キリスト教はユダヤ教の一派として出発した。割礼を受けたイエスキリストの包皮だと誇称し、それを聖遺物として聖別していた教会さえ存在していたことがある。

 しかし割礼は原始キリスト教の時代から、イエスの教えを異邦人に宣教するためには重大な障害となっていた。

 「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。それでパウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることになった」(『使徒言行録』1512節)。

 使徒会議の結果、「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切をあなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献じられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いを避けることです。以上を慎めばよいのです」(同2829節)。

 そこでパウロは、「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか」(『ローマ信徒への手紙』22526節)、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」(『コリント信徒への手紙』719節)、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(『ガラテヤ信徒への手紙』615節)、と繰り返し説いている。

 パウロはユダヤ教からのキリスト教の独立を宣言したが、戒律の一部を変更しただけで、キリスト教はユダヤ教から派生した一神教、あるいはユダヤ教の分派ということになる。

 ムハンマドは40歳のとき、610年ころ、メッカの山の洞窟の中で神の啓示を受けた。「読め、創造主なる汝の主の御名において、主は凝血から人間を造り給うた。読め、汝の主はいとも心ひろき御方、筆とるすべを教えたまい、人間に未知のことを教え給うた」(『コーラン』961-5節)。

 ムハンマドは、彼に啓示を下された神はユダヤ教、キリスト教の神と同じ神だと考えた。なぜならば、それぞれの神が別の神々であれば、唯一の神が二つあるいは三つになってしまうからだ。啓示(コーラン)はユダヤ教徒とキリスト教徒のことを「啓典の民」と、何度も繰り返している。つまりヘブライ語聖書、福音書、コーランはともに一神教の聖典ということである。

 戒律はむしろユダヤ教よりも厳しい。ユダヤ教の食事制限をコーシャーというように、イスラームにもハラールという食事制限がある。割礼も免除していない。研究者の中には、イスラームはユダヤ教の異端、という者さえいる。

 私がなぜ「試論:一神教アラビア起源説」を展開したか、「キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒は皆、一神教の同胞であり、ユダヤ教徒が迫害されたり、西洋のメディアが預言者ムハンマドを冒涜する謂れはない」、ということを主張したかったからだ。

 テロリストは現代社会のどこにでも存在する。それは政情不安、権力闘争、犯罪、イデオロギーを原因としており、宗教とはまったく無縁の出来事である。ムスリムがテロ事件を起こすたびに専門家と自称する人々が現れ、あたかも宗教と関連するかのように言及する悪癖はやめなければならない。