、そうでない自治体もあるとして、市民団体にホールを貸している例を紹介し(もちろん御多分にもれず9条の会に貸した例)、自治体担当者が「貸してと言われたら(法律上)断れないので」と話す場面。え?!後援とホール貸しで話違うじゃん!と…
まぁNHKなんて、そういったやり口の常習犯であり、冷静な数字を折り込まない「危険だ危険だ」と繰り返すばかりの科学的“風”原発報道や、被災者を出汁にした感情論に任せた福島は危険だ報道(冷静な数字や統計データを示してそこまで危険じゃないよと教えるのがNHKの役割じゃないのか?)、市民団体の訳の分からない抗議運動を一生懸命報道したり、専門家の意見と称した謎の団体の代表の話を放送するので、何も驚く必要はないのかもしれませんが…日中友好を促すニュースではお題目のように、「日本政府が尖閣諸島の国有化を進めて以降冷え込んでいる日中関係。」という文言で始まり、「中国側からは友好を呼び掛けている」「関係改善が望まれます」という内容の焼き直しループ。へぇ~、尖閣の国有化は中国の暴走とは何も関係なく勝手に日本政府がやったと。それ以前は日中関係は良好であったと。よくもまぁウソをぬけぬけと…
先日のNHKスペシャルも福島第一原発の事故処理の現状の合間合間に子供が感情論を語る場面を挿入して、何をしたいんだか分からない頭の悪い長めのサブリミナル映像みたいなものを流していました。
一方、二月近く前ですがBBCで「放射能は本当の殺人者なのか」的なニュースを流していました。内容としては、原発事故から3年を迎えた福島からの報告で、(私は語学が苦手な上に、当該動画を見てから少し時間が経っていますから、解釈や内容に間違いがあるかも知れませんが、お許し下さい)初めは小児の健康の調査をしている福島の施設からの取材で「チェルノブイリを見ていると不安で…」と話す母親に対して、ナレーションが福島の事故はチェルノブイリと比べるべくもない程度のレベルであると断じ、その後、お墓参りをする女性や福祉施設での「無理に避難した事で亡くなられたお年寄り」の体験談を挙げ、“放射能は本当の殺人者なのか”と。
別にBBCが何もかも正しいと言う気はありません。特に尖閣の報道に関しては「日中が争っていて、今こういう状況にある」という報道が中心で、日本の立場と断りを付けてから日本の領土であるという説明は付くものの、尖閣は日本のものであると断言はしませんし、中国の主張のおかしさと無謀さにはさほど言及しているようには残念ながら思えません。ただ、日本のメディアの頭のおかしさや軽薄さと比べて、少しはまともだなぁと羨ましく思ってしまうものです。
さて毎度ながら、左巻きの人々が福島の人の為と称し「福島は危険だ」と叫べば叫ぶほど、福島の方たちの首を絞めている事に、ただただやり場のない怒りばかりが沸くのです(あたかも自然界には放射能は存在しないかのように装い、感情論で基準値を出来るだけ引き下げさせようとし、出来た基準に対して訳もなく信頼出来ないといい、その低い基準に照らし合わせて、基準より高いからとにかく危険だ!という扇動…)。
もちろん、危険なものは危険であると言わなければならないのは当然です。しかし、放射能や放射線の人体に対する影響に関する科学的な知見は決して少ない訳でなく(十分ともいいませんが)、放射線量や放射線率の違いなど平気で無視し、金と思惑と視野の狭い勝手な思い込みで動く彼らに嫌気ばかりを感じるのです。
世論調査も同様に、「原発再稼働に賛成ですか反対ですか」という問いに対して結果は必ず反対が多いわけですが、そりゃ私も無闇に原発を賛成はしたくありませんから反対と言いたい気持ちはあります。しかし、
・中東情勢次第でホルムズ海峡が封鎖された場合はどうするか?
・途上国の経済発展に伴って激化する化石燃料の争奪戦にはどう備えるか?
・地球温暖化の対応策はどうするのか?更に、再生可能エネルギーを始めとする代替エネルギーは果たして現実的なのか?(反原発派のカードとして核のゴミの問題がありますが、火力発電のゴミである二酸化炭素と比べてどの程度の問題なのか問われているのでしょうか?)
・貿易赤字への影響と対応策は?
・資源を更に他の国々から買うことによって、政治的問題はさらに増えたりしないか?供給が途絶えた時の対応策は?(ロシアからガスを買おうとしても、今のウクライナ情勢とそれにたいするヨーロッパ諸国の対応とかを見て何も思わないの?)
・アメリカの工業が最近盛り返してきた一因として自国でシェールガスが安く供給できるようになった事があるわけですが、つまり産業にとってエネルギー価格が競争力に大きな影響を与えるわけで、原発を止める事に対しての経済影響はどうするの?
そういう問題の複雑さと根深さを引っくるめて、原発を選ぶのかが問題な訳です。もちろんこれら全てが原発再稼動により単純に解決する訳ではありませんし、原発には違う問題があるのは事実ですからもちろん単純ではありません。
世論調査でそれを一部でも調査対象に伝えたのでしょうか?
更に、問いを狭い範囲のAかBかに限定してそれしか答えさせない(場合によってAとBは実際には対立しない不可思議な設定だったり…)、あからさまな誘導をする、恣意的に結果を取り纏める…
私が「今回の原発事故の大きな要因に、GEから導入したばかりで日本の環境に適応出来ていない設計の古さに問題がある。故に、今回の教訓を生かした新しい設計の原発に順次入れ替えるのがよいと思う。」と考えていたらどう答えればよいでしょう。
そういえば、以前に毎日新聞の電話世論調査を受けたのですが、それは少なからず違和感を覚えるものでした。
まず、
「以前に毎日新聞を購読した方にお電話をおかけしました」
「年長者の方はご在宅ですか?その方にお答えいただきます」という制約。
更に、質問に対して毎日的模範回答をすると電話口の方のトーンが少し上がり、逆の回答をすると機嫌が明らかに悪くなるという不思議さ。
私を誘導しようとしているのか、それとも既にシナリオが用意されていて、その数に合うようなノルマを電話口の人に課せられているのか。なんなのか
その時期単に様々な新聞をとっていたに過ぎず、あれ以来電話がかかってくる事はありませんが、あの時どの質問にも毎日的模範回答をしていたのなら、それ以降頻繁に電話がかかってきたりするのでしょうか?
覚えている限りでは、あからさまな誘導こそなかったものの、そのデータがどう集計され記事にされているかも疑念は消えないですし、何とも後味の悪い電話でした。
さて、左巻きの人々の狡猾さとして無垢な子供を出汁にして、子供がこんな苦しんでるとか、高校生辺りに一生懸命スピーチさせてる姿が印象的です。実際には自分達の言わせたい事を平気で洗脳させてる訳ですが、そんなのはお構いなしのようでして…
この手法は議題を問わずに行われ、特に防衛関連・原発関連・人権関連で顕著に感じます。
作家や教師などが左に偏るのはある意味で当然の事かも知れません。立場上、現実的な社会の問題に正面から対応する必要はさほど高くなく、綺麗事を言っていた方が単純に人間関係が楽な上に、教師については子供に対して「みんな仲良く」といった原則を教える事は確かに重要であるからと言えます。
しかし子供の頃教師が「日本が戦争を起こさなければ、戦争は起きません。日本が全て悪いのです」と言ったその口で「どの国の人もみんな平等で同じような事を考えているものです」といった発言、「いろんな立場の人の話を聞きましょう」と言いながら意見を教師の望む方向にまとめさせて生徒に反対させないような下地を作った上で結局多数決でものを決めたり、私は子供ながらに言いようのない矛盾を感じたものです。
先に言いますが、私は極右は更に好きではありません。左側の人以上に綺麗事に固執しているように感じるからです。
一方で、右側は正しい事を言っているのは事実だとは思いますが、少しあせり過ぎだと考えています
残念ながら今の日本は左巻き的な思想を土台にして成り立っているのですから、ちゃぶ台返しの如く全てを入れ替えなどは不可能であり、無理にやっても大きな問題を生むばかりです。少しずつ一歩一歩、進むより仕方ありません。
さて、左の人がよく繰り出す無知で無垢な人とされる人(実際にそんな人は存在しえるのか?)。無知というのは果たして免罪符になるのでしょうか?
人がものを考える時、陥り易い傾向というのはあまた存在すると思いますが、その特質の悪い部分を幾つか挙げると「自分の立場にとって都合よく解釈しがち」であり「複雑な現象の積み重ねである現実を正確に観察する事など不可能で、主観によって見たいものをより分けて見ようとする」、「イメージでものを考え、知らないものは存在しないのと同様であり、それをあたかも知っているかのように振る舞ってしまう」、「理想的条件下における関係性ばかり想像し、複雑な関係性を無視しがちである(物事の本質や問題というのは大抵、境界である際(きわ)で起きたり認識される事が多いものです。)」等々…
その一方で数々の経験に裏打ちされた“勘”というのは素晴らしい洞察を備えている場合も多くある訳ですから、勘という言葉の重みをもう少し考えてほしいものです。
往々にして、左の人々は今までそのテーマについてさほど考え抜いたり、知識を蓄えてきたわけでもないのに、ひとたび関心が集まるようなテーマが現れると、今までさも考えていたかのような態度で綺麗事で固められた薄っぺらな中身を堂々と語る姿が印象的ですが、これはつまり、「後から批判する行為は単純な作業である事に気付かず、その思考の過程を顧みる事はない」という条件によって生まれやすい態度と言えると考えています。これにより自らの万能感と自らが正義であるという錯覚が生まれやすいからです。この環境はマスコミ全般にも言える事で、現在の多くのマスコミの問題点の根源になっているものと考えられます。
私の以前の記事にも「議論したい」という言葉を軽々しく使った覚えがありますので、反省しなければならないかもしれませんが、
「議論したい」と文末に付く時、本当に議論をしたいと素直に思っていない場合、“とにかく自分の思うような方向性へ導きたい”或いは“意見を言い合うのは良いことです”という綺麗事のどちらかを意味する事が多いようです。
前者は棄て台詞のように自分の主張を押し通す事しか考えていません
後者は人々の意見の多様性について焦点をあてていますが、どう意見を集約していくのかについては不明確です。
とにかく意見を表明する事が大事だという風潮がありますが、知らない事を知らないとはっきり言える事も大切だと私は考えますし、
99%の冷静な議論と1%の感情論、99%の現実論と1%の理想論、このあたりが現実社会をスムーズに回していく為の落としどころと言えると考えます。
議論というのは、対立する二者がここにいた時、まず議題の確認、共通認識の確認、言葉の定義の確認、意見の食い違う点の確認、そして妥協点をどこに見いだせるかと進み、議論をまとめていくわけですが、
私は現実の外交が現代においても、軍事力を土台として経済力がその上に、政治力がその上に成り立っていて、それらのパワーのバランスによって世界が動いていると考えていますが、この事に対する認識とあまりに意見の隔たりの大きな人とは私はまともな議論を行う事は多分に困難に思えます。実りある議論をするというのは、それほど難しい行為であるという事を改めて認識しなければなりません
最後に私は今の安倍内閣はかなりバランスを見ながらも日本を正しい報告へと導こうとする姿勢は概ね評価できると考えています。
ただ、経済財政諮問会議や産業競争力会議において、人を安く使う事にしか能がない、デフレ型の経営に特化した経営者ばかりが重用されているのは甚だ疑問です。
ものを生み出すのではなく、物や人を右から左へ仲介する人が中心に集まり、移民容認を中心に労働者を安く買い叩く事で儲けて、数十年に何が起きようと知らぬ存ぜぬ…しかも、それを行った欧米の惨状を無視して。
これを倫理感も矜持もない金の亡者の戯言と断じて何がいけないのかが分かりません。