織田信長も日本史上話題に欠かせない人物である。
1992年にセリビアの万博に日本館として出展された
『安土城』を解体して
滋賀県安土町に信長を記念した。
『安土町天守・信長の館』の佇まいは
緑に囲まれた中に太陽をいっぱいに浴びた景観。
静粛、平和を絵に描いたようである。
人は死ぬとどうなるのかという
永遠の謎を問いながら
信長はいまこの『安土町天守・信長の館』を
訪問する観光客、日に2000人を超える姿を
どう思うのだろうか…
そんな思いが
『蘇る信長』を作曲する動機になった。
日本のキリスト教の歴史において
1549年に始まるザビエルによる宣教活動が
日本へのキリスト教の最初の伝来で
これは歴史事実として教科書等に記述され
一般にも広く知られている
ザビエルは、ヤジロウやコスメ・デ・トーレス、
ジョアン・フェルナンデスらと共に
8月15日(この日は「聖母マリアの被昇天の祭日」に
当たり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げる。)
鹿児島に上陸し2年3か月にわたって宣教活動を行う
ザビエルは天皇の宣教許可を得ようと
薩摩藩から、平戸、山口、堺を経て
京にたどりついたが
当時の京都は戦乱で寂れきっていた
天皇の権威も失墜しており征夷大将軍も不在であったためザビエルは目的を果たせなかった。その後、言語や文化の違いなど多大な困難を乗り越えながら徐々に日本人協力者を得ることができ700名ほどに洗礼を授ける
各地を旅する中でザビエルは
日本文化に中国が大きな影響を与えていると見抜き
中国宣教を志して広東の上川島に上陸したが
中国本土を目前にして病没した。
ザビエルは日本の首都に
神学部、法学部、ならびに医学部を兼ね備えた
カトリック系の総合大学を
建学するという夢を抱いていたが
彼の夢は1913年にイエズス会士によって
上智大学が東京に建学したことによって叶えられる
この時代は戦国時代真っ只中で
織田信長は宣教師たちに対して好意的であった
信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に
信長政策を継承し、宣教師に対して寛大であった
しかし、秀吉の天下統一目前の1587年九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けていることを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたこと。
そして最大の要因である、長崎・浦上・茂木がイエズス会領となり且つ要塞化されていることなどを理由とし、九州征伐完了直後、筑前箱崎において、秀吉に謁見するため長崎から来ていた布教責任者であるガスパール・コエリョに対しバテレン追放令を発布し宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明する
1591年、インド総督の大使として
ヴァリニャーノに提出された書簡(秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる
東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と
比較しながらキリスト教の教義を断罪した
秀吉はポルトガルとの貿易関係を
中断させることを恐れ勅令を施行せず
1590年代にはキリスト教を
復権させるようになった
勅令のとおり宣教師を強制的に
追放することができず
長崎ではイエズス会の力が継続し
豊臣秀吉は時折、宣教師を支援する
秀吉没後、実権を掌握した
徳川家康は当初キリスト教宣教を黙認していた
しかし1612年に岡本大八事件
(有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると
関係者がどちらもキリシタンであったことから
家康はそれまでの態度を一転して
諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を
通達するここととなり禁令となる
徳川政策が終幕後、明治時代に入り
アメリカ合衆国からの要求をきっかけに
日本は西洋諸国に門戸を開くようになった
1858年には日米修好通商条約や
日仏(にちふつ)修好通商条約などが
結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に
多くの宣教師たちが来日し、日本入国が可能になる
メルメ・カションは函館に赴き
ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構え
ジラールは1862年、横浜に開国以来
最初のカトリック教会となる聖心教会
(その後移転し、現在の山手教会)を建てた。
字数が超えてたので2部制にしました↓
https://ameblo.jp/ichi3749/entry-12801168711.html


