日常を体験していると、自分がどのようにすればいいのか分からない時があろう。
多くの者や情報は好きなことをやれと示すが。
そのアドバイスは結構大雑把である。
心が何か、本質は何かを知るなら、もう少し詳細を、方向性を知れるであろうが。
好きや嫌い、好みとは心の気まぐれでしかない。
それは欲というエネルギーから発せられる心の気まぐれでしかない。
一方感覚的に似てるような力、「何かを信じる」がある。
好きな事をやるのが、心の気まぐれなら、
信じることをやるのは、実在、存在からの導きだ。
それが正しいか否か、利に適うか否か、どんなことであれ、その道にはその個人が知らねばならぬ答えがある。
それが、どんな答えであろうがその者には結果的に建設的なものになるであろう。
信じることをやる、信じる生き方というものをしてみるがいい。
己が信じれる者をリスペクトし、信じる道、道なき道かもしれぬが進むがいい。
心とは何か。
己が信じる道を行く・・
これをしてみないと、今の己が心にどれだけ操られ支配されているのかすら自覚できない。
真なる敵が見えない。障害が何か認識、判別できないし知れない。
「敵は己の中にいる。」
この言葉を言える資格の者であれ。
好きや好みは疑念、搾取や支配などの苦しみに満ちた茨の道だ。
して得られるものも少ない。
だが信じる道は、時に険しいやもしれぬが、その道はとてもまともな道であり。
その成果に満足すると思う。
何を信じて良いのか不明瞭なら。
好きなものや人を信じて良いか否か、
信じるに値する、信じるに昇華できる程に、一人熟考し問い詰めて見定めるといいだろう。
また、信じる道を選ぶには勇気が必要だろうが。
その勇気と呼ばれるものは既に意識のそれであり、気持ち一つで勇気に切り替わる。
ただスイッチを入れるだけに過ぎず。
かつて、悟りの世界にはマハラジという者がいた。
彼は、探求者に
「どうしてあなたは悟れたのか?
どうやって本質その境地に至れたのか?
わたしとあなた、何が違うのか?」
と質問された。
マハラジはこのように答えた。
「わたしはただ、グル(師)の言う、あなたは無だ、自由だ、至福だ、それをただ一つの疑いもなく信じただけだ」
と。
また、津留晃一さんという方がいた。
故人だが生前、目覚め、本質を日本人感覚でわかりやすくブログにまとめている。
彼もまた、彼の目覚めのスタートをこのように言っている。
「私はただ信じることから始めた。あなたは無限であるという言葉をただ信じた。一点の曇りもなくただ信じた」と。
「信じる」には、
人が人ならざる者になる又は幻想の破壊、人からの解脱、心からの解放という、
人生ゲーム最後の難所、最大且つ最強の難解でさえ、
打ち破り攻略するほどの計測不可能なパワー、根源的力がある。
真実的には同じ力がこの宇宙、世界さえ維持、成り立たせているのだが。
因みに。
だから私を信じろと言っているのではなく。そのような意味はなく。
ただ既に信じている何か、生き方、
信じている人のリスペクトそして追従、
をただ〃するといいという内容と意味である。
恋仲のように、そのモノや者を追うといい。
それを道と呼ぶ。