公判前整理手続の条文ができてもなお、検事が弁護人に証拠を開示しない問題は依然として残っています。とくに再審請求審では、再審に関する規定が不十分なため、検事は証拠開示に激しく抵抗します。

 これには、「なぜなの?」という疑問が起きると思います。

 ここでは、理屈ではないところの、検事のものの考え方から情緒レベルで説明してみます。
 これは、検事が弁護人と裁判所をどう見ているかから考えるといいと思います。

 まず、弁護人です。
 一口で言うと、検事は弁護人を敵視・蔑視しています。私がそうだった(爆)上、少なくとも私の検事時代の上司、同僚、後輩は総じて同じ考え方をしていました。

 「敵視」の理由は簡単です。
 弁護人は、とにもかくにも犯罪者を無罪放免にして逃がそう、犯罪者の刑を不当に軽くしようとばかり考えている連中だと思っています。検事になるとすぐにこう教育されるのです。少なくとも私(たち)はそうでした。
 検事は正しい判断をしているのに、それを知ってか知らずか、弁護人はとにかく検事のやることなすことに文句を言います。正しい判断に文句を言うのですから、弁護人が正しくないのは当然の帰結です。

 検事がなぜ正しいか?それは、検事は公益の代表者であり、常に「全ての証拠」を「公平な見地から」検討しているからです。被疑者・被告人に不利な証拠だけでなく、有利な証拠もちゃんと「弁護人の目」で検討して処分を決めています。だから検事の判断に間違いはないのです。
 間違いのない検事に逆らうのですから、弁護人は間違ってますし、それを承知で検事に逆らうのですから、敵なのは当然です。
 なので、悪の手先である弁護人に余計な証拠を見せると、悪知恵を働かせて巧妙な弁解を編み出し、あわよくば黒を白にしようとするのです。あるいは、本来は実刑にすべき被告人を執行猶予にしようと暗躍するのです。

 「蔑視」の理由も簡単です。
 弁護人は、検事が集めた証拠を知らず、せいぜい被疑者・被告人の話しか聞かずに、しかもそれを疑うことなく信用して、愚にもつかない弁解を「これぞ真実だ!」と勘違いしていると思っています。
 こっちには被疑者・被告人の愚かな弁解を覆せるたくさんの証拠があるのに、弁護人はそれを知らずに被疑者・被告人の言うことを鵜呑みにしている存在で、話になりません。
 こんな愚かな弁護人に余計な証拠を見せると、例えば1の価値しかない有利な証拠を5にも6にも水増しして騒ぎ立て、検事の下した正しい判断を覆そうと暗躍します。

 ですが、ここにはフィクションと矛盾があります。

 まず、検事が「全ての証拠」を検討しているか。
 警察から送致されてきた証拠を全て検討するのは検事の当たり前の仕事ですが、内実はそうもいかないことがあります。
 たくさんの事件を抱えている検事は、どうしても力を注ぐ事件と必ずしもそうではない事件とを分けています。これはやむを得ないところですが、手抜きをした事件の証拠を「全て」検討しきれずに処分してしまうことはあり得ます。また、恐ろしいことですが、警察が必ずしも「全て」の証拠を検事に送らないこともままあり、こうなると検事が「全て」の証拠を見ることはできません。
 
 次に、証拠を「公平な見地から」検討しているか。
 検事は裁判官、弁護士と同じ資格を持つ法律家ですから、本来は裁判官、弁護士と同じ姿勢で証拠を見るべきです。
 が、検事の本質は犯罪捜査官です。犯罪と犯罪者を憎み、犯罪と犯罪者と闘うのが職責です。こんな職責を持つ検事に、一切のバイアスがないと言い切れるでしょうか。
 犯罪捜査官たる検事が「弁護人の目」で証拠を見ると言っても、文字通りに弁護人と同じ視点から証拠を見ることはおそらく不可能です。被疑者・被告人に有利な証拠に接したとき、検事は「そうか、ではこの被疑者・被告人は無実だ」と考えるのではなく、「どうやってこの証拠を覆す証拠を探し出そうか」と考えるのです。アリバイが主張されればそれを潰そうとしますし、弁護人が被害者と示談したら、「弁護人が甘言を用いて被害者を騙して示談したのではないか」という視点からチェックします。もっとも、こうした行動の全てがダメだとまでは言いませんが。
 ひどい検事になると、弁護人が「被害者の連絡先を教えてください」と求めてきたところ、実際は被害者に弁護人との接触に応じる意思があるのに、「被害者は一切連絡しないでくれと言ってます」と嘘をついたりします(これはつい最近、私の知人の弁護士が東京地検の検事に実際にやられた仕打ちです)。
 これが本当に公平なのでしょうか。

 つまり、検事が「全ての証拠」を「公平な見地」から検討しているというのはフィクションなのです。

 次に、仮に検事が「全ての証拠」を「公平な見地」から検討していたとしましょう。
 仮にそうだとして、こうした検討の結果、検事がある結論に達したとしたら、弁護人も同じ証拠を見れば同じ結論に至るはずではないでしょうか。
 もちろん、検事に言わせれば、弁護人には弁護人特有のバイアスがありますから、全く同じ結論にはならないこともあるでしょう。
 が、それをある程度割り引いたとしても、同じ証拠を見れば着地点が大きく異なるはずはないでしょう。
 そうだとしたら、検事はむしろ堂々と「どうぞ全ての証拠を見てください」と振る舞えばいいはずです。
 が、実際はそうしない。
 「全ての証拠」を「公平な見地」から検討したのに、それに自信があるのかないのか、とにかく被疑者・被告人に有利な証拠は極力見せないように努めます。
 おかしくないですか?
 「証拠を全部見せられないのは、実は自分の判断に自信がないからではないですか?」と意地悪を言いたくなりますよね。

 もっとも、先に述べたように、検事は元来弁護人を敵視・蔑視しているので、「犯罪者を逃がそうとしか考えていない愚かな弁護人に見せるとろくなことはない」と考えて、証拠開示を拒んでいるわけです。
 いずれにせよ、下した結論に自信たっぷりなはずの検事の思惑と、それに伴う実際の行動には矛盾があります。

 さて、対弁護人はこれくらいにして、次は検事が裁判所をどう見ているかを考えてみます。
 弁護人ほどではない、と慰めにもならない枕詞をつけますが、検事は実のところ裁判所も蔑視しています。
 なぜそう言えるか。それは検事が弁護人に証拠を開示しないことで説明できます。

 被疑者・被告人に有利な証拠を弁護人に見せれば、おそらく弁護人はその証拠を裁判所にも見せようとするでしょう(当然です)。あるいは、検事が先んじて裁判所に請求することもあるでしょう。検事はこれらも嫌がります。
 なぜでしょうか。

 それは、「1の価値しかない被疑者・被告人に有利な証拠を、弁護人が騒いで、5だの6だのに過大評価させようとする」からです。
 が、よく考えてみてください。
 先に述べたとおり、裁判官、弁護士、検事はみな同じ資格を持つ法律家です。
 そして、繰り返しますが、検事は「全ての証拠」を「公平な見地」から検討し尽くした上で起訴しているはずです。
 となれば、弁護人について述べたと同じように、裁判所もまた、検事が検討したのと同じ証拠を見れば、検事と同じ判断に至らないとおかしいですよね。まして、裁判所には「弁護人特有のバイアス」はないはずですから。
 それにもかかわらず、検事が裁判所に余計な証拠を見せないのは、それを見せると弁護人の騒ぎに騙され、あるいは気圧されて、1の価値しかない証拠を5だの6だのの価値だと間違えると思っているからです。
 これ、裁判官をバカにしてませんか?弁護人に騒がれただけで、証拠の価値を間違えるという理屈ですよ?

 この意味で、検事は裁判所も蔑視しているのです。愚かな弁護人の騒ぎに乗せられて証拠の価値を間違える愚か者だと見ているのです。
 無罪判決が出たとき、検事は負け惜しみで「裁判官がバカだった」とうそぶくことがあります。その裁判官がしばしば無罪判決を出しているとなおさらです。これが多分に負け惜しみだとしても、どこかに裁判官をも蔑視している心理がないと、むやみに言える台詞ではないでしょう。

 
 たしかに、法律家の中で、検事は事件の初め(例えば被疑者の逮捕前の内偵捜査)から終わり(刑の執行)まで関与するので、形式的には刑事手続の主役と見ることはできます。また、法は検事に何かしらの期待をして、このような関与を認めているのでしょう。
 が、それにかこつけて、「我こそは刑事司法の主宰者である」とまで思い上がっていいはずがありません。極論すれば、検事は「弁護人はただの邪魔者だからいらない」と思っている上に、「裁判所は検事の決めたとおりの判決を出していればいい」と思っているのです。
 このように考えないと、証拠開示を拒む情緒レベルの理由は説明できないと思います。

 ですが、仮に検事だけが正しくて、弁護人は検事の邪魔者であり、裁判所はその邪魔者にたぶらかされる存在だとしたら、法が弁護人と裁判所を置いた意味がなくなります。
 むしろ、検事が正しいとは限らないからこそ、検事の誤りを正すために弁護人と裁判所が存在しているはずでしょう。弁護人と裁判所が検事の判断の追認機関であるはずがないのです。
 
 証拠開示に加えて、無罪判決に対する上訴や再審請求に対する徹底抗戦もまた、検事が「我こそが刑事司法の主宰者である」と自負し(過ぎ)ていることから説明できると思います。
 検事の自負の全てがよくないとは言いません。職業人には一定の矜持は必要でしょうし、その矜持がよりよい仕事を生むでしょうから。
 が、その自負が歪んで、同じ資格を持つ弁護人や裁判官を敵視・蔑視するに及んでいいはずがないでしょう。

 先に述べたとおり、そもそも検事が本当に「全ての証拠」を「公平な見地」から検討していることに疑問なしとしませんし、なにより検事も人間なのですから、常に正しい、絶対に間違えないとは言えないでしょう。
 もちろん、人を起訴する権限を与えられている以上、むやみに間違えてもらっては困ります。が、「絶対に間違えない」というのも無理でしょう。検事は神ではないのですから。
 それでもなお、検事は被疑者・被告人に有利な証拠を弁護人や裁判所に見せないことによって、神として振る舞おうとしているのではないでしょうか。

 法は、検事の誤りを正してもらうために弁護人と裁判所を置いているのに、誤りが露わにならないようにするため、証拠開示を拒んでいるのではないでしょうか。

 

 むやみに間違えていいはずはないものの、絶対に間違えないはずもない。検事はこうした人間の当然の限界を直視すべきだと思います。