都会の地下鉄は、一種の人間ドックだ。
剥き出しの自意識と、無意識の拒絶。それらが狭い車内に充満し、揺られるたびに混ざり合う。
私はこの空間で、ある特定の光景を目にするたび、言葉にならない、けれど猛烈な「不快」の正体を突きつけられる。
それが、これだ。
〇✕〇✕
お分かりいただけるだろうか。✕が着席している人間、〇が空席である。
ベンチ型の座席において、誰に頼まれたわけでもないのに、示し合わせたかのように一人おきに座り、絶妙な「空席の結界」を築き上げているあの状態だ。
……いや、詰めろよ。
心の底から、そう叫びたくなる。
彼らの言い分は分からなくもない。
「隣に誰かが座るのが落ち着かない」、「適度な距離を保ちたい」という、現代人特有の、あの薄っぺらなパーソナルスペースの死守。
だが、その「一個空けたい」という極めて個人的で我儘(わがまま)な欲求が、乗車率という公共の論理を、いとも容易く蹂躙していることに、なぜ彼らは無自覚でいられるのか。
あの一席分の空白は、単なる隙間ではない。
それは「ここから先は入ってくるな」という、無言の、そしてひどく排他的な拒絶の意志だ。
その一席があれば、仕事帰りの疲れ切った会社員が、あるいは重い荷物を持った学生が、腰を下ろして一息つけるかもしれない。
そんな想像力よりも、自分の肘が誰かの服に触れないことの方が、彼らにとっては重要なのだ。
私は、そういう「スマートを装ったケチな自意識」が、どうしようもなく嫌いだ。
かく言う私は、あえてその「〇」に座りに行く。
周囲が「ああ、そこ座るんだ」という、微かな驚きと戸惑いを孕んだ視線を向けてきても、私は知らん顔でその一席を埋める。
私にとっての正義は、一列に並んだ椅子が、その機能を最大限に全うすることにあるからだ。
「詰めろよ」
その一言が言えないから、私たちはこの不自然なチェック柄の座席配置を、暗黙の了解として受け入れている。
けれど、そんな小さな妥協の積み重ねが、街の温度を少しずつ下げている気がしてならないのだ。
言葉を尽くして愛を語る前に、まずは隣の席を一席、空けてやる勇気。
いや、違う。一席詰め、誰かが座る場所を作ってやる優気(ゆうきと読む。造語だ)。
それこそが、本来あるべき「粋」というものではないか。
地下鉄の窓に映る、歯抜けのように座り込んだ乗客たちの姿。
それは、豊かさの中で他者を排除し続ける、私たちの不器用な心の縮図に見えて、私は少しだけ、寂しくなる。
次に地下鉄に乗る時、もし私の隣が「〇」だったら。
私は躊躇なく、その一センチの隙間を埋めるために、腰を下ろすだろう。
「〇✕〇✕」の連鎖を断ち切ること。
それが、私なりの、ささやかで執念深いロックンロールなのだから。
