お久しぶりです。

しょっぱなから1週間に1更新という目標を破ってしまいました...

書きたいことが多くあり、次は何について書こうか悩んで考えていたら1か月経っていました。

...ただの言い訳です。こんなことをグダグダ言っていても時間の無駄なので、早速今日書きたいことについてお話します。気楽にゆるーく更新しますので、呼吸と瞬き以外に何もすることがないと思った暇な時間に読んでくださると嬉しいです。

 

今日書きたいことは、自分の21年間生きてきた歴史をところどころ深く浅くお話します。

私は今21歳5か月の人間です。これから先、多くのことを経験して体感していくまだまだ赤ん坊な私でありますが、21年間生きて体感してきて少なからず少しずつ成長を遂げてきました。

今の自分が出来上がった過程を今日は少し紹介します。

 

1998年5月私はこの世に生まれてきました。家族は父母姉私弟の5人家族。

初めに変化したであろう瞬間は家族の影響です。姉は天真爛漫で明るくすぐ人と仲良くなっては、たくさんの人に好かれているというような人間でした。姉の影響力を目の前で見てきた私は、姉の天真爛漫さの真逆で無口で人間観察を一生やっている人間でした。姉は天真爛漫さゆえに母から怒られることが多く、面倒なことが嫌いだった私はそんな姉を見て、これをやってら怒られる、こうすれば褒められるという分析をし、いかに怒られないか、面倒なことを起こさないか、いい子でいるか研究に研究を重ねておりました。

今思えばあの頃の私は賢く生きていました。

親戚の集まりや友達と遊ぶとき、自己紹介をしたり人と話すのがとても苦手だったので、姉が一緒にいるととても心強かったのです。なぜなら姉は私の名前/性格/好きなものすべてを人に説明してくれるからです。

 

「私の名前は○○。この子は妹の◇◇。私はシナモンちゃんが好き!妹はうさはなちゃんが好きなの!仲良くしてね」

といった感じで、自分の自己紹介+α妹である私の自己紹介までしてくれる、おしゃべりさんでした。人と話すことが苦手な私は、姉が人に与える影響力に甘えつつ自分は省エネに黙って遊ぶ、ちょっと孤独な人間でありました。

 

そんな私が変化していったのは小学6年生のころ。黙っていた割には案外友達は多く、人間関係に困ることはありませんでした。じーっと人間観察をしていたので、この子は何をされたら喜ぶであろう、という分析をしてその子を喜ばせる、そういった能力を幼いころに身につけたため、友達に困ることはなかったのです。

今は自分から話しかけたり話題を広げられるような世間的にコミュニケーション力が高いといった人間になりましたが、過去の自分はそうではありませんでした。

 

陰キャラから陽キャラに変化していったのは、小学6年生のころ。母と父の関係が崩れていきました。

母と父は今でもあまり仲が良くなく、喧嘩を多くする関係です。そんな二人とキラキラしていたはずの姉がどんどんぐれていきました。学校の先生にかなりの頻度で怒られ、母は電話で先生と話す日々が増えました。父と良好な関係を築けていない母に姉はさらに負担をかけるように、怖いもの知らずで学校の校則を破り、自分がいきたい人生を歩んでいきました。

 

私は母の前ではぺちゃくちゃと話す人間でした。ママ見て!といって変なポーズをとってみたいり、母に話を聞いてもらったり、母の前では素直に話すことができていました。小さいころの自分に悩み事などあまりなかったので、今日学校であったことや、友達の話をする時間がとても楽しかったのです。

私が小学6年生になったとき、母は自分のことと姉のことで精いっぱいなように見えました。人の感情を人間観察を極めていた影響で敏感になっていた私は、これ以上母に迷惑をかけてはいけない、勉強をやって母に褒めてもらおう、そういった考えに変わっていきました。

 

小学6年生のある日、私は親友と大喧嘩をしました。喧嘩のきっかけは些細なことで今では笑い話にできるようなくだらない内容です。このころの私はすこしずつ友達に心を開き親友といえる子たちには、かなりしゃべれるようになり自分を出せるようになっていました。そんな自分が好きになったのか、自分に惚れていたのか、だんだんと親友の前で生意気になっていきました。そんな私のことが親友はむかつき怒ってしまったのです。

 

喧嘩をしたことで親友たちは私を避け、休み時間に遊んでくれなかったり、登下校を一緒にしてくれなかったり、少し距離が遠くなっていきました。当時はそのことが悲しくてどうしても嫌で頭の中でずっと大雨が降っているような感覚に陥ったのです。自分が悪いのになかなか謝れず、うずうずしている自分にも嫌気がさしました。

誰かに話したい、相談したい、そう思っても母に話す選択はどうしても選ぶことができなかった。これ以上母に負担をかけてはいけない、自分のことは自分で考える、母のためを思って取った行動でどんどん母と離れていくことになったのです。

 

家族は全員、自分のことで精いっぱいに見え家族内に私の居場所はないとそう感じたのです。母に頼っていた自分、姉に甘えていた自分、そんな自分は捨てなければいけない、自分の居場所は自分で作らなければならない、そう考え行動するようになりました。

 

親友との喧嘩は些細な事過ぎて、すぐに仲直りをすることができました。といってもk-popが日本で流行り出した時で私と親友は少女時代が大好きでした。彼女たちのダンスを出し物会で一緒にやろうということになり、ごめんねという言葉は交わさずに、案外すんなりと仲は戻っていきました。

 

友達という存在が私の居場所である、当時の私はそう考え人間関係を友達に重視して生きていくことになりました。悩み事や考えることが年を取ることによって、少しずつ増えていきましたが、友達に相談して解決していくようになりました。そのような関係を築くことが好きになった私は多くの友達がほしい、たくさんの意見を聞きたい、そう思い内気な性格から、勝気な性格に変化していきました。

 

今考えると小学6年生のころの喧嘩で、友達とどうしたら仲直りできるか、母に相談していたら私は今も内気な性格だったのではないかと思います。今の自分は嫌いではありません。むしろ好きといいたいぐらい、この性格のおかげで今は少しだけ友達が多い人間になれました。初めてあう人ともすぐ仲良くなれますし、この性格で損をすることがあまりありませんでした。でも母との距離はこのころからどんどん広がっていきました。

 

当時の自分は頭が爆発するのではないかと思うぐらい孤独すぎる自分に泣き失望しました。ですがどうすればいいのか自分なりに考え、出した答えが人と接することだったのです。姉の明るさをたくさん見てきた私は姉をまねるように、姉をお手本に明るさを演じていきました。次第にその明るさは本来の自分の姿になり自分の物になっていったのです。

 

案外人はちょっとしたことで変わることができる、私はこの経験からこれを学ぶことができました。

それがいい方になのか悪い方向なのかは、その人の生き方にかかわってくることだと私は考えます。

少なからず私はこの変化をかなりうれしく思います。中学高校の経験で今の爆発的な明るさが確立しましたが、原点はここにあったと考えます。

 

今日は自分が変わったであろう原点のお話をしました。次は中学高校で経験し今の自分になるまでの過程を話したいと思います。最後まで読んでくださった方に感謝致します。ありがとうございます。

 

ではまた。