忘れがたい絵画があります。
美術館で足を止め、その絵を見ていると、金縛りにあったようにどうしてもその場を立ち去りがたい、そんな絵画です。
スペインの首都マドリードには多くの美術館があります。
誰もが思い浮かべるのは「プラド美術館」で、スペインの誇る宮廷画家3大巨匠、エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの名作が展示され、「裸のマハ・着衣のマハ」や「ラス・メニーナス」の前にはいつも多くの人だかりができています。
しかしながら、このプラドを見終わって外に出てくると、ちょうどイタリア、フィレンツェの「ウフィツィ美術館」を見学し終わったときと同じような疲労感を覚えます。
美術の教科書でしか見たことがなかった絵画がすぐ目の前に、手の届きそうなところにあることの感動はあるものの、あまりにも多くの宗教画や肖像画を前にしていると、いささか食傷気味になってくるのも事実です。
宗教画を見るときに、キリスト教はもちろん、ギリシアやローマ神話、その絵が誕生した中世ヨーロッパの背景を知っているといないとでは、その絵画の理解度が変わってしまう、そんな難しさが中世の絵画にはあります。
その点、印象派の画家達の絵は、その美しさを素直に受け入れれば良いので、世界中で人気があり、これは日本人に限らず絵画におけるグローバルスタンダードだそうです。
私は中世の宗教画が決して嫌いではないのですが、プラドは私のあまり好きな美術館ではありません。
この美術館には晩年のゴヤが「聾者の家」に引き篭もり描いた14枚の「黒い絵」の連作を展示した一室があり、この部屋の絵画たちが発する邪悪なオーラに私の「か弱い精神」は、耐えることができないのです。
マドリードには私のお気に入りの美術館があります。
ソフィア王妃芸術センター、こちらもあまりにも有名な美術館ですが、ここの目玉はピカソの「ゲルニカ」です。
金縛りにあったようにどうしてもその場を離れがたい絵画のひとつがこのゲルニカです。
この絵は1937年、当時のスペインはフランコ独裁政権がナチスの手を借りて、フランコ政権に対峙していたバスク地方の主要都市ゲルニカに大空爆を行い、多くの罪のない市民が殺された事件を題材としています。
ゲルニカをご覧になった方はご存知だと思いますが、この絵はその大きさに驚かされます。
ピカソはこの大作を一ヶ月で完成させます。寝食を忘れ、鬼神がごとく描いたであろう事は想像に難くありません。白、グレー、黒の三色のモノトーンにより描かれ、祖国スペインの罪の無い人々が惨殺された、ピカソの怒り、苦しみ、悲しみが、痛いほど伝わってくる絵画です。
私はこの絵を前にして時間を忘れずっと立ち尽くしていました。
ソフィア王妃芸術センターには、ピカソの名品「青衣の婦人像」や他にもミロやダリの名品、珠玉の作品が多く展示されているのですが、どの展示室にいても磁石に吸い付けられるように再び足はゲルニカに向かってしまいます。
ひとつの絵画を見たときにその背景が個人的な体験に重なることがあります。ゲルニカを見たときその原風景がいったい何であったのか、記憶をたどり、まるで細い小路に入るように記憶を紡いでいくと、それは高校生のころに読んだヘミングウェイの小説にたどり着き、高校時代の夏休み、蝉の声、母が作ってくれたカルピス、カーテンを揺らしながら吹き抜ける風、終わらない宿題、漆黒の夜空に打ち上げられた花火の光に照らされたガールフレンドの横顔、そして寝転びながら読んだ「誰がために鐘は鳴る」、まだ見ぬスペインへの憧れ、そんな憧憬に行き着くのです。
そんな「誰がために鐘は鳴る」に行き着く個人的心象風景が当時のピカソの思いと共鳴して、その場を去りがたくさせていたのでしょうか。
私にとってピカソにはもうひとつ、その場を離れがたい絵画があります。
それは何かの特別展だったと思いますが、東急文化村で見たビカソ13歳の作といわれている「年老いた漁師」のデッサンです。
さて、先般あるアジア投資セミナーの勉強会に出席したときのことです。
その日のテーマはカンボジアへの投資、企業進出でした。
いまや、中小企業といえども海外、特にアジアのマーケットを無視して仕事をすべきでないことはよく理解しているのですが、人・物・情報・金、で大企業に到底及ばない中小企業にとって大企業と同じ土俵、方法でアジアに進出することはできません。
ある種ベンチャー企業のような発想と視点、大企業が相手にしないニッチなマーケットを見つける嗅覚が必要とされます。
そんなことを意識しながら仕事に取り組んでいると、案外人的ネットワークができてくるものです。
今年になっていくつかの商材をテーマとして、中国や韓国の方々とコンタクトを取るようになりました。
そんな流れの中で、アジア投資セミナーの勉強会に出席したのでした。
発表者、パネラーの皆さんがアジア、カンボジアに関しての投資情報を説明してくれたのですが、パネラーの中のおひとりの方が10年ほど前に初めてカンボジアに企業視察に行ったときのことを話してくれました。
その話を聞いて、私は胸が押しつぶれそうな思いに駆られたのです。
カンボジアはご存知のとおり1970年以降、かの悪名高いポル・ポト政権下で大虐殺が行われ、その死者数はナチのホロコーストに匹敵するのではないかとまで言われています。
その内戦時に多くの地雷と不発弾が国土に埋められ、現在でも多くの国々が国家プロジェクトとして、また、ボランティアの方々が地雷の撤去に尽力されていますが、1993年以降国連監視の下で民主政選挙が実施され、特に2000年以降は比較的順調に経済発展を遂げ、日本からの投資、企業誘致も進むようになって来ました。
パネラーの方の話は次のようなものでした。 ・・・
「今から10年ほど前(2000年位)投資環境調査でカンボジアへ行きました。
団体で行ったので工業団地になりそうな所をバスで回りましたが、バスが止まるとバスの周りに物乞いが集まってきました。
その中の一人の母親がまだ小さな子供を抱きかかえながら、物乞いをするのですが、よく見るとその子供の手首がありません。
地雷で失ったと思ったのですが、10年位前ですから、カンボジアの地雷撤去もかなり進んでいて、少なくとも居住範囲での地雷はもう無くなっているはずなのに、おかしいなと思い、現地のガイドに聞くと、それは物乞いにも親分のような人がいて、より多くのお金をもらうために、まだ小さい子供の手首をわざと切って、同情をひいてより多くお金をもらうようにするためです、だから、その子供は実の子供ではなく、身売りされたような子供が多いのですよと答えたのでした。
それを聞いたとき、私は何とかしてこの国を豊かにしなければと思ったのです」・・・
2000年、日本は確かに経済的に困難な時期を迎えていました、しかしながら国民の多くは十分な安全が保障され、少なくとも明日の食事に困るというような状況ではなかったはずです、そのとき日本から飛行機で数時間しか離れていない国で、このような残忍なことが行われていたことに、私は深い憤りと自分の無知を恥じたのでした。
「マズローの欲求五段階論」というあまりにも有名な動機付け(モチベーション・アップ)理論があります。
どんな人間の心にも、五つの欲求段階が存在するというもので。
1. 生理的欲求 空腹・渇き・セックスなど肉体的欲求
2. 安全的欲求 物理的・精神的な障害からの保護と安全を求める欲求
3. 社会的欲求 愛情、帰属意識、受容、友情などを求める欲求
4. 自尊的欲求 自尊心・自立性・達成感などの内的要因の欲求と地位・表彰・注目など外的要因による欲求
5. 自己実現欲求 自分の成長、自己の潜在能力の達成(他人の評価ではない)の欲求
この欲求の段階は、人間は「1の生理的欲求」が満たされると、上のステージへ行く、そしてそれが満たされるとその上というように移っていくため、人間が行動する欲求の動機付けとしては低位のものから順番に満たされることが必要だというものです。
学問的にはマズローの理論を支持するエビデンスがないのでこの理論の正統性の証明はなされていませんが、日常のビジネスの場面ではマズローを引用させていただくことが多々あります。
現在の日本社会をマズロー的に当てはめるならば、3段階「社会的欲求」である帰属欲求が満たされなくなっているのが社会問題になっています。
派遣切りや非正規切り、学生の就職氷河期の問題です。
非正規雇用は全労働者の三分の一まで広がって、その非正規雇用者はいつ職を失うか分からないという不安な状態におかれています。
なぜこのような問題が起こってきたのか、根本原因は日本経済の凋落で、少なくともバブル期の頃は選別さえしなければ学生が就職に困るというようなことはありませんでしたし、企業側はどれだけ多くの働き手が確保ができるかということを競っていました。
正規・非正規問題は実は日本の雇用形態そのものに問題があるのですが、少なくとも経済が伸張しているときにはこのような問題はなかったのです。
さて、カンボジアの子供はなぜ手首を切られなければならなかったのでしょう。
それは手首を切った側の人間がお金が欲しかったからです。
幸福や豊かさを議論すると、経済発展は関係ない、所得が増えることと豊かな人生を送ることは関係ない、世の中にはGNPでなく、GNH(国民総幸福度)という考え方もあるという反論をする方がいます。
所得と幸福度の因果関係は一定レベルで頭打ちになるという統計もあります。
しかしながら、カンボジアの子供の例を出すまでもなく、世の中は最低限のレベルのお金がないと人として幸福な人生を送ることができないことも事実なのです。
経済は世の中を豊かにするためにあるはずです。
そのための経済発展なのです。
現在の日本では多くの「社会的欲求」を満たすことの出来ない労働者がいます。
これは社会として極めて不幸なことなのですが、世界レベルで見ればマズローの第一段階の欲求も満たされない多くの人々が、その次のステージ「安全の欲求」が満たされない多くの人々がいます。
そんな多くの人々のことを考えたら、私たちは、現在の日本を悲観することなく、決してうつむき加減にならず、前向きに現在自分にできる仕事と向き合うことが大切なのではないでしょうか。
一人ひとりのできる仕事の積み重ねがいつかまた、再び日本を経済的「日出ずる国」に押し上げていくのではないでしょうか。
私自身は経済の発展などとそんな大それた事を掲げなくとも、大事なことは今、自分ができることをする、そんな気持ちで日々の仕事と向き合っています。
その小さな積み重ねが少しでも世の中の役に立てば、カンボジアの子供のような不幸な子供を作り出さないことになっていくのです。
プラド美術館のゴヤの「聾者の家」には「わが子を食らうサトゥルヌス」という絵があります。(生涯で二度と目にしたくない絵です)
自己の破滅に対する恐怖から狂気に取り憑かれ、自分の子供を頭からかじっていくサトゥルヌスの絵です。
そんな人間の狂気や醜い欲望に対する怒りからピカソは「ゲルニカ」を描きました。
中小企業の経営者にとってまずできることは、私の周りのステークホルダーたちがマズローの欲求のステージをひとつでも高く上がることができるよう努力することで、自分自身も含め、世界中の経済困窮によっておこる人間の狂気や醜い欲望の芽を摘み取ろうとする志を持ったメンバー(社員)、マズローの5段階、さらにその上の上位概念である、自己超越の概念まで行き着くようなメンバー(社員)を一人でも多く増やしたいと願っております。