紀行 | 大河ドラマ 50
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八坂神社の門前町として栄えた祇園。
平家との関係の深い祇園女御もこの地に住んでいたといいます。
八坂神社は、かって祇園社と呼ばれ、疫病封じの神として長年信仰を集めてきました。
1147年(久安3年)、祇園社の臨時祭で清盛が田楽を奉納しようとした祭、
清盛の郎党と祇園社側の人間が争い、のちに都を揺るがす大騒動に発展したのです。この事件後、忠盛は祇園社側との関係を修復するため、伊勢の領地を寄進したといいます。
鳥羽院は朝廷で勤務する武士を増員。これを機に、武士がいっそう中央に進出することになるのです。
生没年不詳。白河(しらかわ)法皇の寵妃(ちょうひ)。蔵人(くろうど)源仲宗(なかむね)の妻とも宮廷に仕えた女房ともいわれるが、姓氏はつまびらかでない。京都祇園に住んでいたのでその名があり、また白河殿ともよばれた。『今鏡』が「三千の寵愛、ひとりのみなり」と記すように、白河法皇の寵を一身に集め、『平家物語』では懐妊した女御が平忠盛(ただもり)に下されて清盛が生まれたとする。しかし滋賀県胡宮(このみや)神社文書によって、清盛の生母は女御の妹で、1120年(保安1)清盛が3歳のとき没したので、女御の猶子(ゆうし)として養育されたとする説が有力である。崇徳(すとく)・後白河両天皇の母待賢門院(たいけんもんいん)藤原璋子(しょうし)も女御の猶子となっている。
祇園女御 - Yahoo!百科事典
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