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市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。

 内田樹氏が関西のMBSラジオに出演しているようで、その放送の模様がネット上に置かれている「MBSラジオ 辺境ラジオ」
 この12月25日放送分を聞きながら自分なりに思った事をつらつらと書いてみたいと思う。(※4)

 といっても、放送の感想ではないし、放送は大阪なので橋下の問題に触れており、河村の「か」の字も出てこないが、私の問題意識は河村と名古屋の状況にあるので、そういう意味で歪んでいる。まあなんにせよ、この文章よりも放送コンテンツの方が「ため」になることは間違いないだろうと思う。

 ジャクソン流民主主義においてもそうだが、河村-橋下-小泉などの一連のアジテート型政治屋に共通する「やりくち」というものがある。それは「抵抗勢力」を想定してそれを否定することで、自身に対する政治的求心力を得ようとする政治手法と言っていい。

 つまり社会にある不満の元が「コレダ!」と指差すことであるとみなせる。

 彼等は経済政策においては市場原理主義を信奉している。この政治的手法には市場原理、つまり「商法」からヒントを得ているのではと思える。

 「コンプレックス商法」というものがある。人々の劣等感を刺激して商品を買わせるという手法だ。容姿や能力、性格などありとあらゆる物を取り上げては、あたかも「それが満たされなければ、人生において幸せをつかむことはできない」とでも言わんばかりに不安を煽り、その不安につけ込んで商品やサービスを売り込んでいく。これは何も昨今の流行ではなく、古くは古代ローマ帝国の資料にも「劣等感を種にして物を売り込む」という例が見られたと言う。
 更にこの「コンプレックス商法」が発展していくと「アイデンティティ商法」(※1)に行き着く。様々なブランドやアイコンを提示して、それに寄り添わせる事によって自分が定義できると思い込ませる。その昔は「シャネルのスーツ」が働く女性のアイデンティティを形成していたのだろうし、やがてその座をプラダが奪い「プラダを着た悪魔」という映画がそのイメージを強化した。今で言うとスマートフォンや iPad がステータスとなり、何に使っているかは不問のまま、とりあえず「持つこと」に意味があるかのように見うけられる。それらのガジェットで何をするかではなくて、それらのガジェットを扱う自分を作りたいのだ。

 最近ではここに「ギルティフリー商品」というものまで生まれてくるようになったそうだ。消費というのはヒトにとっては原罪である。ヒトは他の生命を食べなければ生きていくことすら叶わない存在である。「ギルティフリー」などという言葉自体が論理矛盾であり欺瞞でしかない。フェアトレードには意味があったかもしれないが。しかし、こういったものをすぐに商売に変える奴等が出てくる。消費そのものに備わっている「心のやましさ」を消費のエネルギーに替える。

 これら「コンプレックス商法」「アイデンティティ商法」「原罪というべきヒトの在り方」の問題は、それぞれの個人の内にあって、自己の在り方の問題でしかない。もっと言うと、それは自己の問題ですらない。自分自身は在りのままで良いのであるから、それを問題として捉えてジタバタする必要など実は最初からないのだ。

 太っていようが痩せていようが、それが自分自身であるし。何を着たり身に着けたりしようとも自己の本質に変わりはない。ブランドや商品に備わった「属性」が自分を変える事はなく、変わったと思えても、単にそれは振り回されているのに等しい。

 このように自分自身の欲求、不満、不安は自己の中にあり、外部に解決を求めても解消されない。消費社会は欲望を駆り立て、不満や不安を煽り、それらが商品やサービスといった外部のナニモノかによって解決と繰り返し語りかけ、その商品を売りつける。(※2)

 これを政治的に現出させたのが、「改革」を標榜する人たちなのではないだろうか。

 社会における不安や不満を掻き立てる。
 その原因はこれだ!と言い当てる。
 それをぶっ壊せ!と煽る。

 自分の人生が辛かったら、それは誰かのせい。または何かのせいなんだ。
 「国や地方の制度が悪い」「官僚や議会が既得権益を守るために非効率な制度を改革させないからだ」「自分たちよりも上の世代が既得権を手放さないからだ」

 だから、それを壊せ!

 小泉の郵政。橋下の二重行政や教育委員会。
 そして、河村の行政や議会や増税。

 郵政を民営化して、で、社会の何が変わったのか?

 怒りを掻き立てて改革を標榜し、人々の怒りのエネルギーを結集して破壊に向けるのは簡単だ。

 そして、こういった人々に共通する言葉がある。
 「~の改革は待ったなしです」
 果たしてそうだろうか。
 そもそも「なぜ、待ったなし」であるのか。その説明を聞いたことがない。そして、ぶち壊して、作り直すに値するか否かの情報も充分には与えられていない。情報を充分に与えられていないまま、それでも判断を求められる。

 「待ったなし!」
 こういった類の言葉には気をつけたほうが良い。

 この度の大阪の選挙を見ると、大阪の人々は橋下に「何かかえてくれる」と期待している。名古屋の人々も「河村なら何かやってくれる」と期待する。
 しかし、この期待する中身については誰も知らない。(※3)

 漠然とした不安や不満を掻き立てられると、それを掻き立てている者ならばその不安や不満の種、原因を知っているのだろうと思ってしまう。そして、原因を知っているのなら解決策も知っているのだろうと考えてしまうのか。

 しかし、そもそもその不安や不満は、それぞれの各人の中にあるのであって、原因と名指された物も的外れなら、その解決策として打ち出された方策も、良くて「口からでまかせ」でしかない。

 この社会には、何故ソレがあるのか。既に誰にも判らなくなっているような「仕掛け」というものは無数に有る。そのような「仕掛け」の相互作用とバランスの中で社会は今の様にある。そういった広くて深い視野と人間理解、慎重な態度などがなければ、こういった「仕掛け」と「仕掛け」の関連性すら理解できないだろう。
 それを、「費用対効果」だとか「古臭い因習」というような乱雑な態度でぶち壊してしまったり、短期的な視点(※5)から否定してしまっては制度自体だけではなく、社会が成り立たなくなるのかもしれない。


※1:田中康夫氏の「なんとなくクリスタル」はこのような商品と個人の間の問題を主題にしていた。自身のアイデンティティの喪失を商品のアイデンティティによって同定していく。こういった在り方が今では当たり前になっている「私ってヴィトンって言うよりも、ロエベって人じゃないですか」「私って原宿ストリート系の青文字系ですね」とかといった言説は、この傾向が今にも続いている事を表す。(というか、こんな台詞を聞くと回し蹴りを決めたくなるが)
 自己のアイデンティティを、これらの商品/商品群に求め、それらに囲まれる事でアイデンティティが確立するかのように幻想を抱く。しかし、実際はそれらの商品に自己が埋没するだけで、自身のアイデンティティはいよいよ希薄になるだけなのである。そうやって希薄になった自身のアイデンティティはより一層の不安を募らせ、さらに商品/商品群を購入するように仕向ける。このように空しい消費の自己運動が続くのである。

※2:糸井重里はこういう消費を喚起するためのコピーライターである。彼はこういった不安、不満の究極の言葉として「命短し」を提案していた。
「命短し、今こそ○○」というように煽ればそれが究極の「売り言葉」になるのではないかと。

※3:いったい誰が橋下の「大阪都構想」を説明できるのですか?「中京都」ってなんですか?
 私はこういった言葉を「マクガフィン」と喩えましたが、まったく間違っていない。
 逆に「大阪都構想」というような漠然としたナニカを振り回している橋下に求心力があって、減税という具体的な施策を打ち出した河村はその正体が露呈してしまっている。
 こういった呼び込み文句は具体性を持たせない方が良いということになる。
 そう、具体性、実体を持てば批判が当たる。
 実体が無い「大阪都」には批判も加えられない。

※4:本文中で触れる隙間がなかったので補足しておくと。
 内田氏はマイケル・サンデルに懐疑的だそうだ。確かに立論の立て方や、その論法は彼等が批判するリバタリアンなどと同様の文法を使っている(これは、ロールズなども同じ)しかし、それはサンデルやロールズが、リバタリアンや功利主義者の論法から、それらの功利主義が成立しない矛盾を導き出して、功利主義から共同体主義へと視点を変えさせる為とみなすことができるのではないだろうか。

※5:放送中に有りましたが。「私企業は四半期(三ヶ月)程度の先しか考えない」というのはその通りです。企業は一日でも資金繰りがショートすればアウトなのですから、よほどの余裕がある企業以外は三ヶ月先で済んでいたなら幸せかもしれない。
 毎月の支払期日に頭を悩ませているのが今の経営者なのかもしれない。

 また、政治家は次の選挙の事程度しか考えていない。というのもそうかもしれない。
 そういった「次の選挙」を考える人々が「増税」の船から逃げ出していく。

 国民に負担を求める「増税」は難しい。「増税」を語って選挙に勝った政治家は居ない。
 だから「減税」を語って選挙を戦う事を「ポピュリズム」というのだ。
取り急ぎ。
このブログを置いてあるアメブロに対する悪戯(※1)で、5万人ほどのユーザーが「退会状態になった」ということですが、私もきっちりひっかかりました。おかげでアクセスできない状態が続きました。

年末ということもあり、まあ、ボチボチと更新していきます。

そういう中で。

注目の動きは、民主党からの離党騒動です。
建前の論点は、「八ッ場ダム建設反対」やら「消費税増税反対」なんでしょうが。
その心は、小沢を中心とした政権擁立。

そして、彼等がこの年末の忙しい時期に何を慌てているのかといえば、
「政党要件」のお話です。

 つまり、1月1日の元旦までに現役国会議員を5人揃えて政党要件を満たせなければ「政党助成金」にありつけないという辛いタイムリミットが近づいているからでしょう。

 河村たかしが0.3%に減税率を下げてまで、市民税減税年内成立を目指したのもこれが為だったのかもしれません。

 さあ、佐藤夕子と松木謙公氏らは、頭数を揃える事ができるでしょうか?

 ・・・ただ、「八ッ場ダム」の問題がマターとして持ち出されても、関東圏の民主離党組みは「石原都知事」を神輿に担ぐようなそぶりも見せている。石原を担ぐとなると、河村の「減税」とは相容れないので、佐藤夕子は食い込めない可能性もある。

 小沢自身もこういった動きには表立って力を及ぼせないようですし。

 なかなか、今年の大掃除は忙しそうですね。



※1:毎年、冬休みのこの時期と、夏休みの時期は学生などが暇に明かせて「クラッキング」などしますのでさして驚きません。この時期になると、色々な意味でネット内のアクティビティが高まる傾向がありますね。


 
 本日の名古屋市会臨時議会で市民税減税条例は可決され、減税が実施される事となった。本会議においては、共産党のみが反対で、減税日本ナゴヤと公明党だけでなく、自民党(1名退席、1名欠席)民主党も減税条例に賛成した。

 「自民党は減税政策に反対だったのではないか、節を曲げたのか?」と思われる方もいるかもしれないが、私は「節を曲げた」とは思っていない。逆に、河村市政に批判的であるからこそ、この議決では賛成という意思表示になったと理解している。(※1)

 今回の減税条例の成立は、私から見ると。河村市長は得るものがあった、が、その為に幾つかのものを「切り捨てた」。議会にとっては今は失ったものも多いようにみえるが、土壇場で成果を得るための手がかりを残した。この手がかりは大きい。市民にとってはこのブログで論考してきたように若干の「損」となる(※2)。そして、大きく損失したのが減税日本ナゴヤの市議たちだろう。その中でも田山幹事長様はまたまた「ヤラカシて」くれた(どこか、テレビ局は田山幹事長様に密着取材した方が良い。こんなに楽しい素材はない)そして、「良いきっかけ」にすることができればプラスになるが、多分、そこまで深く出来事の意味を掘れないだろうから、損失をしたままになるであろう人物が、山田市議一人という事になる。

 時系列的に話してみましょう。

 まず、前提となるのが「減税条例」です。
 今回、5%に減税率が下げられました(だから、6%の市民税率が5.7%に変わるだけです。以下では、0.3%減税と言います)また、民主党との話し合いで3年目の検証が条件に加わりました。なんでも民主党としては、この「検証」を毎年実施するよう希望したということだったのですが、毎年の検証をしてしまっては「恒久」にならないということで河村が蹴って、その結果3年という数字が出てきたといいます。

 ここが重要です(今回のブログではどうしても伝えたいことが2点ありますが、その内の1点がこれです)

 毎年の検証をすれば「恒久」にならない。ということは、つまりもっと具体的に、そして明け透けに言えば、市政に深くコミットしている人々の中では、平成25年(再来年)は減税は多分できないだろうという見通しが常識、共通認識としてあると思います。
 しかし、河村にしてみれば、その頃は既に市長を「卒業」して国政復帰しているわけで、その時に減税条例が潰されても知った事ではないでしょう。河村にしてみれば国政復帰の際に「恒久減税を実現化させた」と言えれば良いだけなのですから。
 市当局にとっても当然で、いつまでも馬鹿馬鹿しい減税ゴッコにうつつを抜かしている暇はありません。とっとと市政を正常化するためにも足かせとなる減税は止めたいばかりです。

 なので、今は「恒久減税」と言えるけれども、河村が国政復帰したら即刻停止できるような施策、制度設計が必要なのです。

 河村は、この辺も含めて、この「3年目の見直し」を減税条例の本則には加えず、付則におきました。本則だけをみると、「恒久減税」の体裁を持っているのです。(※3)

 さて、今回自民党がこの減税条例を受けるにあたって考慮した事はこれでしょう。
 つまり、一年でも改廃できなければならない。

 そもそも日本の国も地方も、予算は単年度主義です。今から再来年の予算についても足かせを嵌めるような政策は愚かです。なんとか、現実的に一年毎に見直しを図る必要があると考えたのは常識的に理解できます。(ここで、日本の経済が奇跡のように回復して、税収が増えれば、減税だろうとなんだろうと継続すればいいのですから)

 なので、自民党は本則の7条目に「毎年の財政状況の資料を作成し、議会へ報告する」というような条項を加えようとしたのです。(正確な文言は、資料が今の段階で手に入っていません)

 しかし、河村はこの条件は飲みませんでした。
 付則につけた「3年目の検証」については「3年以内の検証」と譲歩しましたが、検証の具体的な中身については、言質を取られる事を怖れて明確化しませんでした。
 この一年毎の見直しの取り扱いについて、自民党及び民主党と河村の間で綱引きがあった模様です。(民主党も常識的な単年度見直しは盛り込みたがっていたようです)

 <原案>
 最終的に、原案はそのまま、河村提案のまま。
 <修正案>
 付則に付いている「3年目の検証」に対して、修正案として「3年以内の検証」とする。
 <付帯決議>
 更に議会からの付帯決議として次の3点を盛り込む。
 1.毎年の財政状況の資料を作成し、議会に報告すること。
 2.福祉事業、防災事業の予算を削減して減税財源にしないこと。
 3.市債・臨財債の発行増は認めない、財調資金の積み増しを図ること。
(正確な文言ではありません)

追記(12月23日):※6

 そして、これらの修正、付帯決議については自民党と河村の間で合意を得ていた。

 ここで、面白いのが午前の審議の前に財政福祉委員である山田市議、松山市議にこの合意が伝わっていなかったようなのである。

 午前の委員会審議の後にこの件を知った山田、松山の両市議は市長室に飛び込んで行ったそうだ。まあ、気持ちはわからないではない。というよりも、この二人に何も知らせない状態で交渉をする事自体が河村のいい加減さで、どこまで減税日本ナゴヤの市議たちは「嘗められているのか」と哀れにも思えてくる。

 そして、ここが凄いのであるが、市長室に乗り込もうとした山田と松山を河村は制止して、松山だけを入れたのだと言う。山田市議がさぞや感情的になっていたんでしょうかね?

 山田市議は悔しいと泣いていたそうです。
 いい加減、気付きましょう。その先には「何も無い」と。


 このような条例の修正案は委員会討議の前に、理事会で取り扱いについて話し合われる慣例のようです。今回、自民党から提案され、河村も合意したこの修正案については、当然自民党が提案者となるわけですが、民主党も共同提案者となりました。更に公明党も共同提案者に乗ったのですが、その理事会の席上、減税日本ナゴヤの田山幹事長が、減税日本ナゴヤもこの修正案の提案者として乗ると表明したのです。
 結果、共産党を除く全会派が修正案、付帯決議の共同提案者となったわけです。

 さて、この田山幹事長様の行動。すれっからしの市政に詳しい方は、既に何が起きているかお分かりになって、ちょっとほほが緩んでいる事だろうと思うのですが、そちらの話題に進む前に、このブログでお伝えしたい事の第2について、先にお話します。

 今回、強行に減税政策に反対していた自民党までもが本会議採決で減税条例に賛成したと言うのは解せない。と言われる方のお気持ちは判ります。財政に詳しければ詳しいほど、筋を通して減税条例に反対すべきだったという意見には理解できます。

 しかし、もしも、上記のような修正、付帯決議も無く、原案だけが提出され、巷間言われているように公明党が賛成に乗った場合、どうせ減税条例は可決されてしまうわけです。

 そうなれば、その減税条例を見直したり、停止させることは難しくなります。

 それよりも、単年度毎の見直しの可能性を条例に埋め込んでおいた方が、市の財政に利するところがないでしょうか。

 今回、財福委員会の審議を見ていると、共産党が最終的に反対を述べる中で5点の理由(※4)を挙げておられました。これらの主張は論理的で一々同意できます。
 こういった主張を掲げて、筋を守って「衆愚政治の象徴のような」減税条例に反対した方が気分は良い事だろうと思います。しかし、そういった名よりも、実を取った自民党の判断は、責任政党として政権を運営してきた伝統であろうと思います。そして、修正案を提案すると言う事は、その原案の存在を認めると言う事ですから可決に賛成するしかないのです。なので、自民党は減税条例に賛成し、それに現実的な修正案と付帯決議を盛り込む以外になかったわけです。私は、今回の自民党と民主党の最終的な判断は支持できます。


 さてさて、今日のトップスターの登場です。
 理事会の席上、これら修正案、付帯決議の共同提案者として、減税日本ナゴヤも参加するという意思を表明されたのが、減税日本ナゴヤ幹事長田山市議であります。
 その共同提案に乗るという意向は、誰の発案であるかは判りません。
 一説には、ちゃんと河村代表に電話をしてお伺いを立てたとも言われています。
 (田山幹事長は常に電話を持っています。何かあると河村代表にすぐに電話をして聞いてくれます)(※5)

 「河村は政治的カンは働く」と定評があるそうですが、私にはそうは見えません。ただ、気が小さく、少し危うくなると直ぐに逃げ出しているだけでしょう。
 しかし、そんな河村のカンが最近鈍っていると思います。
 この修正案、それも付帯決議について、減税日本ナゴヤが共同提案者に乗ってしまってはいかんでしょう。

 上にも述べましたようにこの付帯決議には、減税財源の為に福祉やら防災の予算は削らないと明記して有るのです(正確な文言はわかりませんが)
 と、するならば。この2月に予算議会が開かれるのですが、その予算について施策が削られているようなら、議会の言いたい放題に戻せてしまうのです。これ、判ります?
 河村は「減税財源は行政改革で」と言っていますが、行政改革と言うのは本来、政策の選択だろうと思います。しかし河村も減税日本ナゴヤもこの選択を放棄したと言う事なんです。
 河村にとっては、名古屋市政における政策選択よりも、国政復帰の際の「恒久減税実現」というキャッチフレーズの方が大切なんでしょう。

 しかし、減税日本ナゴヤはそれで良いの?

 心配になって「あれあれ、減税日本としては、予算要望した事項は後回しになってしまいますね」と私が言いましたら。
「あ、その心配は無い。あの素人集団は予算要望出していないから」だって。
「え?要望書は作っていたじゃないですか」と私が聞くと。
「だって、具体的な話は一つも無いんだから」だそうです。確かに。

 来年の事を言うとナニカが笑うそうですが、来年の2月に、またまた、田山幹事長閣下は、意図せざる行動をしなければならなくなるのでしょうかね?・・・・政治家向いていないって。


※1:今回、自民党市議団が減税条例に賛成するに当たって「賛成しなければ議長ポストを回さないとの恫喝を受けて節を曲げた」という観測があったが、私には同意できない。
 則竹元市議の政務調査費問題等、今のような議長の在り方には問題があるが、だからといって議長ポストを、この案件における交換条件にするほどの重みを持ったものとは思えない。
・・・それと、議会周辺にまたぞろ電波強度の強い文書がばら撒かれているらしいが、その文書についてはまた後日。

※2:この減税政策は市民にとってはマイナスとなる。この数理経済学の結論は揺るがない。(だから、例のUFJの試算は、人口増を無条件の前提としているんだから)
 一般的に「減税政策」というのは「補助金のばら撒き」と等価とされる。ただ、減税によって、例えば今回議論となった自動車税の減税の様に、一定の政策的目的があるのならば、それによって投資効果が見込まれる。しかし、河村流の市民税の減税の様に、一律でばら撒いてしまうのであれば、こういった効果もない。単なる「課税の縮小」「公共政策の撤退」でしかない。
 単に「課税の縮小」が「経済に良い効果がある」というのならば、全ての税を否定すればもっと「効果がある」はずである。しかしそこまで想像してみれば、そんな主張がどれだけ馬鹿げているか判るだろう。

 歳出を一定のままに保って「減税」をするのが今までの「減税政策」であって、この場合は財政的には赤字に振れる、赤字に振れる分だけ信用創造となるので景気に対して刺激を加えることができるのだ。

 河村の語っていることは減税側の話ばかりで、歳出削減を受けて、それらの仕事をしている人々の売上げや給料が減ることには触れていない。
 減税財源を措置するために公園清掃を間引きしたりすれば、これらの人々への賃料は下がっているのだ。

 歳出側の経済効果の話を無視して減税論議をしているので、正当な減税政策に対する世論形成ができていない。

 「正しい経済」の常識から捉えて、歳出が一定の減税政策は経済効果がある。しかし、同じ予算を財政出動として政府支出にまわした方が経済効果は高い(先般の議論と、リチャード・クー氏の立論等、ケインズ以来の経済の常識だ)
 歳出を削減するということは、この経済効果が高い政府支出を減らして、経済効果が低い減税にまわすという事と等価だ。であれば、経済学的な常識として減税によって経済は減速する。

 この経済学的な常識が、今の名古屋の街からは消えている。

 消えた理由は、歪んだ河村の発言が原因だが、それに真っ当な批判を加えてこなかったマスコミにも責任はある。

 この歪んだ報道の所為で、名古屋の市民は河村流減税政策が、あたかも経済効果があるかのような錯覚を持ってしまっている。そして「10%」という数字にも、なんだか大きなインパクトがある政策であるというような幻想を抱いている。

 この歪んだ市長発言と、報道によってフレームアップされた「10%減税」の言葉の所為で市中の「世論」は歪んでいる(当初から「0.6%減税」とすべきだった)
 経済学的にはまったく過ちという他はないが、それでも致し方がない。

 それでも、「民意」であるならば、実現させてみるべきかもしれない。

 ・・・・しかし、間違った「民意」に対して政治的メッセージを送り、翻意をさせられないのであれば、政治家ではない。間違った「民意」に唯々諾々と従うのであれば、先の戦争という悲劇から我々は何も学ばなかったという事になる。
 政治的リーダーはこういった時にこそ、「民意」に向かってメッセージを投げつけるべきだろう。「民意」に諾々と従う程度の政治家は、単なるポピュリストだ。

 更に言ってやろう、その「民意」を勝手に捻じ曲げて作っているような政治家は、いや、そのような者はもはや政治家でもない。己の私利私欲の為に、市民に誤った道を歩ませるものは、単なる扇動家(デマゴーグ)でしかない。

※3:河村が「恒久減税」を形だけ求めて、実際は重く考えていない傍証があります。今回の市民税減税が本当に「恒久的な措置」であるのなら、市税条例の本体である「名古屋市市税条例」を改正すべきだったでしょう。しかし、実際は本体を触ることはしませんでした。本当に迷い無く減税が良き物であって、それを恒久的に続けるべきであると河村が考えていたのなら「名古屋市市税条例」をこそ改正すべきだったのではないでしょうか。
 
※4:共産党が挙げた減税条例、及び修正案に対する5つの反対理由。
①減税を実施した費用対効果など具体的な検証が無いまま、市長の政治的判断のみで提案された条例である事。
②議会からの批判の核心である高額所得者優遇と低所得者への配慮につては、条例上何らの改善もされていない事。
③市長が福祉に全力投球というその中身には、減税されたお金が寄附に回って自分たちがやれる福祉ができるとの答弁だけであり、これでは福祉の充実はまったく担保されず、公的福祉解体を目指す減税であることだけがはっきりした事。
④市民生活への支援や地域経済の活性化など、条例の目的を達成できる根拠も具体的に示せず、財政難の中でみずから効果が薄いと認める施策に来年度79億円、平年度ベースで110億円もの税金を投入する事。
⑤行革減税として市民に負担を被せる恐れが強く、カッコ付きの「行革」だけをさらに推進する事。
以上、どこから見ても庶民減税とは呼べない。

※5:電話が好きだからって、何も無いのに警察に電話するのは、警察も忙しい上に迷惑だから止めましょうね。

※6 追記(12月23日):
付帯決議の内容について、中日新聞が報道するところによれば。

▽市長は年度ごとに次年度の財政見通しを作成し、減税継続への見解を付けて議会へ報告する
▽将来世代に過度な負担を残さないよう持続可能な財政運営に努める
▽財政調整基金の確保に努め、市民サービスの一層の充実を図る

となっている。
私が聞いた2と3については表現が違うが、おおよそのところは同じだろうか。
具体的に福祉事業、防災事業と言う表現でなく、「市民サービス」と言う表現になっているということだろうか。
市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!-モデルケース ところで、記事の中にあったこのモデルケース試算の表なんだが、22年度の実施の際、広報なごやに掲載された試算とは違っている。(こちら

 控除等が重くなっているので、減税額が少々大きく出ているという事だろうか。