「息子が心療内科のお世話になるかもしれない……」という、まだ決まってもいないことに心乱され、眠ることなど到底できない軟弱親父です。

「心療内科」「精神科」
この二つの言葉をだけにはナーバスになってしまいます。


真夜中に落ち着かない気分を、少しでもごまかしたくてブログをつけてみます。



私の父親は銀行員でした。
当然、転勤は2年~3年に一度、転勤エリアは全国でした。
年度末近いある日に、銀行にいる父親から一本の電話が入ります。

「転勤だ。次は青森❗️」
「転勤だ。次は高松❗️」
「転勤だ。次は仙台❗️」

いつも、その一言だけです。

家族で地図を見ながら、次に住む場所を探します。

引っ越しまでは、一週間。
引っ越し当日まで父親は帰ってきません。
仕事が終わると毎日「送別麻雀大会」「送別ゴルフ大会」とかで、次に顔を見るのは、日通の大型コンテナが荷物を積み込みにくる日の朝です。

一番ひどかったのは、高校入試の当日の朝、電話があったことがありました。
四国の高松に住んでいるのに、今度は東北の仙台❗️
もう、打つ手はありません。
「どうすんの?」
「どつしようもないから、とりあえず入試に行ってこい」
試験会場のトイレで「どうなるんだ?オレ……」と思った記憶があります。
ま、学生寮という夢のような場所があるとは、思いもしませんでした。



電話があった翌日、日通が段ボールや梱包資材を持ってきて、玄関が山積みになります。
短い付き合いだった友人とお別れする日がくるのを実感する日でもあります。
せっかく覚えた方言を標準語に戻し、転校先では、早く方言を覚えなければなりません。

母親と私と妹で、黙々と段ボールを組み立てて、台所用品とか、だれそれの私物とか書かれた段ボールに物を入れていきます。

コンテナに積み込んだ翌々日には、引っ越し先で梱包を開き、また、生活出来るようにしていくのですから、引っ越し作業は当然得意となります。

社会人になってから、知人の引っ越しを手伝いました。
引っ越し会社の社員の人に「転職してウチにこないか」と、真剣にスカウトされたこともあります。



父親の同僚に「松任谷」さん、という人がいました。

ある日、「松任谷」さんの息子さんは、普通の仕事が嫌で、音楽をやっている。
今度結婚した奥さんも音楽をやっていて、うたを唄っているらしい。という話を何気なく聞いていて……

松任谷?え?もしかして松任谷正隆?
ってことは、「ユーミン❗️」

まてまて、同じ名字の偶然だってこともある。

父親に、「松任谷さんの息子さんの奥さんの名前は、由実さんか訊いて欲しい」と頼みました。
そうしたら「そうそう。よく知ってるねぇ」との返事が。

おぉぅっ、間違えなくユーミン❗️

「二人のサインの入った色紙をもらえないだろうか」と、頼んでみましたが、
「松任谷さんに、そんなお願いできるわけがない」と言われてしまい、泣く泣く諦めました。(夫婦のサインが入った色紙、ってお宝なのに…)


そのくせ、野球好きの父親は、顔を合わせたから色紙に書いてもらった。机の上に飾って、毎日拝むようにと……

その色紙には
「努力  読売巨人軍  王貞治」
と、気合いの入った文字で書かれていました。


うーん。ユーミンがよかったなぁ。


ありがたいことに、ブログを書いていたら、少しは気分転換になりました。

効かない眠剤を飲んで、横になってみます。