紀元前463年、爆誕。
この作品は歴史小説ではない。(何度目だよ)
なので、本来であれば取り上げる機会は無かったはずだが、題材が世界史的には重要なことであること、作品自体は宗教の……仏教の作品ともなるのでハードルが高くなるが文学性が高いなどの理由から取り上げさせてもらった。
それでは、行ってみよう。
作品のあらすじ
カピラヴァストゥの地に、インドにおける伝説的な王イクシュヴァークの末裔にしてその者に等しいシュッドーダナという名の王がシャーキャ族にいた。
その王に、あらゆる女神に等しい美しさを備えたマーヤーという名の妃がいた。
ある時、蟹座が吉を示した日。マーヤーは脇腹から陣痛も病もなく男子を産んだ。
その子は胎内で劫の時間を過ごしたために知性を備え、分別を弁えていた。
あらゆる神や精霊、自然、そして身分を問わない全ての民がその子の誕生を祝う。
その王子は重々しく七歩歩いて語った。
「さとりのため、世の利益のために私は生まれた。これが輪廻における私の最後の誕生であるように」
王子は成長した。未来と希望を見いだした王によって子を宮廷に住まわせ、多くの財を与え何の不自由も無い生活を送らせる。
しかし、王子は宮廷からは出られない。ある時、外の世界に興味を抱き始めた。
王にとっては好ましいことでは無いが、愛する我が子の気持ちを理解したのか遊山の整備を行う。
王子の通り道に不幸な者や苦しむ庶民が現れるのを禁じ、怪我を負った者や老いた老人でさえも外に出るのを厳しく制限し、王子に会わせないようにした。
しかし、それを見た神たちは「都が天界のようだ」とし、「王子を出家させねば」と一人の老人を創り出すと都に放ち、王子に会わせた。
老人を見て不思議に思った王子は使いに尋ねた。
「この者は髪が白く、杖にすがっている。身体も曲がっていて弱々しい。これは何なのか」
「王子様、それは美しい姿や体力を奪い、悲しみを生み出し、快楽を果てさせ、記憶をも消させる"老い"と呼ばれるものです」
「私もああなるであろうか」
「長寿になれるあなたでも、時の力によって成ってしまいます。そうなると知りながらも人々はそこへ向かうのです」
それを知った王子は強いショックを覚え、道を引き返しては宮殿へと戻ったが、王子はいつまでも老いについて考えることとなった。
また別の機会に王子は外に出たとき、神たちは今度は病に冒された男を創り出し、都に放つと王子はまたも遭遇してしまう。
「あれはなにか」
「かつては壮健だったが身の自由がきかない男です。それは"病"という大きな不幸なのです」
「これはこの男のみに起こるものなのか」
「この弱点は人に共通するものです。人々はもろもろの病に苦しみつつも、生きていくのです」
再び強いショックを受けた王子は道を引き返すと館へと戻ってしまった。二度も不自然に帰ってくるのをみると王も不思議に思う。王は道を整備しろと家来を叱責しつつも、気分転換にと王子をまたも外に出させた。
今度は神たちは一人の死者を創り出した。
王子は四人の人に運ばれる棺を目撃する。
「あれはなにか」
「誰かは分からないが、知性や感覚など全ての性質を失い、眠られた姿です」
「これはこの男のみに起こることなのか」
「これは全ての生き物の最後の姿です。卑しくとも偉大であっても、この世の全てのものの消滅は決まっております」
死を知って強いショックを受けた王子だったが、その心は決して休まらない。
王子は決意した。
「生死の彼岸を見なければ、カピラに因んで名付けたこの都に入ることはないだろう」
そう言って、王子は都を離れ、家族とも離れ、修行の道へと進んだ。
王子の名はゴータマ・ブッダ。のちに仏教と呼ばれる新たな教えを創り出した聖者である。
感想
ブッダが超人すぎる。
宗教に関する書物とは思えないほど、美しい文体、美しい物語で非常に興味深く、面白い。
インド由来の独特な雰囲気、世界観が楽しめるのが何よりも良い点だ。
読み物としても良いのだが、この作品のタイトルにあるように(チャリタとは所行という意味)、ブッダの生涯を知るテキストとしても有効だろう。
ただし、はじめに述べた通り誕生の瞬間から最後の涅槃に至るまで、彼の超人無双ぶりがこれでもかと描かれている。
これは、全ての宗教に纏わる人物に対して言えることで非常にデリケートな問題であるのだが、史実における人物であることと、経典にて表された人物とは別にして考えるべきではないだろうか。
キリスト教のイエス・キリストと、ナザレのイエスは別であるように、釈尊とシャーキャ族のゴータマは切り離して見るべきだろう。
……とはいえ、史実におけるシャーキャ族のゴータマの資料は皆無に等しい。そのため(経典であるため当然だが)宗教色の強いこの作品に目を通してみるのもアリと言えばアリなのではなかろうか。と言うより、この方法しか無いのが実情だ。
この作品は描写が緻密で時には美しさをも感じるがそれ故に長く、人によっては冗長に感じるかもしれない。それと、この作品はやたらと固有名詞や専門用語が頻繁に出てくる。ある程度注釈が付いているとはいえ、見慣れない単語の連続に混乱することもあるかもしれない。
総じて、読んでみて思ったことは「面白い事には間違いなく、物語として読むという選択に間違いは無いが、全体的に難しく読むのに苦労した」というのが隠しようもない正直な気持ちであるだろう。
しかし、その分見所も多い。特に私が注目したいのは釈尊の誕生から、外の世界で多くのものを見たが故に思い悩むシーンだろうか。一般的にも有名な故事をここでも楽しむことが出来る。
そして、もう一つはそんな釈尊の最期であろう。
そこについては次で詳しく述べたいと思う。
史実における釈尊
世界史という観点からゴータマ・ブッダを探るのは非常に難しいといえる。
まず、彼が生きていた同年代の資料が皆無に等しい。一応ブッダが実在していたこと、彼がシャーキャ族のクシャトリヤとして生まれた事などは史実であるらしいことは分かっている。後年のものにはなるが、多くの資料で語られているからだ。
だが、それ以外の事績は不明な点が多い。まず、生没年すらもよく分かっていないのだ。
考古学的には紀元前七世紀から六世紀かけての人物らしいとは言われているが異説も多数存在し、それらよりもずっと後の時代の人物だと主張する者も居る。
このブログ記事においては真っ先に"紀元前463年爆誕"と書いてはみたが、これは正確なものとは必ずしも言えるものではなく、私が「まぁこの辺りの人物だろう」と勝手に思って勝手に綴ったものであるため鵜呑みにしないでいただきたいところだ(じゃあ書くなよ)。
シャーキャ族の城も何処にあったのか比定されていない。
カピラヴァストゥという地が何処を示すのか手掛かりは少なく、後の時代の僧侶たちがわずかに言及するのみで、それ以後は歴史に埋もれてしまった。最近になってそれらしい地点が判明しつつあるらしいが、インドとネパールの両国がそれぞれ政治的に利用しているせいもあってハッキリと言えない。
ブッダの最期については、この書物の記述と相まって気になる一幕といえるだろう。
『ブッダチャリタ』においては、その間際まで旅を続け、教えを説いて回る内に入涅槃を悟る。
時には悪魔マーラが現れ、「成すべき事を成し終えた。汝は今、涅槃に入れ」と言うが、ブッダはこう返答する。
「三ヶ月経てば涅槃に入ろう」と。
さて、最後の旅の途中、鍛冶屋のチュンダから家に招待されたブッダと弟子たちはそこで食事をした。食事の後にチュンダに教えを説き、その後も旅を続けている。
注釈によると、これが最後の食事となるらしい。
そのため、食にあたって入滅したのでは?と言われており、一説にはキノコか豚肉若しくはその両方だったのではとされている。
シャーキャ族がその後どうなったのかもよく分かっていない。
強国に吸収されたとも、住む者全てが滅ぼされ全滅したとも言われている。
最も有名な話では、シャーキャ族の部族国家は小さいながらも存続してはいたが、南の大国コーサラ国に滅ぼされた。
コーサラ国の王は、母がシャーキャ族の出身の身分の低い女であったために多くの人から馬鹿にされ、それを恨んでシャーキャ族を滅ぼしたのだという。こちらも伝説の域なので断定は出来ないのだが、仮に早い段階でシャーキャ族の国がコーサラ国の属国であったならば滅ぼされる事は無かったのではないだろうか。
ただ、確実に言える事はこの『ブッダチャリタ』の作者とその年代だ。
中国の文献等によると、著者はアシュヴァゴーシャという西暦一世紀から二世紀にかけての僧侶だという。バラモンの家に生まれ、もとは仏教には否定的であったがのちに帰依し、仏教詩人として名を馳せると時の王カニシカ王の目に留まり、保護されたという。
それからは彼の書いた書物はサンスクリット語やチベット語に翻訳され、大きく散逸するものの、ネパールにおいて写本として写され、他にも漢訳されるなどして今日に伝わっている。
一般向けには難解で理解するのに困難を要する箇所もあるかもしれないが、物語としては美しいし、ゴータマ・ブッダという一人の人物を知るには、そして仏教という宗教を知るためには必須級の書物であるという事ははっきりと明言しておきたい。