申し遅れましたハッピーニューイェアーでございます

2021年、 丑年及び自分の回り年。

 

相応しく「我慢」を意味する一年だと予測されるようですが

 

去年の健康診断の時点では、(多分)従来人生の中で最低立場に至ったと、今振り返ってみて感じてかねがね思う。

 

なぜならかというと

高校生の入院とともに僅か十歳時の体重より下回ってしまい、

来日時より十キロ以上痩せたこと。

 

鬱と拒食症の波があまりに激しく強引で

家族も友人にも会えない日々が絶えない状況に正しく耐えられない私。

ただこの苦痛は、ちっとも珍しくなく

世界水準の大規模を占めて

恐らく国内・世界中を渡る何百、千、万等次々の数値をかける程の人も、同じくまたそれ以上のお気持ちでいたでしょうし

終わりが見えない戦いで未だに変わらない様子のはず。

今頃の古今東西。

 

冒頭から消極的な幕を強く踏み下ろせた風味の文章ですが

ここからは、私事に迫り、自分の克服を反省しておきたい。

先に述べた体系の変化に焦点を当てて。

 

一年前、計測後

このままなら体が徐々に滅びていくのでは

そろそろ親の保護だけだと足りない訳から

自ら行動せざるを得ない時が降りたかと。

 

だがそもそも動く原動なんてなく

寧ろ、危険状態の中に安全を感じてて

太る=失敗

という勝手な連携が心底に深く

潜在的な沖に

根強く籠っている。

 

 

 

恐ろしくこの芯の所為で

マインドがほぼ完全に拘束され

理屈が通じなくなる。

その分、抵抗がなく意志を容易に貫き

できないと思い捨てた抱負の達成が

次々繰り上げる。

 

丑なりの頑固性だからと思われるかもしれないが

頑張りすぎるきらいがあり

過剰的、極端的な行為がそぞるとか

上手く説明できない理由で延々やり続ける癖がしつこい。

 

 

 

でも長く続けられない。

そう思い切れたのが今回の体重減少。

両親のお世話もないどころか、帰国もできない。

 

 

自分でなんとかやっていかないといけない。

 

 

看過してきた日常的な自己嫌悪

美容に偏った優先

自信

 

全て歪めているんだなと

理解する上で

罵る、のではなく

受け入れる、とし

今の私と立ち向って進んでいこうと

優しく手を差し伸べた感じ。

 

道理で一直線というより、溝が点々と生んで

一時、まして就職しながら

場所に関わらず泣きたくてたまらない毎日があった。

でもその時は、以前と違って一人だけで抱え込めず

なるべく他の人に相談することにした。

(にしても当時は、最も頼った親にはほぼ毎日電話で一時間くらいずっと泣いただけだったが。)

それでも少なくとも明日に生き抜けられる強さを教えてくれて、励まされた。

(一番鮮明に覚えているエピソードは、平日の仕事後猫カフェに寄ったものの、涙が止められずティッシュも使い切ったこと(笑))

 

正直、未だに、何が主体的な動機となって、

来日起点の健康状態に辿り着けたようになれたのは

よく分かっていません。

 

私は未だに細い脚が可愛いなと直感的な憧れを抱いているのだが

自分と連なってみれば、健康を悪化させる獲得手段を念に浮かべるだに

断固阻止の理屈が這入って、自己肯定を促す思考を進める。

技・官能的な身体を理想化。

 

やがて、食事制限と酸素運動に限った狭義な世に支配された人生半分以上を侮るようになれた。

 

周りがどう思われようと・・・

 

さて、昨日の「節分」を「節目」に

この体を愛せる女になろうと、

 

今までに気づかずにッポンと呟いた

「自信」の本来意味である、

「自分を信じる」

という道標へ移し、

新自に。

 

最大限の力で生きる権利を防げきた「鬼」は外、

理解力を経て細くなくても十分幸せで居られる「福」は内。

 

あすも明らかな日となりますように。