☆掌編小説「我が友ゴジラ様」



 その容貌魁偉な出で立ちからして、まさに人間離れしていた僕の伯父さん。彼の名はゴジラ様。ある夜、京都で煙草を買いに自販機へと下宿から赴くとき、偶然にもすれ違ったゴジラ様がまさか亡父の弟とは気づかなかった。
 彼は、バンパイヤの如く夜になると吠える傾向があるらしい。それは狂人と云うよりは、通常の人間よりもロマンチックな逸話。それは、プラトニックな志向を持つ人間の証。
 そんな伯父さんは、どこで産まれたか? 一応ヒロシマと云う触れ込みだが、実はあの憎きアメリカ合衆国が催した水爆実験が行われた、ビキニ環礁に於いてである。彼はあの「第五福竜丸」で、奇しくも産声を上げた。
 以降の彼は有名校を受験し、何とあの赤門の入学試験に合格した。然しガタイの良い彼を、スポーツ部がほっておく手はない。すぐさま、東京大学のアメリカンフットボールチームが勧誘に招いた。
 そしてクォーターバックとして、レギュラーの地位を獲得。1968年と云えば大学は、ベトナム戦争反対と大学解体宣言により荒れていた。当然コジラ様の通う東大も、その煽りを受けて安田講堂が占拠された。
 然し、ゴジラ様はどこ吹く風とそれと真摯に向き合わず、飽くまでも日和見を貫き、アメフト三昧の生活を送る。
 そして四年が経ち、彼は映画製作に活路を見出す。好きだった映画監督の今村昌平氏のプロダクションに、成績最優秀で新卒入社。
 初めての現場は、あのクラゲ島を舞台にした土俗と慣習に蹂躙された、現地人たちの性と信仰の祭典とも云える映画『神々の深き欲望』からだ。
 筆者も大好きなこの映画には、ゴジラ様の名前がテロップされている。しかも、出演者として。
 そんな彼も日活が倒産寸前でロマンポルノへと変貌するとき、今村プロから日活へと移る。そして、あのビンパチこと藤田敏八監督と仲良くなる。それも、全て東大のお陰だ。そこでは、助監督の他に脚本家も兼ねていた。
 やがて、第一回監督作品が撮れることとなった彼は、あの衝撃的な肉親殺しの映画『青春の殺人者』を監督する。これは、その年のキネマ旬報ベストワンの栄冠を勝ち取った。
 まさに沈滞した邦画界に、カツを入れるべく彼独自のリアリズムとギリシャ神話を援用したエディプスコンプレックスを軸に、一人の若者の逃避行を描いた本作は高く評価された。
 そして、高校生となった私は二年後、大阪はミナミの繁華街・難波の東宝の劇場で、ついにゴジラ様監督の『太陽を盗んだ男』と遭遇する。
 それは、中学校の理科の教師が東海村からプルトニウムを盗み、自宅で原爆を作成して、国家を脅迫する男と山下刑事との破天荒な物語。まさに今までの邦画には、無かった新しいスタイルの映画だ。
 然し、デビュー作には無かったフォルムへの拘りに注目した私は、この映画こそロシア的形象主義に基いた、円形とリニアとの粘着力溢れる戯れの大傑作と評した。
 それから幾星霜。ある夏、私は新宿のとあるビルの前に屹立していた。そこは当時、邦画界を沸かせた監督集団「ディレクターズカンパニー」のあるビル。私はその扉を開けて、元気よく「おはようございます」と快哉した。
 「おはよう」とゴジラ様が窓枠に足を乗せ、外を眺めながら放った一言。そのサングラスの長髪は、私が当時好きだったアルゼンチンのテナーサックス奏者ガトー・バルビエリの姿に酷似していた。
 ゴジラ様の影が、時代を経る事に私に近づく。そして幾度かの遭遇。ある時はファミレスで、ある時は車内、またある時は路上で、あのサングラスを掛けたゴジラ様は、遂に千葉市稲毛区稲毛東の京成サンコーポの1棟の1401号の、我が家へとやって来た。
 それは私がノロウイルスに罹り、高熱と嘔吐を繰り返し寝込んでいたとき。壁を一つ越えたリビングルームからゴジラ様の声が聴かれた。それは私の伯父さんであることも、後に亡父より聞かされた。

 そして齢(ヨワイ)63の私は、屡々近辺でゴジラ様のお姿を拝見するようになった。声を交わしたのも、あのディレカンでの出会いのみ。

 彼は言うなれば、仮想での我が友の伯父さん。最近エックスでフォロワーして頂き、どうもその刺青が目立つ写真を拝見するに及び、やはり水爆実験と共に産まれ、東大でアメフトに興じ、邦画界では猛者として精通していた、暴れ者ゴジラ様。二本しか映画を監督せず、自らを二本(ニホン)映画監督と自嘲するゴジラ様は、我が友であり良きライバル、そして良き血縁として、未だ君臨しているのであります。
(了)