胆道閉鎖症の息子と歩む日々

胆道閉鎖症の息子と歩む日々

一万人に一人の確率でなる難病「胆道閉鎖症」を患った息子と歩む闘病記。

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手術を 終えてからは

一日が 過ぎるのが

早く感じた。





ドレーンが
左右から 出ているため
一緒に 眠ることは できず

抜けてしまいそうで
抱っこも 殆ど
できなかった。




術後は 暫く絶食。



どれだけ 泣かれるのだろうと
覚悟して いたけれど
息子は
あまり泣かなかった。




赤ちゃんは 痛みに鈍い。
でも
痛くない わけがない。
しんどかったのだろう。




私は
泣かない息子と
採血データを
眺めながら
一日を過ごした。






肝機能は
手術で 肝臓に
負担が かかっているためか
まだ 高いまま だった。




黄疸を 示す
ビリルビンの 数値も
高いまま だった。






主治医は 毎日
息子の様子を 診にきてくれた。




(もう 泣くのはやめよう)




術後 そう決心してからは
スイッチが 切り替わったように
先生や 看護師さん達と
笑顔で 笑って
話せるように なっていた。





主治医は ボソボソと話す
独特な 話し方だった。




部屋を 出ながら
ボソボソと 話すから
うまく 聞き取れない。





「今 先生 なんて言ってた??」

と 笑いながら 
看護師さんに
聞くこともあった。








ーー術後5日目



思っていたよりも 早く
絶食が 解かれ
白湯を20cc/一日4回
飲めるように なった。




それまで
あまり 泣かなかった息子も
その量の 少なさに
  よく泣くように なった。





飲みたいだけ 飲ませられず
切なくも あったけれど
強く 泣けば泣くほど
体力が 回復してきたと
少し 安心できた。









ーー術後7日目




いつものように
主治医が来た。




ドレーンから 出ている
腹水の色や 白目を診て
いつものように
ボソボソと 呟きながら
部屋を 出ていく






その時





『6000は 欲しいなぁ~。。』




と 主治医は 呟いた。












(6000って………)








その 一言が

どんな見解と 予測のもと

放たれた 言葉だったのか

私は 直ぐに

わかって しまった










『移植手術を する場合

最低でも

6000gは あった方が 良い』








術前に

病気の 説明を 受けた時

主治医が そう 言っていた










術後の 説明では

「術後二週間の経過」が

その後の 予後の鍵 だと

聞いていた。







息子は まだ 術後 一週間。






確かに
この時点でも
肝機能も ビリルビンも
数値は 下がらず
不安がよぎっていた。






(でもまだ一週間あるから…)




そう思い
不安を かき消していた。









しかし 主治医は

息子が 近い将来

移植に なるであろうと

術後二週間を待たず

この時 既に 予測した。













暫く 茫然としていた







術後は 毎日
息子に会えないパパから
何度か 電話があった。





そろそろ かかってくる…






(パパに なんて話そう…)







今は
パパと お姉ちゃんの
ふたり暮らし。




パパが 落ち込むと
お姉ちゃんが
辛い思いを する。






(確定された わけやないし…)






そう思い
パパには 言わなかった。










ーー消灯後

眠る息子を 眺めながら

何度も 弱い心が

波打つように 押し寄せ

声をあげて 泣きたくなった







でも もう泣かないと
強く 決めたばかり。








「泣いて治るわけや
ないもんね。
がんばろね、つきちゃん。
ママも  がんばるからね。」





精一杯の笑顔で

囁いた








(強くなれ!)
(気を 強くもて!)
(しっかりせんと!)
(大丈夫やから!)






自分のなかで

何度も

何度も

呪文のように

繰り返した










そして

ますます

病院の夜が

嫌いに なった








つき。生後65日。
葛西手術後 7日目。