『物語の終わりに』(創作)

 

 

これはOから聞いた話。

 

 

病棟内では時間があったためよく彼と話していたが、一度、権力の絶大さを間近で見たという話を語ってくれたことがあった。これは詳細ばかりか梗概すら書けないのであるが、彼の近くで以前とある問題が出来した。その解決に緊急を要する事案だったので、とある人物に国家権力を行使してもらったことがあるのだと言う。本来なら踏むべき段階をひとっ飛びに飛び越して、彼の知る人物から某地方の国家権力上層部に話が行き、そこから某私企業にも上意下達された話が通っており、本来一般人が安易に入ることができないような場所に超法規的に入室を許され、調べたかった資料を見せてもらうなどの厚遇を受けたのだと言う。踏むべき段階を踏まなかっただけで権力を悪用したものではなく、問題解決には遅かれ早かれ国家権力が動く事案ではあったが、この件に携わった官吏の一人に、なぜ一個人の為に上層部がここまで動いているのかと(全然嫌味な感じではなく)驚いて訊ねられたほどなので、相当の強権が発動されたようだと言って笑っていた。

 

 

当時は彼自身も、その問題解決に掛かり切りで大分疲弊していたらしいが、その権力に一種の陶酔を感じたとも話していた。そうして、少し怖いくらい思い通りにできたので、自分に権力などなくて良かったと言った。人間の、就中、自分の欲望に際限はないので、権力があればあるだけ行使する可能性があると自虐的に語っていたが、多くの人は自分と同様、その全能感に陶酔を感じるのではなかろうかと俗っぽいことを考えたとも言っていた。自分に与えられた権限は一過性のそれであったからこそ陶酔を感じただけのこととは思うが、世にキンキナトゥスは少ないのだと言った。その通りかもしれない。

 

 

この事件は早急に解決されたので、調べようとしても個人ブログに断片的な触りが出てくる程度で全体像は掴めないと言っており、私はこれをインターネットで調べたことがあるが、確かに数件、それらしき記事がヒットするだけで、彼が話したような文脈を系列的に書いてあるものはなかった。癲狂院に収容された患者の妄言と受け流すには、あまりに精確であったので、実際に起きたことなのだろうと思っている。

 

 

病棟にいた頃、ある疑獄事件が世間を賑わせており、政治家の顔が大広間に置かれたテレビによく映し出されていた。政治家には役者レベルでは務まらないような個性的な顔が多い。我々一般人と政治家の大きく異なる部分を考えてみると欲の多寡ではないかと思う。絶大なる権力が、その欲を満たしてくれるのだろう。欲が多くて政治の世界に行くというより、政治の世界へ行き権力を手にすると欲が刺戟されるのではないかと得手勝手な想像をする。やくざが足を洗うと顔が柔和になったりするが、内在するものが顔に表れるということはままある。そう言われてみると、欲の強そうなやくざの世界も個性的な顔立ちが多い。尤もらしく書いているが、事実は全然違うかもしれない。思慮の浅い私の恣なる空想である。権謀術数渦巻く世界では緊張を強いられることも多いだろうから、そのような顔立ちになるのやもしれぬ。眠れぬ夜に寝台の上で、政治とやくざの世界はどちらも実弾が飛ぶな、などと考えて、身じろぎせずにいると、やわらかい病棟の白紫の壁が仄かに迫ってきそうである。

 

 

近頃はルッキズムなどと言って、人の容姿をとやかく言わないようにしましょうと声高に叫ばれ、それは理解できるのだけれど、そういう人は容姿に関して、可愛いとかかっこいいなどという肯定的評価も批判しているのだろうか。それを良しとしているのならば、それはルッキズムではなくて単純に悪口を言われたくないだけであり、ルッキズムのような自己正当化できる安易なワードを使っているだけではないのかというようなことを続けて思った。ルッキズムなるものも考え始めるとよくわからぬ語であるが、夏目漱石の『イズムの功過』を引っ張り出すまでもなく、イズム、主義などというのものは取り出しやすいよう効率的に纏めた輪郭であって、その指し示すところは頗る曖昧である。Oとこの話をしようと思っていたが、翌日にはすっかり忘れてしまっていた。